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10 旅の前に採決
父を前にし、沙帆子は必死に笑いを堪えていた。
いま幸弘は、気の抜けた顔で沙帆子と啓史を見ている。
『パパ、残念でしたぁ』なーんて、からかってみたいけど……やめておこう。
「まったく、つまんねぇやつらだな」
出鼻をくじかれて悔しかったのだろう、幸弘はそんな難癖をつけてくる。
「まあまあ。幸弘さん、今回は男らしく負けを認めて、啓史君と沙帆子の勝ちでいいんじゃない?」
芙美子が楽しそうに言ってくる。
ママってば、ずいぶん楽しんでるな。
先生とわたしに、このどうにも派手な服をおしゃれに着こなすコーディネートのヒントをくれたのはママなのに。
「それより、いつまで玄関でにらめっこしてるつもり? 上がったら」
「えっ、温泉は? わたし、すぐに出発するものだと思ってたんだけど」
「ここからは一時間くらいで行けるところよ。ちょっとお茶でも飲んでから出発しましょう」
芙美子はそう言って、すぐに居間に入って行く。
それもそうか。ここまで二時間、先生は運転してきたわけだし、休憩した方がいいよね。
靴を脱いで家に上がり、居間に向かおうとしたら、啓史が肩に手を添えて引き止めてきた。
「なんですか?」
そう問いかけたが、啓史は居間に入ろうとしている幸弘に呼びかける。
「幸弘さん」
「なんだ?」
「和室で、寝転がってきていいですか?」
「おう。好きなだけ寝転がってこい」
幸弘は手を軽く振り、居間に入っていった。
畳に寝転がるのか。いいかもぉ。
胸を弾ませ、啓史に続いて沙帆子も和室に入る。
うわーっ、畳の香り♪
好ましい匂いに思わず鼻孔を膨らませ、胸いっぱいに香りを吸い込む。
「やっぱり、この部屋いいな。何もないのがいい」
確かに、この和室には何もない。
「なんか、すでに旅館に到着しちゃったみたいな感じがしません?」
「雰囲気としてはそうだが……旅館にしては物がなさすぎだな」
そう言われればその通りだ。
沙帆子はくすくす笑い、縁側に駆けて行った。
ここからの眺めがまたいいのだ。
「沙帆子、窓を開けてくれるか?」
「あっ、はい」
窓を開けると、網戸越しにそよそよとした風が入ってくる。
心地よい風を楽しみ、啓史を振り返ったら、彼は畳の上に大の字になって寝転がっていた。
わっ♪ わたしも!
沙帆子は啓史と並んで横になる。
なんかいいかも! 胸が楽しいもので膨らむ。
「気持ちいいな」
「はい。気持ちいいですね」
「お前ら、これから温泉だってのに、ずいぶんくつろいでるじゃないか」
幸弘の声がし、寝転がったまま顔を向けると、「お茶入ったぞ」と言い、行ってしまう。
「パパったら、好きなだけ寝転がって来いって言ったくせに……」
唇を突き出し、すでにいない父に向けて文句を言ったら、啓史が笑う。
「まだまだ転がっていたいんだが……行くか?」
残念そうに言いながら啓史は先に起き上がり、沙帆子に手を差し伸べてくれる。
その手をありがたく握り締めると、ひょいと起き上がらせてくれた。
居間に行くと、いつもの場所に幸弘と芙美子が座って、お茶を飲んでいた。
沙帆子と啓史も、ここでの定位置に座る。
そのことに胸がちょっと膨らんだ。
この居間も、わたしたちの居間になりつつあるなぁ。
「さあ、四人揃ったわ。採決を取るわよ、幸弘さん」
採決?
「ママ、どういうこと?」
「幸弘さんが、カーナビなんか使わずに行くって言ってきかないのよ」
えっ⁉
「パパったら、また?」
実は幸弘は、車で旅行に行くとなると、いつでもそう言うのだ。そして強引に実行しては、旅先で迷うことになる。
「旅には地図だ。断じてカーナビじゃない。だいたいだな、カーナビってやつは頼りにならないことが多いじゃないか」
幸弘の意見を聞き、芙美子がむっとする。
「それは、幸弘さんがカーナビのデータを更新しようとしないからでしょう」
そうそう。ママの言う通りだ。と沙帆子は思ったが、幸弘も負けてはいない。
「古いままだからこそ、カーナビなんてものにも人間味が出て愛着が湧くってもんだ。最新のカーナビは、ほんとに可愛げがない」
ナビに可愛げとか……
呆れていたら、沙帆子の隣に立っている啓史がくっくっと笑い出した。
「啓史、お前は僕の思いが分かるよな? 分からないとは言わないよな?」
「……そうですね」
啓史の迷いのある返事に、幸弘は即座に拳を固めて「よし!」と言う。
「ちょっと幸弘さん、啓史君はまだ賛成してないわよ」
「そんなことはない。だよな、啓史?」
幸弘は鋭い目で啓史を見据える。
啓史が口を開こうとしたら、慌てたように芙美子が口を出す。
「あのねぇ幸弘さん、わたしは山奥で迷子になんてなりたくないのよ」
「迷子になんてなるわけないだろ。ちゃんと目的地までの地図を印刷してあるんだ。カーナビなんてもので到着しても、なんの達成感もない」
達成感って……パパったら、ほんと相変わらずだなぁ。
「ああ、そう言うことでしたか……幸弘さんの車のカーナビ、バージョンが古かったから、俺のマンションに到着できなかったんですね」
啓史がいまさら気づいたように言う。すると芙美子が我が意を得たりと言わんばかりに話に食いついた。
「そうなのよ。それでよく道に迷うのよ。カーナビがちゃんと誘導してくれれば、沙帆子の荷物を啓史君のマンションに運んだあの日だって、迷子にならずに済んだのに」
そうだった。そんなこともあったっけ、と懐かしく思いだす。
「あ、あの日はなぁ、特別だったんだ。ふ、普段の僕なら……あんなことには……」
幸弘は徐々に勢いをなくし、語尾を濁す。
「とにかく、わたしとしては最新のカーナビを搭載している啓史君の車で行きたいわ。どうかしら、啓史君?」
「それは構いませんが……俺のも、そこまで最新式というわけではないんですよ」
「これから行く温泉宿が登録されてれば充分よ」
「ちょっと待て、啓史。お前は誰の味方なんだ? 当然僕だろ? 男なら僕の言ってる事、わかるよな?」
「啓史君はわたしと沙帆子の味方よ。そうよね、啓史君」
ふたりから詰め寄られた啓史は、沙帆子に向いてきた。
「沙帆子、お前はどっちの肩を持つ?」
「えっ、わたしですか?」
父と母を見ると、どっちも期待の眼差しを向けてくる。
カーナビで行くか行かないかで、これほど盛り上がるとか……面白いけど……
「わたしは、先生の……啓史さんの肩を持ちます」
「俺?」
「はい。啓史さんが決めてください」
「なら……幸弘さんの車で行くってことで……それで必要に応じでカーナビを使うってことでどうですか?」
「啓史、お前わかってるじゃないか」
「別に幸弘さんの肩を持ったわけじゃないじゃない。啓史君は、必要に応じてカーナビを使うって言ってるんだもの」
「僕も必要に応じてカーナビを使うつもりだったさ。それじゃあ、出発するか?」
幸弘は意気揚々と立ち上がり、みんなを急かしてきた。
芙美子は肩を竦めつつも、笑いながら立ち上がった。
そしてついに、温泉出発と相成ったのであった。
つづく
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