ナチュラルキス ハートフル
natural kiss heartful



17 ともども納得



慌しくお弁当を作っていた沙帆子は、ようやく出来上がり、ほっと息をついた。そして雨音の響く窓の外を見る。

「ずいぶん降ってるなぁ」

何気なく口にしたら、背後から「今日は一日降り続くみたいだな」と啓史の声がした。

そこにいるとは思っていなかったから、沙帆子は驚いて振り返った。

「先生」

ワイシャツ姿の啓史は、スーツの上着とネクタイを手にして、窓の外を見ている。

朝食を終えて着替えのために二階に行っていたのだが、気づかぬうちに降りてきていたようだ。

実は今朝も寝坊してしまったのだ。
先生、わたしより早く家を出なくちゃならないっていうのに……

週末、両親と温泉に行って、夕食はバーベキューをして帰ってきた。
すっごい楽しくてはしゃいじゃったけど、それでもそんなに疲れてはいなかった。

だけど……まあ、その……寝る前にあれやこれやあったりしたから……

うわーっ、わたしぃ、思い出すなぁ‼

みるみる頬が赤く染まる。
慌てた沙帆子は熱っぽくなった頬を力任せにぎゅっと押さえつけた。

「沙帆子、どうした?」

一人焦っている沙帆子を見て、啓史はいぶかしげに問いかけてきた。

もちろん本当のことなど言えるわけがない。

「な、なんでもないです。あっ、ネクタイ結ばせていただきます」

誤魔化すように言って、啓史に歩み寄る。

「お前、いま手は空いてるのか? なんならこれ、俺が自分で結ぶけど」

ネクタイを持ち上げて見せつつ、そんなことをおっしゃる。

いやいや、ネクタイを結ぶのはわたしのお楽しみだ。なにがなんでも結ばせていただく。

「空いてます」

即座に返事をして、啓史からネクタイを受け取る。

啓史と向かい合い、ネクタイを啓史の首にかけた。身体が触れそうなほど接近し、心臓がバクバクしてきてしまう。

ネクタイを結ばせてもらうようになって、まだそんなに経っていない。
頬を赤らめてぎこちなくネクタイを結ぶ沙帆子を、啓史は愉快がっているようだ。

それにしても、一度も満足のいく仕上がりにならないんだよね。
どうしても微妙に歪んでしまう。
ネクタイをまっすぐに結ぶのは、ほんと難しい。

歪んでいても佐原先生は結び直したりしないから、新学期が始まってから先生のネクタイは常に歪んでしまってる。
正直、それがとても気になってる。

そしていまも……

「やっぱり歪んじゃう」

反省を込めてぼそぼそと口にしたら、啓史がくっと小さく笑った。

沙帆子は顔をしかめて啓史に向く。

「笑い事じゃ……先生、わたしが完璧に結べるようになるまで、自分で結び直して……」

「これでいい」

沙帆子に最後まで言わせず、啓史はそっけなく言葉を被せてくる。

そんな啓史に、嬉しくて頬が弛んでしまうわけで。

結び直さないでくれるのは、やっぱり凄く嬉しい。けど、歪んでいるのは気になるんだよね。

となれば、少しでも早く、完璧に結べるようにならないと。

よし。

握り拳を作ってガッツを入れた沙帆子は、キッチンに駆けていき、啓史のお弁当を取ってきた。

「先生、お弁当」

「ああ、ありがとな」

そっけないお礼なのに、十分感謝の気持ちが伝わってくる。

弁当と鞄を手に持ち玄関に向かう啓史の後に沙帆子もついて行く。

新妻としては、もちろん愛する夫を見送りたい。

玄関で見送り、行ってらっしゃいのチューを日課とするのが夢であるのだが……現実にするのは、なかなか難しいのである。

「お前、まだやることあるんじゃないのか? 無理して見送らなくてもいいぞ」

確かに、家事もろもろ、家を出る前にやっておきたいことはいっぱいある。

あるのだが、先生を玄関まで見送りたい。そしてできれば、日課希望の、行ってらっしゃいのチュー……

「学校で顔を合せるんだしな」

新妻の切なる希望になど思いいたりもせぬようで、啓史が言う。

まあ、それはそうだけど。

今日は物理の授業があるから、百パーセント顔を合せることになる。

「見送りたいんです。あっ先生、タオル持って行かなくていいですか? 土砂降りだし、傘を差してても濡れちゃうかも」

「俺は車だから、そんなに濡れることはないさ。お前の方が濡れるに違いないぞ。タオル持ってけよ。それじゃな」

沙帆子の頭にポンと手で触れ、啓史は玄関ドアを開けた。

ザーッと大きな雨音が響く。

「ひどい降りだな」

空を見上げて啓史が呟いた。

感心したような苦笑交じりの声だったから、雨空を見て顔をしかめていた沙帆子も笑みを浮かべてしまう。

「ですね」

啓史は傘をパンと小気味よい音を立てて差し、車まで駆けていった。

すぐに乗り込み、車は瞬く間に走り去ってしまう。

行っちゃったかぁ。

淡い寂しさを感じつつ家に戻った沙帆子は、時間ぎりぎりまで家事をやり、身支度して自分も家を出た。

啓史が家を出るときには土砂降りだった雨も、ありがたいことに雨脚が弱まってきていた。

果樹園の中を抜けていく道はぬかるんでいて、歩くほどに靴の底に泥が貼りつき重くなる。

それは気になるものの、雨降りの中であっても緑に彩られた景色は悪くない。

雨音に合わせてハミングしつつ、沙帆子は小道を歩いて行った。





「もう、これ見てよ! 制服のスカートの裾、ビショビショになっちゃったよぉ」

いつものように時間ギリギリに登校してきた詩織は、頬をふくらませながら千里と沙帆子に訴えてくる。
見ると、詩織のスカートの裾はかなり濡れそぼっている。

「あんただけじゃないから。みんな同じよ」

「詩織、これ使う?」

沙帆子は、詩織にタオルを差し出した。こんなこともあろうかと余分に持ってきたのだ。

「わあっ、使っていいの? サンキュ」

詩織は大喜びでタオルを使う。

「天野君、まだ来てないけど……お休みかしら」

自分の前の席を見つめ、千里が言う。確かに教室のどこにも天野の姿がない。

「天野君が欠席なんて……一度もなかったと思うんだけど」

天野は、千里と同じで一年の時から同じクラスなのだ。彼が休んだ記憶は沙帆子にはない。

「けど、もう時間だし……」

そんなことを言っていたら、バタバタと走る足音が聞こえてきた。

そして、開け放されていたドアから天野が教室に飛び込んできた。

「はあ、やりー、間に合ったぁ」

大きな声で安堵の叫びを上げ、天野はどさりと自分の席の椅子に座る。

「休みかと思ったわよ」

千里が笑いながら天野に言った。

天野は吹き出した汗を制服の袖で拭きつつ、笑い返す。

ずいぶん爽やかな笑顔だ。

天野君、何かいいことでもあったのかな?

「学校には、一時間前に来てたんだ。ちょっと野暮用で」

「野暮用?」

「うん。今朝は、放送部の打ち合わせがあったんだ」

「そうなの」

天野は一年生の時から放送部なのだ。三年生になった今は部長をやっているらしい。

天野を交えておしゃべりしているところに、担任の熊谷がやってきた。

副担任を務めている啓史は今日もついてきていないようでちょっと残念。

すぐにホームルームが始まった。

三時間目の授業が終わり、沙帆子は落ち着きなく次の授業の準備をした。

四時間目は物理なのだ。今日は二回目。

なんか緊張しちゃうなぁ。

そうそう、先週はロボット部のみんなで、物理室の掃除をしたんだっけ。たぶん、今日もその続きをやるはず。

一回目の部活の時、詩織の元カレの藤野君がいて、びっくりさせられたっけ。

けど、藤野君には本来の部活であるバスケがあるわけだから、ロボット部にはそんなに顔を出せないんだろうとは思うけど……これから、どうなっちゃうんだろうなぁ?

教材を抱え、千里と詩織と一緒に物理室に向かう。

「佐原先生の授業を、また受けられるなんてね。わたしたち、ほんとラッキーだよね」

前を行くクラスメイトが、隣を歩く子に話しているのが聞こえてきた。

啓史の話題にどきりとしつつも、彼女たちの言葉に同意してしまう。

「うんうん。二年の女子たち、すっごい悔しがってるみたいだよね」

「ああ、部活の後輩もそう言ってたよ」

そうか。佐原先生があのまま化学を受け持っていれば、先生の授業を受けられたはずの子たちが受けられなくなってしまったわけだ。

まあでも、来年になれば物理の授業を受けられるんだものね。……そのときには、わたしはもうこの学校を卒業してて……うーん、そのことを考えるたびになんとも複雑な気持ちになっちゃうなぁ。

物理室に入り、自分の席に着く。

どんな内容なんだろうと楽しみな気持ちになる一方で、ちゃんと授業について行けるかと少し不安に駆られる。

そんな沙帆子の不安になどお構いなしに、授業は始まった。

チャイムが鳴り終わる前に全員が席に着き、そして間を開けず、物理室と準備室の間にあるドアから白衣の啓史が姿を見せた。

彼の妻となり、一緒に暮らしている立場だというのに、むやみにドキドキしてしまう。

啓史の講義は分かりやすく、頭にすんなり入ってきた。
興味深い実験も盛り込まれていて、あっという間に授業は終わってしまった。

啓史は、男子生徒と二言三言軽口を叩き合い、準備室に引き上げてしまう。

あーあ、もう行っちゃった。けど、授業は面白かったな。

思わず満足の息を吐いてしまう。

「ほら沙帆子、教室に早く戻ろ。わたし、もうお腹ぺっこぺこ……」

詩織がそう言っていると、持ち物を急いで抱えた天野が驚異的なスピードで飛び出て行った。

「な、なんなの、天野君?」

詩織が目を丸くして言う。

「放送部の当番なんじゃないの」

千里のその一言に、沙帆子は詩織ともども納得したのだった。

この時の沙帆子に、このあと起こる出来事など、知るよしもなかった。





つづく



   
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