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19 お気の毒
「佐原先生、よかったー!」
佐原に駆け寄った天野が、最大の感激と安堵を込めた叫びを上げた。
天野を見つめた啓史はいくぶん戸惑い顔で、チラリとカメラを見る。
啓史の視線がこちらに向いた瞬間、キャーッと興奮した桃色の悲鳴で満ちる。
「わたし、佐原先生の顔を初めてまともに見たかも」
テレビの前に座り込んでいる女子の一人が、興奮して口にする。
すると周りからも、複数の同意の声が上がった。
沙帆子も、思わず頷きそうになった。
啓史の顔をまともに見られないという気持ちは、彼女もとてもよくわかる。
だって、わたしもずっとそうだったもん。
もし目が合ったとしても、まともに見ていられなくて、すぐに視線を逸らしてしまうんだよね。
そんなことを頭の中で巡らしている間に、テレビの中の天野は、突撃お昼ご飯の企画を仕切り直した。
「佐原先生、昼食突撃隊です。ぜひ、先生の昼食を拝見させてください!」
啓史に迫る勢いで、息せき切ったように言った天野は、手にしたマイクを啓史の口元に近づけて両手で捧げ持った。
両膝を半分折り曲げたなんともおかしな姿勢を取っている。
まるで王様を前にしてひれふさんばかりの家来のようだ。
返事を求められた啓史は、眉をひそめる。
そんな些細な仕草に反応して、またもや「きゃーっ」と黄色い悲鳴が上がる。
啓史が口を開くかと、沙帆子は彼の口元に見入った。だが、彼は口を開ける様子がない。
これは、答えに窮しているのだろうか?
そのとき、千里が「あ」と小さな声を上げた。
小声ながらひどく逼迫した声で、気になった沙帆子は千里に振り返った。
目が合うと、千里は唇に指を当てて沙帆子に黙るように指示する。
いったいなんなの?
戸惑っていたら、テレビから「佐原先生」と、荻野の声が聞こえてきた。
その声につられて、沙帆子はまたテレビに向き直った。
「ここはもう、彼らの求めに応じるのがいいんじゃないですか?」
荻野のありがたい後押しに、天野は「ありがとうございます」と礼を言う。
そして啓史に向き直り、「よろしくお願いします!」と姿勢を正してほぼ直角に頭を下げた。
そんな天野を見て荻野は笑い、化学準備室のドアへと、天野のことを促がしてくれる。
化学準備室の中に入ろうとする荻野と天野が映っているが、啓史の姿が見当たらない。
沙帆子は思わず画面の中のあちこちに目を向け、啓史の姿を探してしまう。
「もおっ、カメラマン何やってるの?」
「ほんとよ、佐原先生を映してよ!」
苛立った声が上がり始めたが、すぐに化学室の中が映り、そこに啓史がいた。
なんと、ソファに座ってお弁当を食べているようだ。
「やったー! 佐原先生、映ったぁ」
みんなが喜んだのも束の間、カメラの前に天野がしゃしゃりでてきた。
啓史は天野の背後に完全に隠れてしまう。
「もおっ、天野君ってば、なにやってんの?」
「佐原先生が見えないじゃないの」
「さっさとどきなさいよ。バカじゃないの!」
画面の中の天野に声は届かないのに、女子のみんなはムキになって怒鳴る。
さらに沙帆子の隣に立っている詩織も、「ほんとだよ」と賛同の声を上げる。
まさか自分の教室でバカ呼ばわれされているとは思いもしないだろう天野は、爽やかな笑顔で「さあ、みなさん」と声を張った。
「佐原先生は、いったいどんな昼食を食べているのでしょうか?」
うん? ……どんな昼食を?
ハッとし、沙帆子は心臓が跳ねた。
こっ、こっ、これって……ま、まずいんじゃないの?
佐原先生がテレビに映って大喜びしている場合じゃなかった!
啓史の弁当の中身は、沙帆子の弁当と同じものだ。
しかも、さっき男子に覗き込まれてしまい、しっかりと中身を見られてしまっている。
ここで啓史の弁当が公開されてしまっては、まずい事態になる。
いまさら、ことの深刻さに青くなり、沙帆子は心臓をバクバクさせながら自分の弁当に視線を向けた。
えっ?
こちらに背中を向けた千里が、立ったまま机にかがみ込むようにして何かやっている。
「ちさ……」
呼びかけたら、さっと振り返った千里が、黙れというように鋭い視線を向けてきた。沙帆子はぎょっとして口を閉じた。
でも、千里、いったい何を?
「わーっ、佐原先生がお弁当食べてるぅ」
「見て見て、佐原先生のお弁当箱、白だよ。真っ白!」
「いやーん、佐原先生にぴったりぃ」
「あれってもちろん手作りだよね? 結婚したっていうのは嘘なんじゃないかって噂広まってるけど……やっぱり、結婚してるっていうのは事実なのかな?」
ひとりが気がかりそうに言うと、「佐原先生のお母さんが作ってくれたお弁当かもよ」と、別の子が違う意見を出してくる。
「そうなのかな?」
「そうだよ」
彼女たちの会話を聞き、沙帆子は思わず詩織と目を合わせた。
詩織は何か言いたそうだが、ぐぐっと口を引き結んだ。
「ええーっ、もうほとんど中身空っぽじゃないですかぁ。ちょ、ちょっと佐原先生、食べるのやめてください」
天野が慌てて頼み込む。だが、啓史は構うことなく食べ続けている。
「佐原先生、お願いしますよぉ。放送部渾身の企画なんですよぉ」
泣きっ面の天野の願いを聞き届けようというのか、啓史はふいに箸を止めた。
「昼飯食ってるところを撮りに来たんじゃないのか?」
「それはそうなんですけど……先生のお弁当の中身も撮りたかったんですよ。あーあ、もうご飯くらいしか……あっ、それなんですか?」
天野は啓史が箸で摘まんでいる物体を指さし、興奮気味に問いかける。
「これか?」
啓史は箸に挟んでいる桃色のものを、カメラの方に差し出して見せた。
「それは……おおっ、それはシャケですね?」
天野は、シャケに興奮して食いつく。
そんな天野を見て、教室内に笑いが起こった。
そんな中で沙帆子は首を傾げた。
確かにシャケのようだけど……そんなもの、わたし、今日のお弁当に入れてないんだけど……
「ああっ!」
急に荻野が叫び、カメラが驚いたように荻野に向いた。すると荻野は、ハッとしたように、「す、すまん。なんでもない」とカメラに向いて詫びた。
しかし、口とは裏腹に、荻野は忌々しそうに啓史を見やる。
荻野の様子は気になったが、カメラはすぐに啓史に戻ってしまった。
それにしても、どういうことなの?
いまのシャケって……?
首を捻ったところで、沙帆子はようやくピンときた。
そ、そうか。いまのシャケって、荻野先生のお弁当からくすねたんじゃないの?
先生、わたしのお弁当と中身が同じだから、万が一悟られたらと危ぶんで……
さっさと空にしたうえで、さらに極めつけ、入っていなかったシャケが、さも自分の弁当に入っていたかのように仕組んだ。きっとそうだ!
さっすが佐原先生!
だ、だけど……荻野先生……
さきほどの忌々しそうな荻野の顔が浮かぶ。
あの様子からいくと、荻野先生、シャケが大好物なんじゃないかな?
そのシャケをくすねられて、だがこの状況では文句も言えず……
き、気の毒に……
荻野には悪いが、沙帆子は笑いが込み上げてきてならなかった。
つづく
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