ナチュラルキス ハートフル
natural kiss heartful



2 始まりは困惑から



「あっ! ちょっと、走るのやめて」

前を駆けていた千里が、急に速度を落とし、両腕を広げた。

千里の後ろをついて走っていた沙帆子と詩織は、その制止に慌てて足を止めた。

「いったい何?」

詩織は千里に問いかけ、前方を窺って、「あっ!」と小さく叫んだ。

そこで沙帆子も、前方にふたりの教師の姿があるのに気づいた。

廊下を走っているところを教師に見つかったら、注意を受けてしまう。

千里はあわてず騒がす、沙帆子と詩織を促してすぐに歩き出した。

「金ちゃんだ。あれっ、金ちゃんと一緒にいるのって……」

詩織がこちらにやってくる教師を見て言う。

「篩谷先生のようね」

千里の言う通り、篩谷先生だ。

沙帆子は篩谷だとすぐに気づいたが、目を細めて篩谷を見つめている詩織は、確信がもてないでいるようだ。

「厚化粧を取っちゃったもんでさぁ、わたし、バケ子先生に思えないんだよね。普通のきれいなお姉さんみたいでさ」

「みたいって……バケ子と呼ぶにはふさわしくなくなったんだから、いいことじゃない」

千里が呆れたように言うが、詩織はどうしてか不満そうだ。

「そうなんだけどさぁ……なんか、せっかく我が校にいた名物教師が消えちゃって、寂しさを感じるというか……ふたりはそんな風に思わないの?」

詩織の言い分に、沙帆子は思わずぷっと噴いてしまう。

「詩織ってば、もおっ」

詩織の腕を叩いたら、詩織は痛がりながら、「あはは」と笑う。

そんなやり取りをしている間も三人は歩き続けていて、肩を並べてこちらに歩いてくる篩谷と金山に近づく。

「おっ」

三人の顔を見て、金山はいつも通りの笑顔を向けてくる。

一方、篩谷は、三人を見て形のいい眉を上げた。

篩谷は、少々迷惑そうでありながら、どこか愉快そうでもある。

「君ら、どこに行くんだ? ああ、生徒会室か?」

金山の問いに、千里が答える。

「いえ。今日は生徒会室ではないんです。化学室に向かっています」

「化学室?」

「はい。部活の集まりがありまして」

「部活?」

金山は首を傾げて聞き返してくる。

「勧誘されて入部したんです」

「へーっ。君らが入部したなんて、いったい何の部活なんだい?」

「ロボット開発部です」

千里がハキハキと答えたところで、篩谷が微妙に反応した。

ロボット開発部について、篩谷先生は荻野先生から聞いているはずだ。

けど、この篩谷先生に、わたしが佐原先生の結婚相手だってばれた時には、もう血の気がひいちゃったんだよね。

最悪の事態に陥ったと青くなったり、覚悟を決めたり……

でも、結局、篩谷先生は誰にもバラしたりしなかったし、それどころか、篩谷先生はわたしのことを心配してくれてたんだってことがわかったんだよね。

わたし、そんなこととは思いもしていなかった。

篩谷先生は佐原先生に好意を持ってるんだと思って、あんなに苦手に思っていたのが、いまとなれば申し訳ない。

それにしても、あれきり篩谷先生と話す機会はなかったから、ちょっと落ち着かないなぁ。

「その初顔合わせがこれからありまして、実はわたしたち遅れているんです。なので、これで失礼します」

礼儀正しく口にした千里は、教師に向けて頭を下げる。そんな千里にならって、沙帆子も詩織とともに頭を下げた。

すぐに千里が歩き出し、沙帆子も詩織と一緒にそれに続いた。


「ほんと、篩谷先生、何度見てもバケ子先生とは別人だわ」

金山たちの視界に入らないところまでやってきたところで、千里は駆け足になりながら口にした。

「うんうん、いまは、きりっとして、感じのいい先生だもんね」

「新入生たちは、いまの篩谷先生しか知らないんだよねぇ。まさか、あの先生が、三月まで厚化粧してて、バケ子先生って呼ばれてたなんて話し、聞いても信じられないんじゃないかなと思うよ」

詩織の言う通りだろう。

こくこくと相槌を打っていたら、千里が「うまくいってるのかしらね。荻野先生と」と言う。

「そりゃあ、うまくいってるよ」

詩織が断言し、千里が顔をしかめる。

「なんであんたが断言できるのよ?」

「だって、篩谷先生の表情、柔らかかったもん。あれはしあわせな証拠だよ」

「……確かにそうかもね」

思案したあと、千里はしみじみと口にして頷く。

沙帆子も、ふたりはうまくいっていると思う。

そういえば、三者面談の日、ママと廊下を歩いていたら篩谷先生と偶然に出くわして、そしたらママが、篩谷先生のこと、不幸そうだみたいなことを口にしたんだったよね。

わたしはピンと来なかったんだけど、あの時のママの勘は正しかったんだなぁ。

化学室に辿り着いた。

ドアに駆け寄って行ったら、開ける前にドアが開いた。出てきたのは森沢だった。

「さあ、入ってくれ」

森沢に促され、沙帆子は心臓を高鳴らせながら、千里に続いて化学室に入った。

一番最初に啓史が目に飛び込んできた。

彼と目が合い、その途端沙帆子の心臓はバクバクし始める。

こら、落ち着け心臓。

「どうぞ、こっちの椅子に座って」

椅子から立ち上がった広澤が、並んで空いている三つの席を勧めてくれた。

その席に座らせてもらったところで、沙帆子はこの場に集っているひとたちにおずおずと視線を向けてみた。

教師は啓史と荻野のふたり、そして広澤と森沢に、あとふたり男子がいた。

ひとりはなんとなく見覚えのある男子生徒なのだが、もうひとりの顔を見て、沙帆子はとんでもなくびっくりした。

「な、なんで?」

詩織が慌てふためいた声を張り上げた。

それもそのはず、彼は詩織が付き合っていて、ちょっと前に別れた相手である、バスケット部のキャプテン、藤野耕太だったのだ。

「森沢君に誘われたんだよ」

藤野は少しきまり悪げに口にする。

「け、けど……藤野君は、バスケット部の、キャプテンなのに」

詩織は唾を飲み込みつつ、ようやっとという感じで口にした。

その言葉に対して説明してくれたのは森沢だった。

「もちろん、彼の場合バスケが本命だよ。こっちは時間が空いている時だけってことで、お願いしたんだ」

説明にはそれなりに納得したけど……森沢君、なんで藤野君を誘ったんだろう?

一緒の部活で顔を合わせるんじゃ、詩織も藤野君も気まずいに決まってるのに……

でも……藤野君は、詩織が入部するってこと知らなかったのかしら?

これから先、波乱の予感に、沙帆子は知らず啓史に目をやってしまう。

あれっ? 佐原先生、なんでか苦笑を堪えてる?

なんで?

そんなことで、部活の初日は、困惑から始まったのだった。





つづく



   
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