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21 ぶっきら棒なお礼
あー、ようやく人心地ついた。
温かいシャワーを浴びて、芯から冷え切っていた身体に温もりが戻ってくれた。
なんかもう、どっと疲れちゃったんですけど……
疲れも相まって、ここから出て行くのが億劫でならない。
先生と対峙しなきゃならないし……
すっごい笑ってたし……
むーっ。
先程の不服が再び膨らむ。
「けど、笑われて当然なのよね。……仕方がない。出て行くかぁ」
ブツブツ呟き、浴室の扉を開けて一歩外に出たら、白いものがにゅっと目の前に突き出された。
えっ? と固まり、勢いよく首を回す。
「ほら、これ。着る物がないと困るだろうと思って、もってきてやったぞ」
これ、と差し出されたものを、凍結したまま受け取る。
「いや、まずはバスタオルか……」
啓史はこともなげに呟き、沙帆子が受け取ったばかりの白いものを取り上げた。そして、バスタオルを頭からかぶせてくる。
その時になって、沙帆子はようやく身体が動かせるようになった。
パニック状態で、頭にかぶせてもらったバスタオルを両手で掴み、「あわわわわ」と泡を吹きながら裸体に巻き付ける。
「何をそんなに慌ててんだ?」
心底呆れたように言われ、激しく動揺しつつも憤慨する。
「なっ、何をって……せっ、先生がここにいるとか思ってなくてですね」
すでに、沙帆子の顔はゆでだこのように真っ赤になってしまっている。
「まあ、いいけどな」
そんな繋がりのない呟きを洩らし、啓史は背を向ける。
何か彼に言いたいが、言う言葉を見つけられずにいるうちに啓史は消えた。
気づいたらひとりに戻っていて、しばし呆然とする。
なんか……
あーっ、もおっ!
もどかしい思いに駆られて、沙帆子はその場にしゃがみ込んだが、一分も経たぬうちに笑いが込み上げてきた。
笑いを収め、平常心に戻ってクスリと笑い、沙帆子は先ほど啓史が手渡してきた白いものを取り上げた。
白いタオル生地のそれを見て、すぐにそれがなんだかわかり顔が引きつる。
こ、これって……あのバスローブじゃないかっ!
タンスの奥深くにしまい込んでおいたのだが、よく見つけたものだ。
「どうせなら、普通の服を持ってきてくれればよかったのにぃ」
もちろん啓史は、沙帆子がバスローブだけの姿では出て行きづらいということをわかっていて、こいつをわざわざ持ってきたのだろうが。
いっ、意地悪だ!
ぷりぷりしつつも、他にまとう服もないので、それを羽織ることにする。
ありがたいことに、脱衣所に下着が収納してあるので、真っ裸にバスローブだけという事態は避けられた。
胸の部分がはだけないように両手で押さえ、沙帆子は居間に向かった。
そっと部屋を覗き込んだが啓史の姿はなく、キッチンにもいなかった。二階にいるのだろう。
階段を下から上へと流し見て、そこにもいないのを確認する。
先生、どこにいるんだろう?
寝室か、仕事部屋。
そうだ。とにかく、制服をどうにかしなきゃいけないんだった。
さっさと片付けて……でも、代わりの制服はあるけど、あんなに濡らしてしまって、どうすればいいのかな?
思案しつつ玄関を確認したが、そこはすっかり綺麗になっていた。
えっ? 先生、片付けてくれたの?
そのままでいいって言っておいたのに……
もちろん、片付けてくれたのはありがたく思うのだが……申し訳ない。
そこまで考えた時、沙帆子は過去の出来事を思い出して焦った。
せ、洗濯機、まだ回されてはいなかったよね?
黒ニットの二の舞になっては困る。
慌てて駆け出し、洗面所に引き返して確認してみたら、濡れた制服はドラム式の洗濯機の中に入っていた。
ともかく回されていないのがわかってほっとする。
よかったぁ。
洗濯していいものなのか自分にもわからないのだが、万が一着れなくなったりしたら困る。
あとでママに電話して、どうしたらいいか聞いてみないと。
なんにしても、先生にはお礼を言わないとね。
その前に寝室に行って着替えないと。
もちろん、このバスローブを持ってきた先生にすれば、バスローブ姿のわたしを見て、からかいたいに違いないけど……
みすみすからかわれたくはない。
沙帆子は仕事部屋にいるだろう啓史に気づかれぬよう、気配を消して階段をのぼっていった。
やっと階段を上り切り、仕事部屋を恐る恐る窺いつつ寝室へと急ぐ。
気配に気づいて啓史が出てくるんじゃないかと気が気じゃなかったが、そんなこともなく、沙帆子は無事寝室のドアの前に辿り着いた。
先生、まさかこの中で待ってたり?
するかもしれないよね。
沙帆子はそっとドアノブに手をかける。
音を立てないようにゆっくりと回すと、部屋の中を窺いつつほんの少しドアを開けた。
「先生ぇ~、いませんか~?」
隙間から小声で呼びかけたが、返事はない。
いないのかな?
いやいや、先生のことだ、わたしを驚かせようとして隠れてるかもしれない。
疑心暗鬼になりつつ、頭だけそろそろと突っこんで、部屋全体を眺めまわす。
しかし、どこにも啓史の気配はない。
なあんだ。
ほっとしたそのとき、背後からトントンと肩を叩かれる。
沙帆子は「ぎゃっ」と叫んで、思い切り飛び上がった。
すると、くっくっくっと、それはもう楽しそうな笑い声が……
「も、もおっ、先生っ!」
啓史は腰を折るようにして笑いこけている。
沙帆子の顔は、先ほどより真っ赤に熟れた。
「な、なんで? い、いったい、どこに隠れてたんですか?」
「隠れてなんていないぞ。もちろん仕事部屋にいたさ。お前が上がってきた物音が聞こえたんで出てきた。そしたら……」
くっ、くくくっ……っと、また笑いが再開する。
「笑わないでください!」
「笑うなったって……あんなへっぴりごしで、寝室の中を怖々覗き込んでる様子を見せられたんじゃ、笑わずにはいられないだろう?」
へ、へっぴりごし?
いっやーーーっ!
先生にそんな姿を見られたなんて……
できることなら地中深く潜り、この場から姿を消したいと本気で思った沙帆子だった。
「もおっ、いつまでも笑わないでよ」
電話の向こう側で、母の笑い声が延々と続き、沙帆子は立腹した。
笑われるのが分かっていて話したのは自分だが……この母に話さないという選択肢はないわけで……
そんなわけで、しばし、母の笑いが収まるのを待つ。
まだ夕食前で、けど、もう準備は整っている。
啓史はいまお風呂だ。彼が行ってすぐ、母に電話を掛けた。
「ところで、ママ。ママも話したいことがあるって、最初に言ってたけど……その話は?」
こちらから電話を掛けた直後、「こっちも話したいことがあるのよ」と芙美子が言っていたのだ。
「そうなんだけど……あんたの話で、こっちの話はどうでもよくなっちゃったわ」
まだくすくす笑っている。
沙帆子は肩を竦め、話題を変えることにした。
「ところでママ、制服って自分で洗濯しちゃダメよね?」
「ダメね。冬服は」
「夏服はいいの?」
「ええ。洗えたわよ」
そうか。冬服だとダメなんだ。
「けど、もうずぶ濡れなんだけど……クリーニングに持って行っていいのかな?」
「こういうときこそ、久美子さんに頼りなさいな」
「え? で、でも、そんな迷惑かけられないよ」
「そんなことないわよ。あの久美子さんなら、嫁のあんたに頼ってもらえたら、そりゃあ喜ぶわよ」
「そ、そうかな?」
「そうよ。それじゃ、すぐに電話なさいな」
そう言うと、芙美子はさっさと電話を切ってしまった。
沙帆子は躊躇いつつも、久美子に電話した。すると芙美子の言った通り、久美子は喜んで引き受けてくれ、すぐに行くと言ってくれた。
啓史が風呂から上がった頃には、もう久美子はやってきた。
ゆっくりしていってくれと誘ったのだが、まだ家事をやらねばならないからと、満面の笑顔で濡れた制服を引き取って帰って行く。
「よかったんでしょうか?」
面倒くさいことを押し付けてしまったようで申し訳なく、沙帆子は隣に並んで久美子の車を見送っていた啓史に尋ねた。
「喜んでたじゃないか」
「それはそうなんですけど……」
「ありがとな」
へっ?
お礼を言われて面食らう。
「な、なんで、お礼?」
「喜ばせてくれたからに決まってんだろ」
ちょっとぶっきら棒なその言葉に、沙帆子の胸はあったかいものでいっぱいになる。
「ところで夕飯はまだか?」
「あっ、はい。もう準備出来てて……あと少し」
「それじゃ、飯ができるまで俺は仕事してるから」
「はい。頑張ってください」
「ああ」
啓史は階段を軽快に上がっていく。
そんな夫の姿に見惚れ、沙帆子は満ち足りた気分でキッチンに足を向けたのだった。
つづく
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