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24 友の勧め
化学室の近くまで来て、沙帆子はドキドキしてきた。
一緒に住んでいるのだから、当然毎日顔を合わせているわけで、それでも啓史と会えると思うと鼓動が速まる。
「篩谷先生?」
不意に千里が篩谷に呼びかけた。自然とみんなの足が止まった。
「え、えーっと」
どうしたというのか、篩谷は困ったような顔をしている。そして沙帆子たちの視線を避けるようにする。
「どうしたんですか?」
改めて千里が問うが……
あれ? なんか千里、笑ってないかな?
「誘って置いて、なんなんだけど……」
うん?
「や、やっぱりやめましょう」
その発言に戸惑っていると、篩谷は「ご、ごめんなさいね」と両手を合わせて謝り、すぐに背を向けて駆けていってしまった。
呆気にとられたまま篩谷を見送る。
すると、詩織が我に返ったように「ええーっ?」と叫んだ。
襲撃の言い出しっぺをなくし、この場に取り残されてしまい、三人して互いに顔を見合わせてしまう。
けど、篩谷が急に襲撃をやめて消えてしまったわけは、わからないじゃない。
たぶん、恥ずかしくなったんだろうな。
「いじらしいというか……まあ、年上だし、先生なのだけど」
そう口にし、千里は苦笑する。
うん、確かにいじらしいかな。
「いじらしいかもしれないけど……自分から誘ってきたのに……ねぇ、それでわたしたちはどうするの?」
「もちろん襲撃は取りやめよ。佐原先生だけならまだしも、場所は化学準備室で荻野先生の部屋だもの。さすがに襲撃する勇気は出ないわよ」
だよね。
でも啓史に会えると思っていたから、かなり残念だった。
詩織もつまらなそうな顔をして唇を突き出している。
「もおっ、襲撃、楽しそうだったのになぁ」
仕方なく引き返そうとしたら、ガラガラっと音がして、三人はぎょっとなった。
化学準備室のドアが開き、顔を出したのは荻野だった。
「なんだ、お前たちか」
三人を見つめてそう言うと、荻野はこちらの言葉を待つように見つめてくる。
何か用事があってやってきたのだろうと思ったに違いない。しかし、なんの用事もないわけで、焦るばかりだ。
「え、えーと……」
千里が何か答えようとしたが、言葉が見つからぬようだ。
一番頼りになる友のその様子に、沙帆子もめいっぱい動揺してしまう。
ま、まさか、荻野先生が出てきちゃうなんて。
わたしたちの声が聞こえたのかな?
佐原先生も中にいるんだよね?
ど、どうしよう?
この事態、いったいどう納めれば……
窮地に立った気分でいたら、詩織が一歩前に出た。
驚いて彼女を見ると、詩織は声を張り上げて、「わたしたち、にわか昼食襲撃隊なんです」と叫んだ。
荻野は怪訝そうに「は?」と言う。
し、詩織ってば……
「実はですね。もうひとり、わたしたちを誘った隊長がいたんですけど、ここまできて突然消えちゃったんです」
「なんの話か、よくわからないんだが」
さもあろう。襲撃隊とか隊長とか言われて、理解できるはずがない。
「篩谷先生です。事情は後で篩谷先生に聞いてください」
あわわ、全部しゃべっちゃうとか……篩谷先生、良かったんだろうか?
だが、篩谷の名が出て荻野の表情が一変する。
「彼女が?」
「はい」
詩織がきっぱり返事をしたその時、啓史が姿を見せた。
さ、佐原先生だ!
思わず姿勢を正してしまう。
視線が合い、いやはや、どんな顔をすればいいのかわからない。
用事もないのにこんなところまでやってきてしまって……もちろん一人じゃないんだけど、気まずさが膨らむ。
「お、おお。そうだ。ちょうどよかったな」
どうしたというのか、荻野は急に沙帆子を見て嬉しそうに言う。
しかし、ちょうどよかったって?
「君に聞きたいことがあるんだ」
聞きたいこと? いったいなんだろう?
戸惑っていると、啓史が鋭く「荻野先生!」と呼びかけた。
「こんなところで立ち話もなんだな」
荻野は啓史の呼びかけにかまわず、化学室のドアを開けた。そして三人に入るように促す。
啓史が荻野に対してむっとしているので、入っていいものか迷ったが、千里と詩織が入ってしまったのでは、後についていくしかなくなる。
それにしても、佐原先生、どうして不機嫌なんだろう?
荻野先生がわたしに聞きたいことってのが原因?
それとも、用事もないのにやってきたから怒ってるとか?
だとしたら、どうしよう?
ここにやってきてしまったことを激しく悔いながら、沙帆子は詩織の隣に座った。向かい側に荻野も腰かける。けれど啓史は立ったままだ。
「佐原先生も座ってはどうです?」
「荻野先生!」
啓史は、まるで釘を刺すように鋭く呼びかけた。
「別にいいでしょう?」
「よくありませんよ」
そのあと、啓史は荻野に近づき、耳元になにやら囁いた。すると荻野はぐっと眉を寄せる。
佐原先生、荻野先生に何を言ったんだろう?
「まあ、そうだな」
何がそうなの?
「で、君らは何の用事できたんだ?」
「荻野先生、それについてはもう説明しましたよ。篩谷先生が……」
詩織が口にし、荻野は慌て始めた。
「ああ、わ、わかった! も、もう説明はいい。思い出した」
焦って口にする荻野の顔はほんのり赤い。
ふふっ。荻野先生と篩谷先生、どっちも初々しいかも。
「荻野先生、真っ赤ですよぉ」
こういう時、黙っていられない詩織がからかう。
相手は先生なのにと、こっちはヒヤヒヤしてならない。
すると荻野は無表情になり、詩織を見やる。
「江藤、からかう相手は選べよ」
厳しい口調に、沙帆子は心臓がはねた。
言われた当の本人の詩織も目を白黒させている。
だが、そんな詩織を見て啓史が軽く噴き出し、沙帆子は啓史に視線を向けた。
「こいつらマジにとってますよ、荻野先生」
その啓史の発言に、荻野はにやっと笑う。
「俺をからかうからだ」
な、なんだ、さっきの本気じゃなかったんだ。よかったぁ。
「び、びっくりしたぁ」
心底ほっとしたようで、詩織はそのまま机に突っ伏す。
そんな詩織を見て啓史が笑い、荻野も愉快そうに笑い出した。
「まったく、篩谷先生に引っ張りまわされちゃったようなもんだよね」
そろそろ昼休みが終わる頃合いで、自分たちの教室に向かいながら詩織が愚痴を言う。
すると千里が「楽しかったじゃない」と笑いつつ反論する。
「まあ、楽しくなかったわけじゃないけど……荻野先生、あんな風にひとのことからかうとかさ……ほんとビビらされちゃったよ」
「からかいたくなる気持ちはわからないじゃないけど……荻野先生も言ってらしたけど、相手をちゃんと選ぶべきよ。あんたは軽はずみすぎる」
「むーっ」
千里から叱られ、詩織は唇を突き出す。
「ところでさ、あんたたち荻野先生が言ってたこと、気にならない?」
「うん?」
荻野先生が言ってたこと?
「ほら、あんたに何か聞きたがってたじゃない」
ああ、そうだった。なんだったんだろう?
佐原先生は、荻野先生がわたしに何を聞きたがっているのかわかっていたみたいだった。
「沙帆子、今夜聞いてみなよ」
軽い感じで勧めてくる詩織に、沙帆子は笑いながら首を振った。
「たぶん無理」
かなり嫌がっていたし、聞いたところで教えてはくれないだろう。
「そうとも言えないんじゃない」
「千里?」
「ダメもとで聞いてごらんよ。教えてくれるかもしれないわよ」
「そ、そうかな?」
聡明な友の勧めに、気持ちは大きく傾いたのだった。
つづく
プチあとがき
荻野先生の聞きたいこと。すでに皆様ご存知ですね。
啓史、落ち着いているようでありながら、そんなでもないみたいです。笑
読んでくださってありがとう。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです♪
環(2019/2/3)
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