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5 リベンジ?
「それじゃ、これで解散としようか。また来週ってことで、みんなよろしく」
広澤が部員全員に声をかけ、藤野を見る。
「藤野君、今日はありがとう。また顔出してくれるかい?」
「ああ。……それじゃ、あの……また。佐原先生、お先に失礼します」
藤野は啓史に向けてぎこちなくお辞儀し、足早に教室を出て行った。
急ぐように藤野の足音は遠ざかっていく。
それからすぐ、啓史も第二準備室に戻ってしまい、残ったみんなも物理室から出た。
先生、これからまだ掃除の続き、するんだろうな。
わたしも手伝いたいけど……そうはいかないし……
啓史のことを気にかけつつも、沙帆子の意識は詩織に向く。
詩織……大丈夫だったのかな?
まさか藤野君がロボット開発部にいるなんて、思ってもみないよね。
わたしもかなり驚いちゃったけど、詩織はもっと驚いたに違いないよ。おまけに、一緒に掃除をすることになっちゃうなんて……
詩織のことを気にしつつ廊下を歩いていたら、千里が声を抑え気味にして話しかけてきた。
「沙帆子、時間、まだいい?」
「う、うん」
きっと詩織のことだ。
千里は、考え込んだ様子で俯き加減に歩いている詩織の肩を叩いた。
詩織は千里に振り返ってきたが、その目はどこかぼんやりしている。
「詩織、下校の前に自販機に寄って、なんか飲もうよ」
「あ、うん」
詩織は返事をして頷く。
「大樹、そんなわけだから」
「わかった。それじゃ、駅で落ち合おう」
「うん」
森沢は爽やかな笑みを浮かべ、広澤と行ってしまった。
自販機のところには、ありがたいことに人の気配はなかった。
それぞれ飲み物を買い、その場で飲んだ。
「驚いたわね。藤野君まで勧誘してたなんて……」
「千里、ほんとに知らなかったの?」
詩織が感情を高ぶらせて千里に噛みつき、沙帆子は驚いた。
「知らなかったわよ」
千里は詩織の目をまっすぐに見返して答える。詩織はまだ疑いが残っているような表情をしていて、不服そうにそっぽを向く。
場の空気が険悪で、沙帆子は不安からドキドキしてきた。
どうしようと思っていたら、詩織は硬い表情で口を開いた。
「……わたし」
「まさか辞めるつもり?」
詩織の言葉を先読みした千里は、かぶせるように叫んだ。
千里まで腹立ちを感じているようだ。
感情をあおられたのか、詩織はいつたん口を引き結び、「辞めるよっ!」と怒鳴り返した。
あまりに険悪な雰囲気に、沙帆子は足が震えてきた。
ここは感情を高ぶらせているふたりを冷静に戻すために、自分がどうにかするべきなのに、何をどう言えばいいのかわからない。
けど、このままじゃダメだ!
沙帆子は何も考えず、とにかくふたりの間に飛び込んだ。
「詩織、辞めちゃダメだよ」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。
「なんでよ!」
「なんでって……だ、だから、その……だからさ、森沢君は聡明なひとだから……詩織の気持ちも藤野君の気持ちもわかってると思うし……」
「なら、なんで? お互い、気まずくってならなかったんだからね。矢島君は、どこまでも能天気に、面白い冗談言ってわたしらを笑わせてくるし……もう、必死になって笑わなきゃならなかったんだからねっ!」
し、詩織……
「ぶっ!」
噴き出しそうになっていたら、先に千里が噴き出した。
「なんで噴き出すのよぉ」
詩織が憤慨して千里に怒る。
怒られた千里は、ますます笑いが込み上げてくるようで、「ごめん、ごめん」と繰り返しながら笑いと必死に戦っている。
「だって、必死になって、なんてあんたが言うから……」
「だって本当のことだもん」
詩織はそう言って、ぷーっとほっぺたを膨らませたが、その様子に、沙帆子は無性にほっとした。
いつもの三人に戻れた気がしたのだ。
ようやく笑いをひっこめられたようで、千里は表情を真面目なものにして、詩織と向き合う。
「さっき沙帆子が言ってくれたけど……大樹は、あんたたちが顔を合わせたら気まずいのがわかってて、わざとそういう状況にするなんてことは絶対にないと思うの」
千里が森沢を弁護するように言う。
それを聞いて、詩織は黙り込んだ。
内心では、千里の言う通りだと思っているのではないだろうか?
「ならさ、なんで? どうして、わざとそういう状況にしたってのよ?」
「わからない。けど、ねぇ、詩織。これはチャンスだと思わない?」
「千里、チャンスって?」
黙っていれば詩織が自分で問い返しただろうが、沙帆子はそれを待てずに自ら尋ねた。千里はすぐに答えてくれる。
「このままだと、あんたは藤野君とぎくしゃくしたままだよ。ふたりの関係性を変えるチャンスだと思うわ」
おおっ、そういうことかっ!
納得した沙帆子は、こくこく何度も頷いてしまった。
「それって必要?」
詩織は反論を込めて質問を返す。
「さあ。けど……」
そのとき、千里が微妙に表情を変えた。沙帆子の目には、千里は何かに気づいたように見えた。
「千里?」
言葉の途中で黙り込んだ千里に、詩織がいぶかしそうに呼びかける。
「あのさぁ、詩織」
「なに?」
「あんたは藤野君を振ったわけだけど……彼を嫌いなわけじゃないよね?」
「そ、それは……もちろんだよ。藤野君はわたしにはもったいないくらいのひとだもん」
「なら、この現状を受け入れて、いまの関係を変える努力をしてみたら?」
その問いかけは、詩織の心を大きく揺さぶったようだった。
その日の夜になり、風呂から上がった沙帆子が、何か飲もうとキッチンに行くと、仕事中のはずの啓史がいた。
この週末は温泉に行くことになっているので、月曜日からの授業に備えて準備をしていたのだが……
「先生、もう仕事のほうは終わったんですか?」
「いや、まだだ。お前、何か飲むか?」
「自分でやりますよ。先生、お仕事……」
「いいから、飲みたいものを言え。気晴らしも必要だからな」
気晴らしか……うん。確かにそうだよね。頑張りすぎるのもよくない。
「それもそうですね。それじゃ、リンゴジュースにします」
「オッケー」
啓史は軽い感じで答え、ひらりと背を向けて冷蔵庫に歩み寄る。沙帆子は、そんな啓史の動きをうっとりと見つめてしまう。
先生って、ほんと何をしても絵になるんだよねぇ。
取り出したリンゴジュースをグラスに注いでいる啓史を眺めて、しあわせに酔いしれる。
「ところで沙帆子」
「は、はい」
「藤野だが……あいつって、江藤が付き合ってた相手だよな?」
「あ……そ、そうです」
「ふーん。つまり、リベンジの機会を与えてもらったわけか」
「はい? リベンジの機会って、どういうことですか?」
「俺だったら、そうするだろうって話だ」
「はい?」
啓史の言っている意味がわからず、きょとんとして彼を見ると、啓史はふっと魅力的に微笑んだ。
心臓がバクバクと鼓動を早めたそのとき、啓史は沙帆子の右頬をとらえた。
「せん……」
「啓史、だろ」
魅惑的な啓史の声が耳の奥に甘く響く。
「け……んっ」
名前を口にする前に、沙帆子の唇は塞がれてしまう。
キスに酔わされた沙帆子の頭の中では、リベンジという言葉が宙ぶらりんになっていたのだった。
つづく
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