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6 好ましい風
「う……ん」
目覚めの近かった沙帆子は、その声を聞きとり、薄く目を開けた。
もう朝かな?
「ふあああーっ」
小さくあくびをし、ふと肩に触れているぬくもりが意識に入る。
あっ、佐原先生……
胸をときめかせ、すっと首を回したら、なんと沙帆子の肩に頬を寄せるようにして啓史が寝ている。
うっわっ!
先生の寝顔ゲット!
一気に興奮し、ドキドキドキッと鼓動が速まる。
うわーい、先生より早く起きられたんだ♪
かなり興奮状態だけれど、余計な刺激を与えて彼を起こしてはならないと、ベッドを揺らさぬように小さくガッツポーズする。
時間をちらりと確認してみたら、六時が過ぎたところだ。けど、もう十分寝た気がする。
そう言えば、昨夜はいつもより早くベッドに入ったんだった。
早くベッドに入った経緯を思い出し、頬が急激に火照る。
あれやこれやと記憶が浮上しそうになり、沙帆子は必死に振り払った。
そうだ。
こういうときこそ、写メだ。
焦って頭を切り替えた沙帆子は、むふふと笑う。
実は、数々の失敗を経験し、貴重なチャンスを逃すことのないように、携帯はベッドの間に挟んでおいてあるのだ。
さっそく携帯を取り出そうとした沙帆子だが、よく見れば状況が悪い。
わたし、いつも右側に寝てるのに、いまは左側にいる。
つまり、わたしの携帯は佐原先生の向こう側。
もおっ、どうしてこういうことになるかなぁ。
うまくいかず、顔をむーっとさせるが、写メを撮りたいのであれば、なんとか携帯を取り出すしかない。
佐原先生を起こさないように、ゆーっくりと先生をまたいでぇ~。
考えを行動に起こそうと身を起こした沙帆子は、ベッドの上の啓史を見て、固まった。
な、なんて、しどけないお姿を!
パジャマのボタンをかけていないために、首筋から腹部にかけて肌が露出している。
ひゃーーーっ⁉
もうドキドキなんてものじゃない、心臓は爆走状態だ。
先生ぃ、なんでこんなに色気があるんですか?
色気っていうのは、女性の特有のものだと思ってたんですけどぉ。
眠っていて完全に無防備状態でいらっしゃるので、妙な罪悪感が膨らんでくる。
「まいったな、こりゃ」
罪悪感と照れにまみれ、おどけたように口走ったら、「もう起きたのか?」とクールな声がした。
ドッキーーーーン!
心臓が破裂した気がした。
沙帆子は胸を押さえ、すでに目を開けておいでの、夫と目を合わせた。
「おっ、おっ、おはようございますっ」
「ああ、おはよう。ところで、お前、何をそんなに動揺している?」
ううっ、いただきたくない問いかけを……
沙帆子は、無理になんでもなさげを装う。
「べ、別に、動揺なんて」
「してるよな?」
今度は強烈な指摘をもらう。
返事ができずに視線をそらしたままでいたら、急に啓史が上体を起こし、沙帆子はぎょっとした。
「どこにある?」
へっ?
「ど、どこにって、なんのことですか?」
「携帯だ」
「ええっ? な、なんで?」
「盗撮してたんだろう? どこに隠した? 画像を確認する。出せ」
まるで凄腕の刑事のように、啓史は矢継ぎ早に言葉を飛ばしてくる。
「と、盗撮だなんて、言葉が悪すぎますよ。わたしは妻なんですよぉ」
ぶちぶち文句を言ったら、啓史の顔がずいっと寄ってきて、沙帆子は慌てて身を引く。
「妻ならば盗撮してもいいってのか?」
そっけない口調だが、啓史が愉快がっているのがあからさまに伝わってきて、沙帆子は余裕を取り戻した。
「妻が寝顔を撮ったからって、罪にはならないと思います」
強気で言い返す。すると、啓史がくすくす笑い出した。彼の反応にほっとする。
「言うようになったじゃないか。で、携帯はどこだ?」
改めて問いかけられ、沙帆子は首を横に振った。
「撮ってませんよ」
撮ってはいないのだから、胸を張って言う。
撮ろうと思ってはいたけど、まだ未遂だものね。
「ふーん。なら、どうして動揺して……ああ、お前、俺を襲おうとしてたのか?」
「お、襲う? そ、そんなこと……」
いまさらだが、はだけたパジャマの間から、啓史の肌が目に飛び込み、顔を赤めてしまう。
啓史はそんな沙帆子の反応に気づいたようで、にやっと笑った。
目を合わせていられずに視線を逸らしたら、その瞬間沙帆子はベッドに抑え込まれた。
「せ、先生!」
慌ててジタバタしたら、啓史は指先で頬に触れてくる。
撫でられたところが甘くピリピリし、堪らずにビクンと身を震わせてしまう。
すると啓史は、満足そうな表情をして、ゆっくりと顔を近づけてきた。
朝から甘いキスをもらい、とろけてしまいそうになる。
「どうにもいけない気分になるな。けど、もう起きなきゃならないからな」
啓史はひどく残念そうにもう一度唇を触れ合わせてから、身を起こした。
沙帆子に手を貸し、起こしてくれる。
今日は、沙帆子の両親の家に行き、それから一緒に温泉に行くことになっている。両親の家には昼前につけばいいとのことだった。
「それじゃ、朝ご飯の用意をしますね」
「俺も手伝う」
先生ってば……そっけない言い方なのに、胸がほこほこしちゃうんですけど。
そのあと、啓史は手早く着替えて先に寝室から出ていき、沙帆子も急いで着替えを終える。
寝室から出て、階下に降りようとしたら、仕事部屋のドアが開いているのに気づいた。
どうやら啓史は仕事部屋にいるようだ。
「先生?」
沙帆子は声をかけながら、仕事部屋を覗いた。
啓史は窓辺に立っていて、沙帆子の呼びかけに応じて振り返った。
「いい風が入ってくるぞ」
確かに、啓史の髪が微かに揺れている。
沙帆子は啓史のところに駆けて行って、彼と並んで立った。
素敵な景色が目の前に広がっている。そして啓史の言ったように、爽やかな風が、頬をなでるように吹いてくる。
「わっ、ほんと。気持ちのいい風ですね」
果樹園から吹いてくるからか、とても好ましい風だ。
ここに引っ越してこられて、しあわせだなぁとしみじみ思う。
隣に佐原先生がいるからこそ、なんだけどね。
別居の話が現実になりそうになった時は、本当に辛かったなぁ。けど、そうならなくて、ほんとよかった。
これから何があっても、わたしは佐原先生と一緒にいたい。
「朝飯食ったら、ちょっとそこらを散歩するか?」
「はいっ」
うわーっ、佐原先生と果樹園の中を散歩かぁ。
いい、いい♪
顔を寄せ合って写真を撮るとか、できたらいいなぁ。
胸を膨らませた沙帆子は、啓史に手伝ってもらいながら、急いで朝食の準備をしたのだった。
つづく
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