ナチュラルキス ハートフル
natural kiss heartful



8 やさしく甘く



果樹園の家から出て、啓史が玄関の鍵をかけた。

それを見守って沙帆子は小首を傾げた。

どうしてかな、この瞬間って、妙にここを我が家だと実感してしまうな。

「それじゃ、こっちだ」

啓史は先に歩き出し、沙帆子についてくるように促してきた。

お散歩の間、手を繋いでくれないのかな?

背中を見つめて歩いて行きながら、そんなことを思うものの、口に出せそうもない。

たぶんだけど、『手を繋いでくださいと』お願いしたら、嫌だって、はっきり拒否されそうな気がする。

なら、どうすれば手を繋いでくれるかな?

真剣に考えつつ、啓史の背中を見つめていたら、これはこれでいい気がしてきた。

先生の素敵な後姿を眺めつつお散歩なんて、これはこれでレア体験?

なにせ周囲は満開の桃の花。木がさほど大きくないから、桜みたいには圧倒されないけど、可愛い花だ。

「桃の花、綺麗ですね」

啓史に向かって声をかけたら、彼はゆっくりと振り返ってきた。

どことなく気もそぞろな感じがして、「先生」と呼びかけたら、「ああ」と答えて沙帆子を見る。

「どうかしたんですか?」

「いや……色々思い出してた」

「それって……どんなことを?」

聞いてもいいのかなと迷いつつも、尋ねてみた。

「色々……一番古い記憶は……」

その言葉に、沙帆子はどきりとしてしまった。

佐原先生が幼い時の思い出を聞かせてもらえるの?

「二歳か……三歳か……走ってたら思いっきり転んで、したたか胸を打った」

「へーっ」

二歳のちびっこな先生、この辺りを駆け回ってて、こけちゃったのかぁ。

可愛い姿を想像してみようとしたが、微妙にうまくいかない。

そこで沙帆子は、披露宴で披露された幼い啓史の写真を思い浮かべてみた。

すると、時々、啓史の目を盗んで写真を見ているものだから、簡単に思い浮かべられた。

むふふふふっ。可愛いかっただろうなあ。

「転んで泣いちゃったんですか?」

「いや」

うん?

「泣かなかったんですか?」

「たぶんな。泣いた覚えはない」

さすが佐原先生だ。わたしなんて、転んだらピーピー泣いてた。

「そのとき、誰が助け起こしてくれたんですか?」

「助け起こされてもいないな。自分で立ち上がったんだろ」

ほほお。先生って、やはり二歳であっても、凄いな。

甘えずクールな二歳児かぁ。

「広大な果樹園だから、遊んでる間に迷ったことが何度かあってな、けど、あれが目印になってたから、あそこを目指して歩けばよかった」

啓史はワイン工房を指さして教えてくれる。

沙帆子はワイン工房を見つめた。けっこう遠いのだ。

「ねぇ先生、あのワイン工房は、果樹園の真ん中にあるんですか?」

「いや、端にある。あそこが真ん中だったら、とんでもない広さになっちまうぞ」

啓史は愉快そうにくすくす笑う。

「そうだよな。お前、まだ向こう側から入ったことがないんだもんな」

そう言われると、さらに興味が膨らむ。

「どんな感じになってるんですか?」

「どんなって……普通に広い道があって、工房があるだけだ」

先生の言い方だと、かなり殺風景な感じだな。わたしが想像してたのとは違うみたいだ。それでも……

「行ってみたいです」

「今度な」

今度か……

「これから出かけるついでに、ちょっと前を通ったりは、無理ですか?」

「無理ってことはないが……逆方向だからな。今日はやめておこう」

「そうですか」

肩を落として言ったら、啓史が笑う。

「なんでそんなにがっかりしてんだ。今日は無理でも、あそこなんて、いつでも見に行けるぞ」

「いつでもって、だって今日は行けないじゃないですか」

文句を言ったら、啓史は沙帆子の頭に手を置いてきた。

「どうせ行くなら、見学できたほうがいいだろ?」

「まあ、それはそうですけど」

「ほら、こっちに曲がるぞ」

道が二手に分かれていて、啓史に導かれて右のほうに曲がった。

「まだ一度も遭遇してないが、果樹園の中は当然スタッフが作業して回る。特に収穫時期は大勢作業することになるからな」

「それはそうてすよね。果樹園の家の周りにもいっぱい桃の木がありますもんね」

「あの辺りは別格なんだ。あそこは果樹園の家の庭みたいなもんだからな。木もまばらだし、桃ばかりじゃない。梨の木もあれば、垣根沿いに葡萄も植えてあったろ」

「ええっ。な、梨が生るんですか? それに葡萄まで?」

「うまいぞ。果樹園の周りの果物は、伯父さんが丹精込めて手をかけてるからな」

そうなんだ。

「校長先生、校長先生ってばかりじゃなかったんですね。果物を作るプロフェッショナルだったんですね」

「ぷっ」

沙帆子の言葉に啓史が噴く。

「な、なんで噴くんですか?」

「いや、お前が、やたら力を込めて口にするから、面白かった」

そう言われて気づいた。知らぬ間に、両手に力を込めて、ぐっと拳を握ってしまってる。沙帆子は慌てて手を弛めた。

「け、けど、それなら、校長先生の育ててる果物も見てみたいです。果樹園の家の周囲に葡萄があるなんて全然気づかなかったし」

「目立たないからな」

「そうなんですか?」

「葡萄の実がつくのはまだまだ先だ」

そう言えばそうか。葡萄って夏くらいから出回るものだもんね。

「ワイン工房のあたりは葡萄ばっかりだから、いまは見るほどのものはない」

「先生、凄いです。果物について詳しいんですね」

「まあな。ずっと遊び場だったから、自然に身についただけだけどな」

先生、この果樹園が好きなんだなぁ。なんか、瞳がキラキラしてる。

「ほら、桃畑の端に着いたぞ。ここから先は葡萄だけだな」

確かに葡萄が延々という感じで続いていた。

啓史は桃畑に沿う小道を少し辿り、今度は桃畑の間の小道に踏み込んだ。

ふふっ。なんかいいなぁ。桃の花の中の散歩。

とってもロマンチックだ。

いつもと見た目の違う佐原先生がいて、わたしも先生とペアの服を着ているなんてね。

この風景の中にいるわたしと先生を、誰かに撮ってほしいくらいだ。

いや、携帯ならポケットにあるし、先生だけでも撮りたいけど……

沙帆子は肩を落とした。もう果樹園に着いちゃうよ。

すでに果樹園の家が見えてきている。

あーあ、果樹園のお散歩、あっという間だったなぁ。

だけど、先生の子どもの頃のこととか色々聞けて、嬉しかったし、楽しかったな♪

そのとき、啓史がくるりとこちらに振り返ってきた。

そして、握れと言わんばかりに手を差し出してくる。

なんでいまになって? と思ったが、もちろんめちゃくちゃ嬉しいので、疑問はそっちのけで沙帆子は啓史の手を握った。

「ずいぶん嬉しそうだな?」

啓史が真顔で聞いてくる。

沙帆子はちょっと顔をひきつらせた。

なんで、そのようなお顔で、そのようなご質問を?

「そ、それは、嬉しいから」

正直にぼそぼそ言ったら……

「なら、最初から手を繋げはよかっただろ」

とおっしゃる。

「だ、だって、先生が先に歩いて行っちゃったから……」

「だからなんだ?」

「な、なんだって言われても……いったいなんなんですか?」

「お前から……」

「はい?」

「なんでもねぇ」

啓史はぶっきら棒に言い、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

「せ、先生?」

「なんでもない」

今度は、さっきみたいなぶっきら棒な物言いじゃなかった。

先生のこの変化はよくわからないけど……

すでに啓史の車のところまで戻って来ていた。

「ほら、行くぞ。車に乗り込め」

促されて車に乗り込もうと思ったが、先ほど啓史が口にした言葉が気になった。

お前から……って、先生口にした。

もしかしたら先生、わたしが自分から手を繋いでくるのを待っててくれたんじゃ?

「沙帆子?」

車に乗り込もうとしない沙帆子に、啓史が呼びかけてきた。

ふたりはまだ手を繋いだままだ。

沙帆子は啓史を見上げ、つま先立ちしてチュッとキスした。唇までは届かず、キスをしたのは唇の下。

啓史は少しびっくりし、それから口角が上がりそうなるのを堪えている。

「ばーか」

茶化すように啓史は言った。が、その声の響きはやさしく甘く、沙帆子の胸を痛いほどきゅんとさせた。





つづく



   
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