にゃんこシッター

書籍より掲載
第1話 出会いは衝撃とともに



あー、参った。
まさかあんなミスをしでかすとは……

金曜日の午後八時。
会社のエントランスを出た中野(なかの)真優(まひろ)は、疲れの滲んだため息をついた。

というのは、週明けの会議で使う資料を作成し、最終チェックをしていたら……

なんと、数字ばかりが並んでいるページに『もやし』の三文字があったのだ。

実は昨日、仕事帰りにスーパーに寄ったら、もやしが三袋で三十円という破格の安値で売られていたので、真優は九袋も買い込んでしまった。

シャキシャキしているうちに食べなきゃと思って、もやしを使った料理のことばかり考えていたために、無意識に『もやし』と入力していまったのだろう。

それを発見したとき、一気に血の気が引いた。

上司に報告すべきだったのだが、声をかけられなかった。

なぜなら、このところ、社内のパソコンのシステムに不具合があり、業務に支障をきたすことが多く、真優の上司も、ひどくピリピリなさっておいでなのだ。

そんな中、ミスをしたなんて、とてもじゃないが報告できない。だから、隠蔽という手段を取ることにした。

総務課の社員全員が帰ってから作り直したため、こんなに時間になってしまった。

仕事中は、しっかり集中すべきだと、猛反省中だ。

わたしってば、なんて間抜けなの?

ともあれ、『もやし』のやつめぇ〜、どう料理してやろうかぁ〜。

行き場のない苛立ちは、罪のない『もやし』に向かう。

真優は明かりの消えた駐車場へと足を進めた。

ここをまっすぐ抜けるのが駅までの近道なのだ。

この会社に勤めて二年になるが、いまだに車を持てない真優は電車通勤をしている。

会社からアパートの最寄り駅までは電車ですぐなのだが、残念ながら最寄り駅からアパートまでが遠い。

なぜそんな不便なところを借りたかというと、とってもかわいかったのだ、建物の外観が。それに新しかったし……

娘の一人暮らしを心配した両親からは、もうちょっと駅から近いところにしたらと言われたけど、ここに住めるなら、どんな不便もいとわないと宣言して押し切った。

……で、現在、激しく後悔しているわけさ。ふっ。

虚しく笑っていると、メールが届いた。平沢由梨からだ。

由梨は同期で、入社直後すぐに親しくなり、いまでは親友だ。

由梨はいま、ある男性に片思い中なのだが、メールによると、なんでも今日、その彼と言葉を交わしたらしい。

彼女の片思いの相手は、専務の補佐をしている相田というひとだ。

二十代後半で、見た目のいい彼は社内でも有名。

恋のライバルが山ほどいるため、由梨は最初から諦めてしまっている。

簡単に「頑張れ」なんて言うのは無責任な気がして、真優はただ話を聞くだけにしている。

というのは、情けないけれど、真優はまだ恋をした経験がなく、助言するなんておこがましいと思っているからだ。

由梨に返信するメールの文面を考えていると、背後から走ってくる足音が聞こえてきた。

少し気になったものの、真優はメールをぷちぷちと打ち始めた。

ドン!

突然の激しい衝撃が真優を襲った。

ぶつかってきた相手は「わっ!」と叫び、一方、真優は地面に膝をつき、なんとか顔は手でかばったものの、強く胸を打ちつけた。

「うぐっ!」

痛くて、息ができない。

な、なんなの、この状況?

地面に突っ伏した真優の上には、体当たりしてきた男が乗っている。

「ちょっ……むぐっ」

文句を言おうとしたら、無理やり口を塞がれた。

「す、すまない!」

切迫した声で男が謝罪する。

な、な……なんで口を?

真優は恐怖で頭が真っ白になった。

「どうしても見つかるわけにはいかない。頼む、静かにしてくれ!」

切羽詰まった声に、真優は困惑した。

見つかるわけにはいかないって……どういうこと?

誰かに追われているのだろうか?

このひと犯罪者なの? それとも、犯罪者に追われているの?

ああ、もおっ、どうしていいかわかんないっ!

「……来ないな」

真優に覆い被さったまま、男がぼそりと言った。

真優は思わずむっとする。

追手の様子を窺う前に、この体勢をどうにかしろというのだ。

ひとを下敷きにして、口まで塞いで……

「むぐぐぐ、むぐぐっ!」

必死に抵抗し、真優は『いい加減に、してよ!』と文句を言った。

言葉にはならなかったが……

「あっ、すまない」

彼は、ずいぶんと申し訳なさそうに謝る。

えっ、なんか、意外な反応。

思ってたより悪いひとではないようだけど……

「あの、君……口を塞いでいる手を離すが……悲鳴は上げないでくれるか?」

なんという身勝手な要請だと思ったが、ここはおとなしく頷いておくことにする。

そのほうがきっと身のためだろう。

それに、追手の気配はなく、男は落ち着きを取り戻したようだ。

このひとが何者かはわからないが、自分に危害を加える気はないとわかり、真優は少し安心した。

「君に謝罪をしたいんだが……けどその前に、場所を移動したいな。……なあ、俺におとなしくついてきてくれるか?」

いまだ口は塞がれていて、下敷きにされている。

見知らぬ男にぴったりくっつかれたままでいたくない。

抵抗する意思はないと伝えるため、真優は自由の利く限り、大きく首を縦に振ってみせた。

すると男は、まず真優の手首を掴んで拘束したのち、口を塞いでいた手をゆっくりと外す。

この場に妙な緊張が生じた。

助けを呼ぼうとして、真優が悲鳴を上げるんじゃないかと、男は警戒しているらしい。

言いつけ通りに静かにしていると、男は安心したようで、ふーっと息を吐き出した。

「ありがとう」

お礼を言われ、真優はびっくりした。

先ほどまでの切羽詰まった調子とは違い、とても好感のもてる声だったのだ。

男は真優を立ち上がらせるために、手を貸してくれた。

けれど、すぐにまた腕を掴まれた。

拘束を解くつもりはないらしい。

離してくれと言いたかったがやめておく。

不必要に刺激するのは危険だ。

真優は用心深く男を観察した。暗さに目が慣れてきて、彼の顔が見える。

視線が合い、真優は思わずビクンと震えた。

「安心してくれ。本当に何もしない」

男は言い聞かせるように言ったあと、真優の腕を掴んでいる自分の手を見つめる。

「君が逃げないと確信が持てたら……この手を離すんだが……悪いな」

と、すまなそうに言う。彼がどんな人間か、まだわからない。

追われて逃げてきたということは、犯罪者の可能性もなくはない。

でも、会社の駐車場でぶつかったのだから……

「あの……あなたは、ここの社員ですか?」

おずおずと聞くと、彼は沈黙してしまった。

なぜかじっと真優を見つめてくる。

……な、なんなの?

「あの?」

「い、いや……ちが……。あっ、君、膝を擦りむいてるんじゃないか?」

彼は慌てたように言いつつ、真優の前にしゃがみ込む。
あれほどしっかりと掴んでいた腕をあっさりと離し、真優の膝を確認した。

え、えーっと……いいのかな?

逃げないと確信が持てるまで離さないんじゃなかったの?

怪我をしていると気づいた途端、こんなに心配してくれるなんて、どうやらとてもやさしいひとのようだ。

彼に言われて気づいたが、確かに右膝がジリジリと痛む。

膝を覗き込んでみると、ストッキングが破れている。

ずいぶんみっともないことになっているようだ。

「ちょ……ちょっと、み、見ないでください」

恥ずかしくなった真優は、男から慌てて退いた。

こんな足、男性に見られたくない。

「あ、あの、追われてるんですか?」

そう問いかけると、男はしゃがみ込んだまま、顔を上げてきた。

彼が口を開きかけたそのとき、真優は救急車のサイレンが聞こえるのに気づいた。

音のするほうに身体を向ける。

するとまた腕を掴まれ、ぐいっと引っ張られた。

「な、何?」

「君はここの社員なんだよな?」

「そ、そうですけど」

ビクビクしながら答えると、彼は真優の腕をパッと離した。

「ごめん。そんなに恐がらなくていい。君に危害を加えたりしない。約束する」

「は、はあ」

「理由は話せないんだが……危うく見つかりそうになって逃げてきたんだ」

「も、申し訳ないんですけど……その説明だと、あなたは悪いひとのようにしか聞こえないんですけど……」

真優が恐る恐る告げると、彼は顔をしかめる。

「そう……だよな。……だが、どうしても詳しくは話せないんだ」

「あの、あなたのことは誰にも言いませんから……わたし、もう帰りたいんですけど」

「あ、ああ……そうか。だよな」

彼はためらいながらも頷き、エントランスのほうを気にする素振りをする。

このひと、どうしてさっさとここを立ち去らないんだろう?

追手が来ないとは限らないのに……

「あの、逃げないんですか?」

なんだか心配になり、声をかけると、彼は困ったような表情を浮かべる。

「何か、気になることでもあるんですか?」

「うん……その……友人のことが、気になって……」

友人? このひと、仲間がいたのか?

「仲間のひと、逃げ遅れたんですか?」

そのやりとりをしている間にも、救急車のサイレンの音はどんどん近づいてくる。

真優はサイレンのする方向に視線を向けた。すると男もつられたように、同じ方向を向く。

「いや、そういうことではないんだ」

改めて会話を続ける。

「そいつは、この会社の人間で……」

サイレンの音がぴたりとやんだ。

どうやら、目的地に到着したらしい。ついつい、救急車を探してしまう。

「あ、あらっ?」

「あっ!」

真優が叫ぶのと同時に、彼も叫ぶ。

なんと、救急車は会社のエントランスに横づけしたのだ。

救急の患者が、この会社の人間だったとは……

一体誰だろう?

「まっ、まさかな……」

焦ったように男が呟き、真優の腕を掴んできた。

「なっ」

「隠れよう。見つかるとまずい」

「わたしは隠れる必要ないんですけど」

「そう言わずに、もう少し付き合ってくれ。怪我をさせてしまったし……詫びがしたい」

返事に迷っていると、彼に引っ張られてしまい、なぜかふたりで黒い車の陰に隠れた。

後部座席の窓から様子を窺う。

待つこと数分、担架に乗せられたひとが隊員たちの手によって運ばれてきた。

スーツの男性がふたり付き添っている。ひとりは由梨の片思いの相手、相田のようだ。

もうひとりは……

副社長の補佐の村形さんっぽいけど……?

……ということは、彼らの上司が倒れたのだろうか?

ドキドキしていると、男が舌打ちをした。思わず顔を向ける。

「まさか……」

「ま、まさかって?」

「あ……いや……なんでもない」

彼が口ごもっていると、携帯のバイブ音がした。真優のものではない、彼の携帯だ。

おもむろに携帯を確認すると、彼はずいぶんと渋い顔をした。

よくない内容が書かれていたのだろうか?

救急車は再びサイレンを鳴らして去っていった。

一体誰が運ばれていったのか気になるが……たぶん、月曜日に会社に行けばわかるだろう。

エントランスに群がっていた野次馬がいなくなり、辺りは静かになった。

「俺の友人かもしれない」

男が潜めた声で言う。

ひどく沈痛な面持ちをしており、真優はどきりとした。

「えっ?」

「運ばれてったやつ」

「どうしてそう思うんですか?」

「連絡がないからさ。俺が無事逃げられたか、確認してこないわけがないのに……」

「いまのメールは、そのひとからじゃなかったんですか?」

「いまのは、俺の姉貴から」

「お姉さん?」

「なあ、君」

「はい?」

「自宅まで送らせてもらえるか?」

真優は答えに迷った。

その申し出はありがたい。なんせ、転んだせいで膝に血は滲んでいるし、ストッキングはビリビリ。

こんな姿で電車に乗って帰るのは、ものすごく恥ずかしい。

でも……

知らない男のひとの車に乗るっていうのは……さすがに……

「……そう……ですね」

「俺は信用ならないか?」

真優は「そんなことは……」と口ごもる。

まあ、そうなんだけど……

「君の立場なら、信用できなくて当然だ」

男は腕を組んでしばらく思案していたが、突然声を発した。

「なあ、君ってさ」

「なんですか?」

「猫、好きか? 苦手か?」

「ね、猫? ずいぶん唐突ですね」

「差し迫った事情があってな」

「まーた、意味のわからないことを」

呆れたように言うと、男が噴き出した。

「君、面白いな」

くっくっと笑っている彼を見ていたら、自然と頬が緩んでしまった。

このひと、やっぱり悪いひとじゃなさそうだ。





   
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