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第2話 突飛な依頼
「……猫は好きですよ」
真優は自然とそう口にしていた。
「そうなのか?」
真優の返事は、彼をとんでもなく喜ばせたようだった。
「実は俺、いま、ものすごく困った状況に陥ってるんだ」
「はい? あなたがいま、困った状況にあるのは、言われなくてもわかりますけど……」
「いや、そういうことじゃないんだ。そっちじゃないというか」
真優は眉を寄せた。
「これから姉貴ん家の猫を預かることになってるんだが、俺は猫が苦手なんだ。だから君、二週間、俺の代わりに猫の世話をしてくれないか?」
な、なんとも突飛な頼みだ。言葉も出ない。
「礼はたっぷりとさせてもらう。頼むから引き受けてくれないか?」
よほど切羽詰まっているらしい。
彼の必死な様子に、思わずほだされそうになる。
ダ、ダメダメ……
「む、無理です。……だって、わたしのアパート、ペット禁止だから」
「俺の家で面倒を見てくれればいい。そのほうが俺も助かる。姉貴のやつ、旅先から電話をかけてきて、元気な鳴き声を聞かせろなんて言い出しそうだから」
「お姉さん、ずいぶんかわいがっていらっしゃるんですね」
「ああ、甘やかし過ぎだと思うけどな。だから、そりゃあもう、でっぷり太って……」
でっぷり?
丸々っとした猫を想像してしまい、口元が緩みそうになる。
もう、猫かわいがりしたくなるくらい、かわいいにゃんこちゃんなんだろうなぁ。
会ってみたいかもぉ〜。
マンチカンかなぁ〜、ソマリかなぁ〜、それとも、スコティッシュフォールド?
メインクーンでもいいけどぉ〜。
「あの、お姉さんのにゃんこちゃん、種類はなんですか?」
胸が弾み勢い込んで尋ねると、彼に苦笑された。
恥ずかしくなった真優は顔を赤らめた。
「話の続きは、車に乗ってからってことにしないか?」
くすくす笑いながら提案されたが、やっぱりまだためらいは払拭できない。
このひとは信用していいような気がするんだけど……
「後部座席のほうがいいか?」
考えている最中に突然声をかけられて驚いた真優は、思わず首を横に振っていた。
「そう? それじゃ、前に」
……ええい、もうなるようになれ!
真優は残っていたためらいを捨て、助手席に乗り込んだ。
「ふうっ」
運転席に座ったところで、彼は大きく息を吐き、ネクタイを緩める。
その仕草がひどくセクシーで、真優はどきりとした。
「ああ、すまない。ネクタイとか、俺、あまり馴染みがなくて……窮屈なもんだから……つい」
「い、いえ。構いませんので、どうぞ」
何が『どうぞ』なのか、自分でもわからないが……自然とそう口走ってしまっていた。
「あの……じゃあこれから予定を変更して、姉貴のところに向かっていいか?」
「えっ? わ、わたし、まだ引き受けるとは……」
「リンを見てから引き受けるかどうか決めてくれればいい」
彼は真優の返事も待たずにエンジンをかけ、車を発進させる。
彼女は慌てた。
「あ、あの……で、でも……」
にゃんこを見てしまったら、断りづらくなっちゃうのに……
それにしても、このひと強引すぎる。
そんなに猫の世話が嫌なのだろうか?
「そんなに苦手なのに、どうして引き受けることにしたんですか?」
「姉貴の旦那がいま海外赴任してて、もうすぐ四ヶ月になる。なかなか戻ってこられないみたいで……だから姉貴が会いに行くことにしたんだ。実はまだ新婚ほやほやでね」
「結婚してすぐ離れ離れなんて……可哀想です」
「俺もそう思う。だからまあ、引き受けることにしたんだけど……俺はリンとはソリが合わないから不安でね」
「にゃんこちゃんの名前、リンちゃんって言うんですか?」
名前を知ったことで、真優の脳内のにゃんこ像はさらにリアルなものになっていく。
「そうだ、種類を聞かれてたんだったな。えーと……何度か聞いたんだが、長ったらしい名前で……ノルウェー……なんとかって……ダメだ、思い出せないな」
「あっ、わかります。ノルウェージャンフォレストキャットでしょう?」
彼は呆気にとられた顔をしたあと、噴き出した。
「君、すごいな。そうそう、そんな名前だったぞ。……それにしても、君ってほんと、猫が好きなんだな」
「だって、にゃんこってかわいいじゃないですか。……あっ、でも、あなたは苦手なんですよね」
そう言うと、彼は困ったような顔をした。
その表情に、なぜか鼓動が速まる。
「あの……他に預けられる人はいないんですか? ご両親とか」
「両親がいま住んでいるマンションは、ペット禁止なんだ」
「ペットホテルとかは?」
「以前預けたことがあったらしいんだけど、ストレスがたまって、大変なことになったらしい」
そうなのか……かなり繊細な猫ちゃんらしい。
真優の脳裏に、いたいけなにゃんこが浮かぶ。
「だから、猫好きの君が世話をしてくれたら、本当に助かる」
そう言われると……
「そういえば……名乗るの、忘れてたな」
「あ……ああ、そういえば、そうですね」
「猫の名前やら種類やらの前に、自己紹介すべきだった。俺は、藤枝慎也。君は? 教えてもらえるか?」
「は、はい。わたし、中野真優です」
「まひろ? へーっ、どういう字を書くんだ?」
「真実の真に、優しいの優です」
ちらっとこちらを向いた彼にふっと微笑まれ、真優は戸惑った。
なんだかその笑みに、含みを感じたのだ。
彼はその様子に気づき、慌てたように説明してくれる。
「ああ、すまない。俺、ひとが自分の名前をどんなふうに表現するのか……興味があって」
慎也の言っていることが、いまひとつ理解できず、真優は「名前を……表現?」と口にして、首を捻る。
「いま君は、自分の名前を、真実の真に、優しいの優と言ったろ?」
「は、はい。あの、それが?」
「真剣の真に、優秀の優と言ってもいいわけだけど……君は、いつもさっきと同じように答えてるんだろ?」
「ああ、確かに……いつもそう言ってます」
慎也は頷き、さらに話を続ける。
「たいがい親がそう教えるんじゃないかな? つまり親は、子どもにそうあれと望んでいるんじゃないかと思ってさ」
真優は感心した。
彼の言うとおりかも。まあ、自分が真実、優しいひとになれているかは別として……
「それじゃ、しんやさんは……あっ、そ、そう呼んでも?」
「構わない。俺も真優さん……いや、もういっそ呼び捨てにしてもいいか? 俺も慎也でいいから」
よ、呼び捨て?
いきなりハードルが高いけど……
「も、もちろん、わたしのことは好きに呼んでもらって構わないです」
「うん。それじゃ、真優」
「は、はいっ」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
男のひとに名前を呼び捨てにされるなんて、初めての経験だ。
「あの、それで、あなたの名前の漢字は?」
「俺は……」
なぜか慎也は口ごもる。そして、ちらりと真優を見て、にやっと笑う。
心臓がトクンと高鳴った。
こういう状況に慣れていないから、緊張しているのかな……ちょっとしたことにいちいち過剰に反応してしまって……わたしときたらまったく恥ずかしい。
「慎也の慎は、慎重の慎と説明しやすいんだが、『や』のほうがな」
「そんなに説明しづらい漢字なんですか?」
頭の中で、『や』と読む、難しそうな漢字を思い浮かべながら言うと、慎也がおかしそうに笑い出した。
彼の笑い声が真優の胸に奇妙な具合に響き、戸惑った。
このひとの声って、低音のせいか、胸に響くみたい。
「逆だよ。すごく説明しやすいんだ。ひらがなの『せ』、みたいなやつ」
一瞬困惑した真優だったが、すぐに笑いが込み上げてきた。
くすくすといつまでも笑っていると、頭をコツンと小突かれた。
「笑い過ぎ!」
「だ、だって。慎也さんが悪いんですよ。どんな難しい漢字なんだろうと思うじゃないですか」
「確かに」
慎也も笑い出し、どうにも胸がくすぐったい。
「それにしても、真優っていい名前だな」
「そ、そうですか? そんな風に言われると、照れます」
「名前って、大きいよな。名前から受ける印象で、そのひとの性格を判断してしまうこともある」
「ああ、誠の文字を使ってると、誠実なひとだとイメージしてしまうみたいなことですか?」
「そうそう。小説の主人公でも、ユーキっていう名前のヒーローには、強い敵に果敢に挑むことを期待したり」
「ああ、なんでしたったけ、その小説!」
それから、互いの好きな小説の、登場人物の名前で話が盛り上がった。
「ほんと面白いですね。登場人物の名前だけで、こんなに話が弾むなんて思っていませんでした」
「俺も驚いた。小説の趣味が似てたってのもあるんだろうけど」
好意的な言葉に、胸がくすぐったくなってしまう。
「姉貴の家まで、もうすぐだから」
助手席から見える景色は暗く、ここがどの辺りなのかさっぱりわからない。
「あのさ」
「はい?」
「……聞かないのか?」
「えっ? 何をですか?」
「その……もちろん、さっきのこと……俺が逃げてた理由……」
ああ、そういえばそうだったと思い出す。
「どうして逃げてたんですか?」
ストレートに聞いたら、慎也がくすくす笑い出した。
「あの……何がおかしいんですか?」
「いや……その……ごめん」
慎也は気まずそうな顔をした。
「別に謝らなくてもいいですけど……」
「あの、とにかく俺は……犯罪者ではないからな」
「それじゃ、追われていたのはなぜなんですか? 救急車の近くにいたふたりに追われていたんですか? ……そういえば、救急車で運ばれたのって……?」
真優は慎也を見つめた。
「あなたの友人だったんでしょう? 連絡が来ないって……」
「たぶん……そうだと思う?」
「い、いいんですか?」
「そう言われても……俺にできることはないしな。……いずれ連絡をくれると思う」
淡々と語っているが、慎也の表情から彼の不安が伝わってきた。
「きっと大丈夫ですよ。救急隊員のひととか、相田さんたちも、そんなに慌ててる感じじゃなかったし」
「そうだな……真優、ありがとう」
改まってお礼を言われて、真優は顔を赤らめた。
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