思いは果てしなく 
その14 甘い夢は君と



尚の部屋に入った途端、響は頭を抱えて座り込んでしまった。
なんだか声も掛けづらいし、どうしていいか分からず尚はベッドに腰掛けた。
しばらく沈黙が続いた。

「あの時以来だな」
ぽつりと呟くように言った響に、尚は顔を上げた。
彼は尚の部屋全体を、ゆっくりと確かめるように眺めていた。

「変わったものも多いけど…やっぱ変わってないな」
切なさと懐かしさを漂わせて響が言った。

尚は、返事が出来なかった。
いまここに響がいるということが、とても信じられなかった。
ほんの数十分くらい前まで、ベッドにうつぶせて泣いていたのに。

「さっき、…いつからあそこにいた?」

そう問われて尚は言葉に詰まった。
彼女が詰まったことで響が悟ったことに気づいたが、一応誤魔化す努力をしてみた。

「ええっと、な…成道が、俺様発言したあたり…かしら」

そう言って、気まずくちらりと響を見たが、すでに彼は聞いてなどいなかった。はぁーっと息を吐き出して仰向けに倒れた。

この狭い空間で、彼の身体を異常なほど意識してしまう。
まるでその肉体が磁気を発しているかのように、強烈にひきつけられる。
なのに、どうして彼の方はこうも平然と寝転がっていられるのだろうと、尚は腹が立った。

「あ、あの、どうして家に来たの?」
先ほどからずっと聞きたかった疑問を口にしてみた。

成道の常軌を逸した怒鳴り声を耳にしては、さすがにベッドに転がってしくしくとしおらしく泣いてなどいられなかった。
階下に下りると、キッチンの方のドアが開いていて、そちらに父親の姿がちらりと見え、彼女はそっと中を伺ってみた。
彼女に気づいた母親が口に指をあて、その指で居間の方を指した。

対面式のキッチンと一続きになっている居間の一番奥に、こちらを向いている成道がいた。そしてもう一人の男性の後姿は。
響だと気づいた時には、驚きすぎて後ろにのけぞりそうになった。

「成道から電話があった。君が…泣いてるのは俺のせいだって」
そう言うと、響は起き上がった。

「それってほんとのことなのか?」

響の身体を意識しすぎていた尚は、彼の言葉のほとんどを聞き取れていなかった。
黙り込んでいたら、響が近寄ってきた。
ベッドの下から真剣な目で見つめてくる。

「ほんとのことなのか?」

少し強めに繰り返されて、尚は思わず頷いた。

「謝らなきゃならない。彼女がいた。見たんだろ、今日?」

尚は息がとまった。苦しすぎて息が吐き出せない。

「成道からいやになるほど怒鳴られた。俺も、浅はか過ぎたって反省してる。ごめん」

頭を下げた響を突き飛ばしてやりたかった。

「もういい。謝罪なんていらないっ。いますぐ出てって」
尚は立ち上がり、ドアを開けて彼を睨んだ。

「嫌だ」
その強い否定の言葉に尚はめんくらい、一瞬思考が停止した。

「俺は絶対別れないっ」
その大声に、尚は慌ててドアを閉めた。

「だって…あの子、本気の彼女なんでしょ?成道がそう言って…」

響がすっと近づいてきて、彼の長い指が彼女の頬に触れた。

「それは成道の勘違い。本気はこっち。彼女とはちゃんと別れたから、今日」

本当に、彼は自分のことをずっと好きだったというのだろうか?だけど…
尚は、響の指を跳ね除けた。

「でも、八年前、わたしのこと突き飛ばして逃げたじゃない。あれは、あ、あのキスで、私のこと嫌になったからでしょ?」

響が戸惑いを見せた。

「何言ってるんだ。俺のこと嫌になったのは君の方だろ。あのあと、すぐに彼氏が出来て…」
言葉が途切れるのと同時に、響のテンションがずんと落ちたのが分かった。

「だって、年下の男の子にキスねだって、挙句突き飛ばされて…もう自尊心ボロボロだったんだもん。自暴自棄にもなるわ」
なぜか、響が声にならない声を洩らして固まった。

尚は、あの時の苦悩が、堪らないほど溢れてきて涙が零れた。
胸を掻き毟りたくなるほどの羞恥。
取り返しがつかないことをしてしまったという後悔。
そして堪らないほど好きだった彼に嫌われたという事実に、どれだけ苦しんだことか。

「俺のせいなのか?。八年も逢えなくて、その間君は数え切れないほど他の男と付き合って…。それ、全部俺のせいか?信じられない。いや、受け入れたくない…ちくしょう」
響が崩れるように座り込み、そのまま深くうなだれてしまった。

響の言葉の真意が掴めず、尚は彼の言葉をひたすら待った。納得の行く説明をして欲しかった。なぜあの時、彼女を突き飛ばして逃げたりしたのか。
涙が止められず、彼女のしゃくりあげる声が部屋を満たしてゆく。

「言わなきゃいけないんだろうな」
響が自嘲した笑みを浮かべて言った。

握り締めた両手を胸にぐっと押し当て、尚はじっと響を見つめた。
響は、彼女から顔を背けて視線を床に落とした。
なんども唇を開きかけては、ぎゅっと唇をかみ締める。

「果て…たんだ」
長い沈黙の後、彼が弱々しく言った。

「果てた?」
尚は彼の言葉を繰り返した。
なぜか響の顔が引きつった。

意味が分からなかった。

「…そういう無知は、罪だぞ」
響が力なく肩を落とした。

「無知?罪?」
クエスチョンマークが頭に湧いたおかけで涙が止まってきた。尚は手の甲で涙を拭いた。

「射精したんだ」

「は?」

「あのキスで欲情しすぎて」

「射精?欲情?」
尚は頭の中で理解する前に言葉にしてしまい、はっと気づいて慌てて口を覆った。
響の瞳が諦めと哀しみに曇っている。

「気づかれたんだって思った。君が俺を避けてるのに気づいて…軽蔑されたって」

確かに驚きの事実だった。でも…
あのキスで、彼に嫌われたわけじゃなかったのだ。
尚にとって、その事実が何よりも大事だった。

尚は響に抱きついた。
不意をつかれた響の身体がよろけて、ふたりは床に転がった。

「尚」
戸惑ったような響の目が愛しかった。
名前を呼び捨てにしてくれたことも狂いそうになるほど嬉しかった。

尚は響の顔を見つめた。
いつも冷ややかにすら見える全体の印象。だがいまは、彼女を求めて切なげに顔を歪めている。
昔と変わらぬ不思議な輝きを秘めた瞳。そこに自分の姿を認めて尚は微笑んだ。

「尚」と響が切なげにもう一度呼んだ。
尚は響の唇にそっと指で触れた。響の身体が震え、彼女を喜びで満たす。

彼女はそっと唇を重ねた。
思う様互いの唇を蹂躙して、ふたりはやっと唇を離した。

ぽおっとした思考の入る隙間がないまま、ふいに天地が逆になり、響が彼女の上にいた。
響の指が首筋に掛かった髪をそっと払い、あらわになった首筋に顔を埋めてきた。

「…愛してる…ずっと愛してた」
ずっとずっと望んでいた言葉だった。胸が甘いうずきに痛んだ。そして、囁きで唇がもたらす振動が、尚の首筋にも信じられないほどの甘い振動をもたらした。

背筋に覚えのある律動を感じた。
響の唇が首筋を這う。
身体の中心を這い登ってくる振動、そして身体が溶けてなくなったかのような浮遊感。
それらすべてがあまりに強烈過ぎて、尚は意識が遠のいてゆくのを止められなかった。





キスの途中でぐっすりと眠ってしまった尚に気づいて、響はため息をついた。
置き去りにされた欲望が、響の身体の中を駆け巡っているというのに。

数回深呼吸をして熱を冷まし、尚の身体を抱き上げてベッドに横たえた。
ベッドの傍らに立って、眠り込んでいる尚の全身を愛しげに眺める。

この場で思いを遂げたいという思いが欲望と結託して彼を責める。
だが、いま始まったばかりなのだ。
これから少しずつ少しずつ味わいながら、ふたりの関係を築いてゆきたかった。
焦りと欲望に負けて眠っている彼女を抱いてしまっては、きっと行為の後で後悔することになるだろう。

響はシャツを脱ぎ捨て、ベルトのバックルを外し、ズボンのファスナーに手を掛けた。
その時、ドアをノックする微かな音が聞こえた気がした。
不審に思ってドアに歩みよりそっと開けてみた。外には誰の気配もなかった。

気のせいだったのかとドアを閉めようとしたその時、足元に何かが落ちているのに気づいた。
四角い小さな包みだ。
手を伸ばしてその中のひとつを手に取り、しげしげとその物を見る。

「う、あっ」
しんとした暗闇に響き渡るのに、十分な大きさの声だった。

ベッドに座り込んで数を数えてみた。なぜか七つある。
これって一晩でこんなに必要なものなのか?
それにしても、これを置いて行ったのは誰なのだろう。成道なのだろうか?

そうであって欲しいと思った。
だが、成道ならば、あんな風に遠慮がちなノックをするとは思えなかった。そして相沢家の母親も。

笑いを堪えきれず、響は忍び笑いを洩らした。
同時に、これを置いていった人物の複雑な思いに、ただ感謝した。

脱ぎ捨てた服を椅子の背にかけて、響は尚の隣に滑り込んだ。
びくんと、尚の身体が震えた。

響はにやりと笑った。
今夜を長いと思うのは彼ひとりではない。

響は彼女の髪に指を絡めた。
彼女の髪の感触を確かめ、それから顔を寄せた。
鼻腔から入り込んでくる彼女のかぐわしい香り。
下半身が処置に困る熱を帯びてゆく。

響は口元に歪んだ笑みを浮かべ、その熱い塊を尚の柔らかな腿にそっと押し当てた。
彼女の全身が硬直した。それだけで十分だった。
彼女が寝たふりをやめてしまったら、とどまる自信はさすがにない。

寝ているふりを必死で続けている尚に、響は口づけた。
あまやかな香りと味わい。
尚が辛そうに潜めた吐息を吐いた。
それに満足して、響は彼女の首筋に顔を埋めた。しあわせだった。

思ったよりも苦痛なく、眠りが迎えに来てくれそうだった。
成道の言葉を、彼女に確かめたい気もしたが、それもいまはどうでもよかった。
今自分の腕の中に、尚がいる。それだけで十分だ。いまのところは。

馴染みの妄想の実物を抱きしめ、思いを遂げる日に思いを馳せながら、響は甘い夢に引き込まれていった。



End




  
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