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その6 甘い香りに誘われて
幻想的な部屋。一言でいうと、そういう雰囲気だった。
クリスマスイブのディナーには最高の場なのかもしれない。
だが、やりすぎ感の否めないロマンティックムードに、響は鼻血を噴いて倒れそうだった。
実際は倒れもしなかったし、鼻血もでなかったし、それどころか、傍目には何も動じていないクールな男としてしか映っていない響だったが…
スペシャルルームは、その名を裏切らない豪華さで、床はふかふかの絨毯が敷き詰めてあった。
響はなんてことはないが、ヒールの靴を履いている尚は足を取られるようで、テーブルに付くまでに数回よろけた。
響はもちろん尚の身体を支えてやり、そのたびに気分が良くなった。
「尚、ドレスもだけど、この靴もとても素敵だね。君にとてもよく似合う」
「え?そ、そう。ありがとう」
少し不安そうだった尚の顔が、パッと明るく輝いた。
ほんのり赤くなった頬が、なんとも言えず愛らしい。
響はしまりない笑みを浮かべた。
響バージョンのため、他のものの目には、しまりなくは映らなかったが…
もちろん尚の目には、胸の中に桃色の花びらが舞うほど極上の笑みに映っていた。
「素敵な店だね」
響は口ではそう言ったものの、折り合いのつかない複雑な気分だった。
正直、こういうディナーの場に尚を連れてくるのならば、響の支払いで無ければ…
福引の賞品と思うせいで、男としてのプライドが軋む…
響は小さく息を吐くと、プライドと考えた自分を叱り付けた。
もうプライドなどには、こだわらないと決めたではないか。
こんな場所でのディナーなど、福引で当たりでもしなければ、尚を連れてきてあげることなどできやしないくせに…
響は己を罵った自分に呆れて、また息を吐いた。
どうしてこうプライドに囚われるのだ。
プライドなんてもののせいで、尚との時間を、8年間も無駄にしたというのに…
あの時…初めてのキスをした時…耐えられないことだけれど…尚の前から逃げ出したりしなければ…
ふたりはあの時点から、ふたりの時間を育めたはずだったのだ。
なのに…無様な自分を晒したのが堪らなくて…ふたりの間に修復できない亀裂を生じさせてしまった。
響は気持ちを切り替えた。
尚が楽しんでいるのならば、彼もこのディナーを楽しもう。
このディナーが、福引の賞品だなどと考えるのもやめよう。
イブの夜なのだ。
尚の思い出に残る最高のものにしたい。
部屋の中には淡い光が満ち、ほどよい気品を持ってクリスマスの飾り付けがされていた。
部屋の中の一対しかないテーブルに、ふたりが向かい合って座ると、楽器を手にした人たちが5人ほど、そろそろと入って来て、響たちの左側になる、彼ら専用の位置についた。
バイオリンやら、クラリネットらしき楽器、そしてグランドピアノの前にも男が座った。
静かな空気の中、演奏が始まった。
もちろんクリスマスソングだ。
「素敵ね」
響は尚のやわらかな言葉に、彼女に顔を向けた。
小さな楽団の演奏を眺める尚は、とても幸せそうだ。
響の心にも温かなものが広がった。
料理も手の込んだもので、とても美味しかった。
ノリノリ店長は、邪魔にならないだけ登場し、ふたりの世話をあれこれ焼いてくれた。
なにもかもが、福引の景品とは思えない豪華さだった。
そう言えば、尚は、スペシャル店長賞だと言っていた。
尚の話によると、彼女が金色だったというくじを引き当てた時、ずいぶんと店員は騒いだそうだし、彼女の名付けた、ノリノリ店長のネーミングのせいで、ディナーの最中もうるさく付きまとわれるのかと懸念していたのだが、そんなことは杞憂だったようだ。
それどころか、店長はとても礼儀正しい紳士だ。
「響君、楽しい?」
食事の中ほどで、突然尚が聞いた。なぜか少し心配そうだ。
「どうして?楽しいよ」
「なんか…いまになって…響君を、無理やり連れてきちゃった気がして…」
「そんなことないよ。素敵な尚を前にして、楽しいに決まってる。尚は楽しくないのか?」
「わたしは…響君が楽しいなら、楽しい」
響は尚の言葉に微笑んだ。
黒のシックなドレス姿の尚の全身は、本人の知らぬところで、なんとも言えない男心をそそる色香を醸し出しているというのに、尚の内面は、はにかみやでとても控えめだ。
いまも、少し必死な瞳をしている尚が、響は愛しくてならなかった。
「僕もだ。尚が楽しいなら、楽しい。どんな場所でも、尚といられさえすれば僕はしあわせだよ」
潜めた声だったし、楽団の奏でる音楽の中、ふたり以外の耳には届かないだろうと思ったのに、ベストタイミングで感心したような、「ほーっ」というひそやかな声が聞こえ、響は、顔は動かさず、視線だけ楽団に向けた。
だが、楽団の全員、澄ました顔で楽器を演奏している。
いまの声…気のせいだったのだろうか?
「あの、響君、さっき、ただって…、何か言いかけたでしょ?何を言おうとしたの?」
「うん?いつのこと?」
「お店の前で…私が楽しければ響君はどこでもいいって…。そのあと、ただって言いかけたの、何が言いたかったのかって…気になって」
響はフォークとナイフを置き、尚にまともに向き合った。
「尚」
「なあに?」
「僕は、尚にしてやりたいことがたくさんある。なのに…その…引越しもしたし…貯金はまだそれほどない。本心は、この店にも、僕自身が尚を連れて来たんだったら良かったのにって、そう思ったんだ」
「響君」
彼は、尚に向けて微笑んだ。
胸の底にある思いを尚に伝えられて、響は少し楽になった。
「成道に叱られたよ」
「成道?」
「うん。男のプライドとかって、意地張ってる場合じゃないって。そんなことやってたら、尚を失くすぞって脅された」
「わたし…」
「成道は僕と同じ歳で、あの性格だから、派手に遊んでるように見えるのに、しっかり男してるんだよな。なんか悔しくなる」
「そんなことない。響君の方がしっかりしてるもの。成道なんて、ひとのことからかってばっかりで、ぜんぜんよ」
成道をくさす、尚の子どもっぽい表情に、響は笑みながら、また食事を再開した。
話したことで心が軽くなり、食事はさきほどまでより美味しく感じた。
音楽は、ディナーと合わせてプログラムが作られてあるのか、効果的なタイミングで曲が変わる。
空になった皿が片付けられた後は、ぐっと落ち着きのあるしっとりとした雰囲気の曲に変わった。
響も耳にしたことのある、親しみのあるメロディーなのだが、曲のタイトルは分からなかった。
黒服の男が近付いてきて、少し屈み込んでふたりに話し掛けてきた。
「ダンスをなさってはいかがですか?」
「ダ、ダンス?」「ダンス?」
響と尚はほぼ同時に叫んだ。
「やったことありませんから」
顔の前で慌てて手を振る尚に合わせて、響もこくりと頷いた。
「スローな曲ですから、ステップなど必要ありません。おふたり寄り添われて、身体をほんの少し動かすだけでこと足ります」
その言葉に、尚は少し心を動かされたようだった。
渋っている響に、店長がやさしく微笑んだ。
「イブの夜の、思い出になりますよ」
店長の勧めがうまいからか、ふたりはいつの間にやら立ち上がって、身体を寄せ合っていた。
店内はほどよく薄暗く、抱き合うのにそれほど違和感を感じなかった。
尚を抱き締めた響は、彼女の柔らかな抱き心地と、尚の身体から立ち昇る甘い香りに、すっかり彼女のとりこになって、他の状況に心を配る余裕を失くした。
ふわふわとした意識の中、響は尚の耳元に唇を寄せた。
頭の中にはピンクの靄が掛っていて、彼の本能が、もっと尚を強く抱き締め、彼女の肌の感触を濃厚に感じろと命じてくる。
「尚、愛してるよ」
彼のささやきは、どこか別次元にあった。
本当に言葉にしたのかも分からなかったが、なぜか急激に胸に切なさが湧き上がった。
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