続 思いは果てしなく 

初めて恋づくし
その1 鏡よ鏡、鏡さん



後もう少し。

踏み台に上がった尚は、棚の上の白い箱に到達するべく、手を伸ばした。だが、届かない。
目に見えているのに手が届かないというのは、ほんとうに苛立たしい。

目的の箱は、たぶんあれだったはずだ。

尚は、限界を超えるほどつま先だって、ぐっと腕を上げた。
足元が安定感をなくし、踏み台がずるっと横に滑った。

「き、きやーー」

ドテッっと鈍い大きな音とともに、尚は床に転がった。

「いったーーぁ、た・た・た」

腰と背中をしたたか打って、尚は痛みにもだえた。
棚の上を見上げると、白い箱は少しいざったものの、まだ同じ場所にいて、尚をあざ笑っているようだ。

「まったく、成道みたいにかわいくないやつ」

「誰が、かわいくないって」

声に振り向くと、部屋の入り口に、腰に手を当てた偉そうなポーズで、成道が転がっている尚を見下ろしていた。
尚は、先のことを考えて、誤魔化すように笑った。

「いや、あのね。あの箱が取れなくって、箱が、かわいくないなって…」
尚は、箱を指で示し『箱』を強調して成道に言った。

「俺がどうとかは…」
成道の笑みにずいぶんと辛みが効いている。
尚は、「ははは」と意味も無く笑い、意味も無く人差し指をほっぺたに当てた。

「成道に取ってもらえれば、あんなもの簡単に取れるのにって…思って。そしたら、それらの言葉が適当に重なっちゃったのよね」

「いい訳も、それだけ適当に並べられれば、ひとつの才能ではあるな」

成道はそう言うと、踏み台に上がって白い箱をひょいと取った。

「おおーっ」尚は思わず拍手した。

「いい加減起きたら。…もしかして、どこか痛めたんじゃないのか?」

憎まれ口と成道は切っても切れない間柄だが、それさえなければ実に優しい弟だ。

尚は、差し伸べてくれた成道の手をありがたく握り返して、起き上がった。
腰と背中にまだ痛みがあったが…

「なんとか、大丈夫みたい」
痛むところを手でさすりながら尚は答えた。

「それで、その箱、いったい何が入ってるんだ?」

「靴。白いの。小花がついてるやつのはずで…あ、これこれ。良かったぁ」

箱を開けて中身を確かめて尚はほっと息をついた。
成道が腑に落ちない顔をした。

「靴って、…たしか昨日、仕事帰りに買ってきたとかって、お袋に見せてなかったか?」

「今日着ていく服、違うのに変えたの。だからあれじゃ駄目」

「響と逢うだけだろ。あいつが靴なんかいちいち気にするかよ」

やはり、先読みの名人も、女心はわかっていないようだ。

「そういうことじゃないの。それより成道、駅まで送ってってよ」

「響は?迎えに来るんじゃないのか?」

恋ボケの顔で、尚はへらへらと笑った。

今日は、駅で待ち合わせしようと尚が提案したのだ。
響と駅で待ち合わせなんて、やったことがないから、どうしてもやってみたかった。
もちろん、まだ付き合い出して二週間しか経っておらず、やったことがあることの方が少ないのだが。

話を聞いた成道は、壁に手をついて、めまいがしたかのように目を閉じると、力なく肩を落とした。

「あ、約束の時間に間に合わなくなっちゃう。成道、早く車出してよ」

「何で俺が。響にここまで来てもらえよ。どうせ駅からは車なんだろ」

「ううん。電車で遊びに行くの。ふたりして電車に乗るのも初めてなんだよね。わたしたち」

桃色の妄想にどっぷりはまった瞳で両手を握り締め、身体を左右にくねらしながら尚が言った。

成道は、反論する気力をすべて無くしたらしい。

「尚、早く車に乗れ。いますぐ送ってく。どこへでも出かけて、俺の前から姿を消してくれ」

「はーい」

尚は、成道の言葉の半分も耳に入れていなかった。
彼女は素直に返事をすると、靴をぎゅっと抱きしめて、いそいそと玄関へ向かった。

昨夜の電話でおやすみを言う前に、響が照れた声で、「尚と始めてあった時に着ていた白い花柄のワンピースとても似合ってた。俺あの時、尚に一目ぼれしたんだよな」と言ったのだ。

自分が着ていた服など覚えていなかったが、電話を切ってすぐ、尚は記憶を探り、アルバムを広げて響の言う服を探し当てた。

そのワンピースはもちろんすでになかったが、それに良く似た柄のスカートとそれに似合うブラウスと、それに合うカーディガンを探して、昨夜はずいぶん遅くなってから寝ることになってしまった。

朝になって、さあ駅まで行こうと思った時に、用意した服に似合う靴をそろえていなかったことに気づいて、慌ててこの靴を探したのだ。

成道の車の後部座席で、見つかった靴とスカートの取り合わせがパッチリ決まっていることに気をよくして、尚はふんふんとハミングした。

運転手が、切れ切れの乾いた笑い声とともにため息をついたのにも、尚は気づかなかった。





成道の車から降りて、尚は響の待つ場所に急いだ。
ちょうど時間ぴったりだった。

響はすぐに見つかった。
駅の大きな丸い柱に背をもたせて、尚の反対側に視線を向けている。
歩いて来ていれば、尚が姿を見せる方向だ。

尚は、無意識に立ち止まり、響の姿をうっとりと見つめた。
片手をポケットに入れてひと待ち顔で尚の姿を捕らえようとしている響に、胸がきゅんとする。

響は素敵だ。このままずっとその横顔にぽーっと見惚れていたいほどだった。
だが、さすがの恋ボケも、そうはしていられないことくらいわかっている。

二歩歩いた尚は、また足を止めた。
響に、若い女の子が声を掛けたのだ。
知り合いだろうか、それとも道を聞いているのか、逆ナンパだろうか。

尚は女の子の服と自分の服を見比べて顔をこわばらせた。
女の子は、黒いセーターと短いジーンズのスカートにブーツという服装で、ジーンズに黒いセーターを着た響と、まるでペアルックのようなのだ。
女の子が自分の黒いセーターの胸の辺りをくいっと引っ張って、響に笑いながら何か話している。その内容は大体想像がついた。

尚は、自分の服装をあらためて見下ろした。
花柄の少し長めのスカート、白い小花のついたパンプス。

ジーンズにセーターを着てくればよかった。
そして、スニーカーを履いてくれば良かった。

そう悔いるように思ったけれど、尚の胸の痛みの原因は、そればかりではなかった。
響には、あの子のような、若い子のほうが似合う。そう思えてならなかった。

尚は自分の服が心底嫌になった。
自分の年齢を考えもせず、こんなにかわいらしい服を着てきたことが、恥ずかしくてならなかった。

駅での待ち合わせ。そして出会った時と同じような服を着た尚が幸せそうに微笑んで小走りに駆け寄ってくるのを見つけて、とろけそうな顔をする響。
そんな、尚の勝手な思い込みで創り上げられた妄想は、すべて崩壊していった。

尚は唇を噛み締めて、響に視線を向けた。
響は、手にしていたグレーのブルゾンを着ているところだった。女の子がなぜかむっとして、響のその様子を見つめている。

尚は心を決めて響に近付いて行った。
内心、響がこの服を見てがっかりしたらどうしようと、ひどく怖かった。

「尚。遅いぞ」

尚は、響にためらいがちに微笑んだ。
その時、まだ同じ場所にいた女の子が、短いこもった叫び声を上げて、数歩後じさったのがはっきりと判った。
女の子を見ると、尚の顔から下へと視線を這わせ、薄ら笑いのような笑みを浮べた。

尚は、顔を引きつらせた。やはり、この格好がおかしいのだ。
歳を誤魔化そうとして若作りしていると思われたのに違いない。

女の子は何も言わずに歩き去って行ったが、尚はいたたまれない思いにさいなまれて萎れた顔で俯いた。

「尚、その服…」

響の声には喜びが滲んでいたが、尚はその言葉を悪く解釈して泣きたくなった。

「わたし…こんな服着てきちゃって…ごめんなさい。みっともないわよね?」

「は?何言って?」

「わたし、着替えてくる」
踵を返して走り出そうとした尚は、響に腕を取られた。

「ほら、尚、落ち着いて。みっともないとか、着替えてくるとか、俺、まったく意味わかんないんだけど」

「だって。わたしみっともないんだもの」

「それが意味わかんないって。さっきの女の子も、尚を見て驚いてただろ」

「でしょ。あの子わたしのことみて、すざざって、後じさったのよ。わたしがみっともないから」

半泣きのような顔をして俯いた尚は、響の胸のあたりに向かってそう呟いた。

「尚、鏡見たことあるか?」

尚は眉をひそめ、瞳に不信感を込めて響を見た。
響はこんな場面で、何をとんちんかんなことを言っているのだ。

「あるに決まってるでしょ」

「だよね。…もういいから、行こう」

「だめよ。着替えて…」

「尚、それ以上駄々をこねると、この場でキスするぞ」

周囲はひとでごった返している。右に左に人の列があるような場所で…
尚は笑った。

「そんなこと、するわけ…」
そこまで言ってから、尚ははっとして口を閉じた。
これと同じ台詞を口にしたときの記憶は、まだ生々しい。

「俺がするわけない?」

尚は唇を手で覆った。
愉快そうな響の笑い声が響いた。
尚は着替えを諦め、響に背中を押されて駅の中に入って行った。




   
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