|
その1 夢うつつ
「それでね、彼女たち、海岸で結婚式あげたんですって…素敵よねぇ。異国の海、波の音」
うっとりと瞳を潤ませて語っていた尚は、隣に座っている響の体重がぐっと肩に掛かり、おしゃべりを止めた。
「響君?」
「う、うん…だね」
響は努力して瞼を開こうとしているようだが、どうやっても眠気に抗いきれないようだった。
肩の上でふらふらと揺れる響の頭を、尚は慌てて両手で押さえたが、今度は身体の方がぐらりと傾ぎそうになって、響の胴体に両腕を巻きつけて支えた。
その途端、響の首が、まるで折れでもしたようにカクンと後ろに反り、尚はビビッた。
「ひ、響君、響君…」
「うん。君じゃなくて、響」
響の眠っているにしては、はっきりとした言葉に、尚はほっとすると同時に眉を潜めた。
本当に眠っているのだろうか?
尚は、不安定に揺れる響の身体をなんとか横に倒して寝かそうとした。
けれどもちろん、響の身体を支えるだけの力は尚にはない。
ふたりして座っていたお気に入りのデカクッションの上に、響を横たえようとして尚は力尽き、響と一緒に床に転がってしまった。
「尚、キス」
尚の首元に顔を沈め、とてもうわごとには聞こえない声で、響が言った。
尚はほっとした。
「なんだ響君、やっぱり起きてたのね」
単純な尚にはとても真似できない、いつもの響の、グレードの高い冗談に、下敷きになったまま尚はくすくす笑い出した。
しかし、いつまでもこんな状態を続けてはいられない。
「響君、こんなかっこうでふたりして転がってるの見られたら、困っちゃうから」
尚は、響の肩を揺らし、首元にある頭に声を掛けた。
だが、響はまったく動かない。
「え?」
尚は真横に向き、響の顔を真正面から確認した。
いつもの冷たいほどクールな響の顔が無防備にゆるんでいる。
「なんだ、やっぱり寝てる…」
少年と言ってもいいくらいの純な表情に、尚の胸がきゅんとなる。
響の寝顔を見つめて、尚は幸せなため息をついた。
先週、今週と響はやたら忙しいようだった。
仕事も忙しくて頻繁に残業をしているようだし、私用も色々あるようで、仕事帰りに相沢家に来ることは、ここ最近まったくと言っていいほどなかった。
この前の休日は、土日ともにデートしたけれど、睡眠が足りていないらしく、運転しながら響はあくびばかりしていた。
今夜、久しぶりに仕事帰りの響が家に寄ったのは、ちょっぴりだけど尚が電話口で泣いたからだ。
尚は熟睡している響の寝顔を見ながら、我が侭すぎた自分を反省した。
「響君、ごめんなさい」
「うん。尚」
響がまたはっきりと口にした。
「響君、起きてないよね」
尚は確認の意味で、響に尋ねた。
「うん。尚」
響はそう口にした途端、尚を抱えたまま上向きにころんと転がった。そして…
尚は、響の上で、呆気に取られて固まった。
ワンピースの背中のファスナーを、響がなんの躊躇も無くすーっと降ろしたのだ。
一番下までファスナーを降ろされたせいで、尚は半裸状態になった。
上から見たらずいぶんと凄い様だろう。
尚は慌てた。
もしかすると、水玉のパンティーまで見えているかもしれない。
響の身体から降りようとしたところで、響の手が尚の背中をすーっと撫で下ろした。
手のひらが肌を撫でてゆく感触に、尚のからだが勝手に反応して、ビビーンと震えた。
寝転がって目を閉じたままの響は、ものすごく満足そうに微笑んでいる。
それを見て、尚は響が眠っていることを確信した。
正気の響が、いつ誰が来てもおかしくない居間で、こんなことをするはずがない。
尚とふたりきりの部屋でも、ここまで積極的なことはしてこないというのに…するはずが無いのだ。
「ひ、響君、駄目っ」
慌てた尚は背中に手を当てて、ファスナーを上げようとした。
そんな尚の必死な様子もまったく感知せず、響の手は相変わらず尚の背中をゆっくりとまさぐっている。
響の身体から逃れようとしても、片腕でがっちりと腰を掴まれていては、それも叶わない。
「お前ら…何やってんだ」
ひどく呆れた声が飛んできた。成道だ。
とんだ状態を弟に見られて、尚の顔から火が出た。
「ひ、響君が寝てて…」
「寝てる?」
成道がそう言ったとき、響の手がすっと下がり、尚の水玉の中に…
「キャーッ、キャーッ、キャーッ」
ありえてならない状況に、尚は頭のてっぺんから繰り返し悲鳴を上げた。
「尚、くっくっ…。き、気持ちは分かるけど、そんなに悲鳴上げると…あ」
ドドドドッという足音が聞こえてきた。
父親に違いない。尚は現実から逃れようとして目を瞑った。
成道がさっと近付いてきて響の手を払いのけ、ファスナーをすばやく上げると、尚の身体を響の腕からもぎ取ってくれた。
「はーはーはー、ど、どうしたんだ、尚」
床に転がっている響。
成道に抱えられたままの尚。
その状況を見て、いったいいま、何があったのか理解出来るはずもなく、宗司は問いかけるように眉を上げた。
「響が寝ちまっただけ」
「それだけ…?いったい尚は、なんで悲鳴を上げたんだい?」
「さあな、尚に聞けば」
そう言うと、成道は「適当に誤魔化せよ」と尚に囁き、風呂に行く前にも居座っていた居間のソファーにどさりと座り込み、肩にかけていたタオルで、まだ湿っている髪を拭き始めた。
そこから、尚がなんと言って事態を収めるのか、眺めて楽しむつもりらしい。
助けてもらえたことは、ありがたかったが、この性格なんとかならないものだろうかと、尚はため息をついた。
「響君が…寝ちゃって、もしかして、死んじゃったんじゃないかと…思って」
その言葉に、宗司の口が大きく歪み、「は?」と言った。
ソファーに座っている成道は、口を閉じたままブッと噴き、堪らないというように笑いで肩を揺らした。
「そのままじゃ、響君、風邪引いちゃうんじゃないの」
笑いをたっぷり含んだ声が、キッチンの方から突然飛んできた。
尚はどきりと振り返り、成道は眉を上げてゆっくりと振りかえって母親の姿を確かめた。
「あれ、母さん、いつからそこにいたのさ?」
「ずっとここにいたわよ」
「え゛っ、まさか…」
尚は母親に、口パクで「見てたの?」と問いかけた。
「ふふふ…」
諒子は、ずいぶんと機嫌よくコロコロと喜んでいる。
尚は追及するのをやめた。
「仕方ねぇなあ、親父と俺とで運んでやるか」
「何処に?」
尚と宗司は、成道に向け、同時に同じ質問をした。
「決まってるだろ。尚の部屋さ」
それを聞いて、宗司の目が動揺を顕わに揺らいだ。
「ここで良くないか?成道」
「このソファは駄目。俺の憩いの場だぞ」
何があっても反論は受け付けないと言うように、成道がきっぱりと言った。
宗司は口の中で何かもごもごと呟き、諦めたように肩を落とした。
|
|