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その4 滅・妄想癖
「葛城さん、あの、今夜って、空いてない?」
社の食堂で黙々と昼飯を食っていた響は、その声に顔を上げた。
今朝の悔いがずっと心にあるせいで、クールな顔がさらに冷たくなっていたが、本人の響はいつものごとくまったく気づかない。
「空いてない」
声を掛けて来た同期の女性社員ふたりは、響の冷たく響く声にびくりとして身を引いた。
「あ、そ、そう。それじゃ、また今度ね」
取り繕うようにひとりがそう言って、ふたりは去っていった。
「葛城、お前って奴は…」
「ひでぇー」
一緒に飯を食っていた、同じ部署の楠田と盛岡が口々に言った。
「ひどいって、俺が何したっていうんですか?」
「気づかないところが、さらにひどいと思うぞ」
楠田のその言葉に響はあまり反応せず、おかずを箸でつまみ、口に放り込んだ。
楠田は響よりも四つ年上だ。温厚な性格、仕事も出来る男で、響はいつも助けてもらっている。
「お前のその顔が憎たらしいんだよ」
ほんとうに憎たらしそうに盛岡が言った。
こちらは響より一年先輩だ。
口汚い言葉を使うわりにはナイーブで、けっこうやさしい男だ。
「顔のこと言われても困りますよ。挿げ替えられるもんじゃないし」
「お前、彼女と別れたんだってな。女性社員の更衣室は、いまその話題で持ちきりだぞ」
「盛岡さん、女性社員の更衣室にもぐりこんででもいるんですか?」
「人聞きの悪いこと平然と言うな。そんなことしてねぇーよ」
ふっと笑った響は、盛岡の隣に座っている楠田の視線が、響の首筋の一点をじっと見つめているのに気づいて、どきりとした。
「楠田さん、俺の首に、何か…ついてるんですか?」
「ああ、かなり気になるものが…見え隠れ…」
「えっ。こ、こんなところにまで…」
響は思わず首を手で押さえた。目が心に正直に揺れ動いた。
成道の野郎、こんなところにまで悪戯書きを…?
普段見られない響の動揺した様子に、楠田が強い興味を見せた。
「こんなところにまでって、いったいその身体のどこに、いくつあるのか、はっきりと聞きたいもんだな、葛城」
「あー、ホントだ。あるある。こいつ、もう彼女できたのか?」と盛岡が酷く悔しげに叫んだ。
「え、どうして?」
「キスマークなんぞ、つけやがってぇ」
盛岡のその言葉に、響は眉を潜めた。
「キスマーク? そんなものがどこに?」
「だから、ここ。お前、気づいてなかったのか?」
響は楠田が触れていると同じ、自分の首のあたりに指を触れた。
成道だろうか?
だが、奴の悪戯書きは、黒いマジックでしか書いてなかったはずだが…
とすると…尚…か?
「まさか?」
そう口で否定しながらも、響の顔は自然と弛んでゆく。
「俺、ちょっと用事が…」
響は、急いで立ち上がった。
もう食事どころではなかった。確かめたい気持ちが急く。
「いま、微笑んだな…葛城」
「ありゃ、葛城じゃねえって。もしかすると、双子の弟とかじゃ」
背後のそんな会話など、キスマークだけが気になっていた響の耳には、まったく入ってこなかった。
その後、響は幾度となくトイレに行き、鏡で赤い斑点を確かめた。
間違えようもなく、キスマークだ。
響は見るたびに、その確信を強めていった。
それでも、まさかの気持ちがどうしても拭い去れず、ついつい確かめに行きたくなってしまい、その後ずっと、響はトイレに通いつめた。
できれば今夜、尚に直接あって、キスマークのことを確かめたかった。
響に問い詰められて、顔を真っ赤に染めて、必死に否定する尚。
だが最後には、すべてを認め、涙を少し浮べて謝る尚。
許してあげる代わりに、もうひとつ、いやふたつかみっつ、見えない部分に新たなキスマークを、響は尚に強いる…
そんな楽しい妄想に、どっぷりと浸っていられる状況ではなく、響は底なしのように湧き出してくる妄想を無理やりストップさせ、自分の部屋を見回してため息をついた。
これ以上ないほど乱雑に散らかった部屋。
この狭いアパートの一室に、これほどのものがあったとは信じられない。
明日はこのアパートを引き払わなければならない。
明日中に新しい部屋を片付け、日曜日には、尚を新しい部屋に呼んで驚かせる。
そのナイスなアイディアを実行するため、響は寝る暇もなく頑張って来たのだ。
日曜まで引越しを持ち越して、尚との時を来週まで待つなんて、もうとても辛抱できない。
なんとしても金曜日の今日中に片付けて、明日は引越しを終えるのだ。
響は自分にガッツを入れた。
引越しを決断したのは、動物園から帰った日の夜だった。
信用できない自分の部屋。
ここに住んでいる限り、尚を部屋に呼ぶことは叶わない。
それならば、引っ越すしか手立てはなかった。
新しいアパートは、尚の家からも近く、会社への距離もそんなに変わらない。
築三年のアパートは、このワンルームとは違い、LDKに十畳の部屋も別にある。
もちろん、十畳の部屋にはベッドは置かない。
キッチンで立ち働く尚を、ベッドに寝そべって眺めるのが、響の夢なのだから。
出来れば、真っ白なレースたっぷりのエプロンをつけてもらって、その下は…
響は、頬を嬉しさにゆがめ、妄想笑いを洩らした。
尚のいない時間を過ごしすぎて、エロっぽいヴィジョンをまざまざと思い描ける自分が哀しかったが、尚との生活が現実のものとなってゆくにつれ、哀しい妄想癖も、次第になくなってゆくだろう。
たぶん…
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