続 思いは果てしなく 

初めて恋づくし
その2 解釈は違っても



駅で待ち合わせた上に、車があるというのに電車で出かけるという提案を尚から聞いたときには、ため息が出たものだが、混み合った電車に揺られながら、響はこの体験もいいかもしれないと思い直していた。

人ごみの中で、尚を守るように包んでいるのは、ずいぶんと気分が良かった。
だが、尚を自分のアパートに連れて行き、思う様彼女を抱きしめてキスしていたいというのが、彼と彼の欲望の本音だ。

響は尚の唇をじっと見つめた。ふっくらした唇が甘く響を誘う。
できれば、そろそろ尚の弾力のありそうな豊満な胸にも、この手で思う様触れたかった。…できれば、じかに。

響は尚の頭のてっぺんにかがみこみ、唇でそっと触れた。驚いた尚がはっとした顔で上向いたせいで、ふたりの顔が触れそうなほど近付いた。
キスをするのはたやすかったし、そうしたかったが、さすがにこんな場所で額にパンチは食らいたくない。
響は尚に微笑むにとどめた。尚も微笑み返してきた。

欲望はすこぶる機嫌が悪かったが、響はじゅうぶんに幸せだった。

尚が顔を元に戻し、響も顔を上げた。
その時、数メートル先の椅子に座っている若い男が、尚を、ぽーっとしたしまりの無い顔で見ているのに気づいた。響はすっと動いて、その男から尚の全身を隠した。

尚が、どうしたの?というような目で響を見つめてきた。
響は首を小さく振って笑みを浮べた。

尚の瞳にうつるのは、響だけでいい。そして尚を見つめるのも響だけでいい。

天気も味方した動物園は、子供連れの家族でいっぱいだった。
なぜに動物園と響は思ったが、尚にはちゃんとした計算があるらしかった。

まだ三月のいまならば、そんなに寒くも無く、夏場のように動物園は匂わない。
そして植物園は四月になってからと、尚の中ではすでに決まっているらしい。
六月は映画館のような雨が降っても平気な場所、そして夏になったら水族館、そしてプールに海。

響は夏が来るのが楽しみでならなかった。
水着一枚の尚、上半身裸の響、そんなふたりが水の中ではしゃぐなんて最高のシチュエーションだ。

「響君、…なんで笑ってるの?」

「尚と一緒で幸せだなって思って」

尚が響の言葉を言葉どおりとって、ぽっと頬を染めた。
彼女のこういうところ、たまらない。尚の純真さは奇跡だと思う。

この抜群のプロポーション、色っぽい笑み、男を誘う甘い唇を持ちながら。

「ね、響君、響君を動物に例えると、黒豹って感じだね。黒豹いるかなぁ?」
手にしたパンフレットを見ながら呟き、尚がひょいと顔を上げてきた。

「ね、ね、わたしは何に似てると思う?」

「黒豹」響は即答した。

あまりに意外だったのだろう、尚が一瞬きょとんとした。

「え、わたしってあんな感じ? クールで、しなやかな体つきで、機敏そうで、賢そう?」

響は、にやけそうになる頬をぐっと引き締め、尚に頷いた。

「えっ、そーかなー」と、腑に落ちないなりに、尚が照れて笑った。

尚はとてもクールとは言えないし、体つきはしなやかといえばそうだが…尚の胸と腰をさりげなく視線を這わせながら、響は豊満だよなと思う。

だが、響が黒豹なのならば、尚も黒豹であるべきなのだ。
でないと…抱けないではないか。

まてよ、異種族での絡みってのも…

「響君、そういう凄味のある笑み…怖いんですけど…何考えてるの?」

「ふたりが黒豹になったとこ想像してた」

尚の顔がぱっと笑顔になった。

「ふたりで草原を走るなんていいよね。気持ちよさそう」

走っているところを想像しているらしく、目を閉じたまま、尚は笑みを浮べている。

草原は場所として最高だが、響の妄想の中では、けして走りまわりはしない。

「たしかに、気持ちいいだろうな」

「うん。いいよね。でも、響君、足が速そうだから、わたし置いてゆかれそう」

「尚のこと、絶対に置いて行きはしないよ。ゴールはふたり一緒でないとね」

尚の目が恋色にうるんだ。響は、その色をたっぷりと味わった。

「響君、ありがとう」

礼を言われることではないが、響は口元に笑みを浮べて尚のお礼を素直に受け取った。

人ごみの中、すれ違う人々から尚を庇うように、響は尚の腰に腕を回して、彼女を自分に引寄せた。そのまま身体を寄せ合って歩く。
尚はひどく恥ずかしそうだが、正当化した行為ゆえに黙って受け入れてくれた。

あの夜のプレゼントの一部は、響のポケットの中でいつでも待機中だ。
尚を抱かなかったことを、響は悔いていなかったが、相沢家の面々はそれぞれに反応し、その反応の違いはずいぶんと面白かった。

夜が開けた朝、響が目覚めると、すでに尚は起きていて、ベッドに腰掛けて響の寝顔を見つめていた。
出来れば、抱きしめたまま朝を迎えたかったと残念な気もしたが、それは今後の楽しみにすればいい。

横になったままの響とベッドに腰掛けたままの尚は、幾度もキスを繰り返し、最後は仕方なくといった感じでキスを止め、階下に下りて行った。

尚に続いて居間に入ってゆくと、相沢家の父がソファに座っていて、キッチンにいる相沢家の母と、声を落として何か話をしていた。

「おはよう」

挨拶した尚の顔を見て、相沢父は気まずげにさっと視線を外した。
尚はまったく気づいていなかったようだが、尚の表情には、先ほどまでの執拗に繰り返されたキスの余韻がたっぷりと残っていたのだ。

「おはようございます。昨夜はどうも…」

響のその意味を含んだ挨拶に、相沢父は視線を外して無言で頷いた。
響は欲しかった確信を得た気がした。
相沢父は、そそくさとその場から去って行ったが、その背中はひどく侘しげだった。

「早かったわね。昼まで寝てるかと思ったのに」と、相沢母がさりげなく凄いことを言った。

「そんなに寝てられないわよ。ね、朝ご飯は何?」

相沢母は、そう言ってキッチンを覗いてくる娘をじっと見つめ、それから響と視線を合わせてきた。
顎を少しだけ動かすという成道に良く見る独特の仕草をして、相沢母はふっと含みのある笑みを洩らした。
それから響の近くにさりげなく寄ってくると、相沢父の去った方向を指差しながら耳打ちしてきた。

「『事』が行われたと思い込んでるから、気づかれないようにして。同じ事で、二度気落ちさせることないし。面倒だから…」

響は頷いた。
尚が振り返ってふたりを交互に見、「何を話してるの?」と、聞いた。
その時、顔を洗ってきたらしい成道が、タオルを肩に掛けて居間に入ってきた。

成道の中で、ここにいるはずのなかった響と尚。
ふたりを見て、成道は「なんだぁ?」と呟いた。

その後成道は、無表情なまま穴が開くほど響を見つめてきた。
響は苦笑するしかなかった。


響は腕を叩かれて回想から我に返った。

「ね、響君、そろそろお弁当食べない?あっちの方に、芝生の広場があるみたい」

響は眉を寄せた。

「弁当って? 園内で、そんなものも売ってるのか?」

響の問いに、尚が自分のバッグを持ち上げて見せた。
そんなに大きくない尚のバッグは、真四角に膨らんでいたが、そういう形のバッグなのだろうと思っていた。のに…

響は、ハッとして尚の手からバッグを取り上げた。

大きさのわりに、ずいぶんと重かった。響は自分にガッカリした。

「言ってくれれば持ってあげたのに」

「そんなに重くなかったから」

そう言って明るく笑いながら、尚は無意識に手のひらをさすっている。
響は尚の手を取った。
手のひらの真ん中を赤い太い筋が横断していた。紫色に変色しているところまである。

「尚、ごめん」

「なんで謝るの?」

「自分が許せないから」

響は深いため息をついて肩を落とした。
自分の思いばかりに囚われて、必要なところで尚を気遣えなかった自分の愚かさが許せなかった。

「響君。ありがとう。あの…す、す…好き。すっごく」

潜められて語られたその言葉は、響の耳に頼りないほど微かな音でしか届かなかったが、響の胸を強烈にふるわせた。

響は両腕を広げて尚を抱きしめようとして一端停止した。

「ここで抱きしめたら、殴る?」

「響君ったら、見かけクールなくせに、冗談が好きなんだからぁ」

響は尚に笑い返した。
抱きしめた反応がどんなものか確かめたい気もしたが、腕を組んできた尚の胸が彼の腕に触れると、そんな気持ちなど即座に消し飛んだ。




   
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