続 思いは果てしなく 

初めて恋づくし
その4 目標の挫折



芝生の広場を後にして、響は尚と、彼が選んだ目的地に向かって歩き出した。

すっかり軽くなったバッグはまた尚の手にある。
そのバッグを目にするたびに、響は自分をとがめる気持ちが湧き上がったが、これからは十分に尚に気を配ることを自分に課し、少し自分が赦せた。

「わあっ、動物園の中にこんな場所があるのね」

緑の木々が続く木立の中、車一台が通れるくらいの道が続いていた。
木の葉が風にそよいで覆われた枝と葉で木陰が多く、小さな点のような光が道のいたるところでなんの捉われもなく動き回っている。

「きれい」

「うん。でも、風、冷たいな。尚、寒いだろ?」

尚は薄いカーディガンを一枚羽織っているだけだ。響は自分のブルゾンに手を掛けた。
その様子に慌てたように、尚が「大丈夫だから」と言った。

尚は言葉を肯定するように微笑みながら強く頷いたが、寒さが彼女の肩を縮こませている。
響はブルゾンをすばやく脱いで尚の肩を包んだ。

「そんなことしたら、響君が寒いわよ」

「尚が寒いの我慢してたら、俺、今よりもっと寒い」

ぴたりと尚が立ち止まった。
響も立ち止まり、尚を覗き込もうとしたら、肩に掛けられていたブルゾンを掴み、尚は頭からすっぽりと被ってしまった。

「尚、どうした、何してるの?」

ブルゾンが左右に揺れ、その後小刻みに震えだした。
響は尚の前に立って、そっとブルゾンに手を掛けた。
尚がぐっと掴んでいるのを、ちょっとだけ力を入れて少し押し広げる。

響は目を閉じた。
尚をそのまま見つめていたら、自分まで人目をはばからず泣き出してしまいそうだった。
胸が熱かった。
尚への愛が響の胸の中で膨張し、窮屈さにぐるぐるとうごめいている。

「尚、愛してる。俺…」

響は尚の肩を抱いて、自分の胸にそっと抱き寄せた。

こんな時が自分に与えられるだなんて、思いもしなかった。
深い感謝の思いが湧いた。
いったい誰に向かって感謝をささげれば良いのだろう。

そう考えた途端、成道の顔がぽんと脳裏に現れた。
響は苦笑して、心の中で成道に小さく会釈した。


尚の希望で、寝そべったまま顔も上げない黒豹も見て、ふたりは動物園を後にした。

あのあと一度だけあきらの後姿を見かけ、響は奴との接触を避けて、さりげなく反対方向に尚を導いた。
あきらは相変わらず母親に襟首をつかまれ、不服そうに歩いていた。

肩に掛けられた子供用の青い水筒が、尻のあたりで歩くたびにポンポンと跳ね、響はそんな奴の姿に哀れさを感じ、尚の胸に顔を埋めた大罪を、懐大きくして赦してやることにした。





駅に着いて車に乗り込んだときには、すでに夕暮れていた。

先週の休日は土日ともに遊びに行った帰り、外食をして尚を送って行った。
平日の五日間は、尚の会社まで迎えに行って家まで送り、嬉しそうに強く勧めてくれる相沢母の好意に甘えて、夕食をご馳走になっていた。

響は、胸にある言葉を、なかなか言い出せずにいた。
俺の部屋に来ないか?こんな簡単な台詞が、どうしても言葉に出来ない。

「あの、今夜もうちで夕食食べない?」
なかなか車を発進しない響に尚が聞いてきた。響は首を振った。

「今日はいいよ。毎日世話になりっぱなしだったし」
それより、俺の部屋に来ないか。と、響は胸のうちで再度復唱した。

「それじゃ外食がいい? でもお金かかるし…。そうだ、ドライブスルーでハンバーガー買ってって、響君のとこで食べたいな」

尚は言葉に明るいリズムをつけて、ほんの少し甘えるように言った。

「え、俺の部屋?」

棚から牡丹餅が大量に落ちてきた現象にギョッとし、目を白黒させた響は叫ぶように答えた。

「あ、駄目…かな」尚が恥ずかしげに小さくなった。響は慌ててとりなした。

「いや、大歓迎だよ。今朝、それなりに片付けてきたし」

それなりどころか、尚がいつ来てもいいように、塵ひとつ無いクリーンな部屋になっている。

「それじゃ、行こうか。まずはドライブスルーだな。よし」

響は意気揚々と車を出した。

笑いながらハンバーガーをぱくつき、ポテトをお互いの口に入れたり、入れる真似をしてはしゃいでいるうちに、食事は終わってしまった。

「なんだか恥ずかしいな」

「何が?」

「響君の部屋、わたしの部屋より綺麗に片付いてるんだもの」

「あんまり物が無いからな」

実は、これまで持っていた、尚の目には絶対に触れさせたくない書籍をすべて捨てた。

それらが入っていた本棚の20cmほどの空きスペースを見つめて、響は急に後ろめたさに囚われた。できるだけ早く、あのスペースを埋めた方がよさそうだ。

物が無いなりに、尚は響の部屋をまるで大切なものを見るような目で眺めている。
そんな尚の全身を、響は改めて見つめた。

「尚、言いそびれてたけど…」

「うん?」

「その服、夕べ話したあの服にすごく似てるんだ」

響はそう言うと、自分の後頭部に手を当てた。

「髪をここらへんで結んだら、あの時の君、そのままだ」

「そ、そうかな」

響は尚の髪にそっと両方の指を掛け、ぎこちない手つきで、彼女の髪を上に掻き揚げた。
形の良い首筋を響の指がかすめるたびに、尚がくすぐったそうに肩を揺らす。

それなりに髪をまとめ上げると、髪を片手で持ち上げたまま少し身体を引き、響はその効果のほどを眺めた。

「うん」

響は満足そうにそれだけ言うと、尚の唇に自分の唇を重ねた。

キスでぼうっとした尚がなるべく気づかないよう、響は尚をさりげなく床に押し倒した。
今日の目標は…

響は唇を合わせたまま尚のブラウスのボタンに手を掛けた。
ひとつ、ふたつ、みっつめに手を掛けたとき、尚が焦ったように身動きした。

「あ、あの、わたし、ち、ちょっと。行きたいところが…」

響は尚の切羽詰った様子に、仕方なく少しだけ身体を浮かした。
それがいいわけなことくらい判る。

「あの、お手洗いに」

二つ外されたブラウスの胸元を、尚は組んだ両手で何気なさを装って押さえている。
彼女がボタンをはめるのをためらっているのが読み取れて、響は口元が緩みそうになって困った。

響は手を差し出して尚を起きあがらせた。

トイレの場所くらい判っているだろうと思ったが、響は一緒に立ち上がって、彼女を連れて行った。

「ここ」

「うん」
恥ずかしそうに短く返事をした尚が、トイレのドアに手を掛けた瞬間、響は「あっ」と叫んだ。

「ど、どうしたの?」

「いや、悪い、俺、先」

響はそう言うと、尚に顔も向けずにトイレに入った。
中に入ってドアの壁に視線を当て、脱力感に見舞われた。

壁に貼られたイラストのポスター。
裸に白いワイシャツを羽織ったポーズのこの絵が、彼のお気に入りになったのは、女の子の色っぽい顔が、尚を彷彿とさせたのだ。だがこうして改めて見てみると、どこが似ていると思ったのか判らないくらいだった。
響は、過去の自分に憐れを感じた。
ポスターをむしり取り、小さくまとめてから、不自然さを隠蔽するために水を流した。

響はポスターの塊を背中に隠してトイレから出た。
気まずげに歪みそうになる顔を、努めてクールに保ち、響は尚と顔を合わせた。

響は真っ青になっている尚に驚いた。響が何か言う前に、尚が口を開いた。

「響君、大丈夫? お腹壊したんでしょ? きっとわたしのお弁当のせいだわ。どうしよう。病院行かなくていい?食中毒とかで命が危なくなったら、わたし、どうしたらいいの?」

半泣きになって見当違いの心配をしている尚の肩に、響は手を掛けた。

「尚、落ち着いて。そもそも、腹壊したりしてないから。ちょっと用を足しただけ」

「ほんとに。ほんとに大丈夫なの?」

自分の弁当がよほど信用できないらしい。
響は笑って大丈夫だと請け負った。

彼女がトイレに入ると、響はすぐにポスターを処分をしたが、自分の部屋が酷く信用できなくなっていた。
まだどこかに、あまりに慣れすぎたために、目にしていても認識出来ないとんでもないものがあるかもしれない。

響は泣く泣く目標への到達を諦め、トイレから出てきた尚を彼女の家に送って行くしかなかった。




   
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