|
その5 報復と陰謀
「あのう、まだ早いし、響君、うちに寄って行くよね。母も喜ぶし」
「お邪魔してばっかりだからな」
「そんなことない。あの…」
家の玄関に横付けされた車の助手席で、尚はなんとか響を家に入れようと頑張った。
響の様子は絶対におかしかった。
もしかすると、尚の作ったお弁当のせいで、具合が悪いのかもしれないのだ。
そんな響を帰らせて、もし万が一、彼が…
「ね、わたし、まだ一緒にいたい。このまま響君が帰っちゃったら淋しいし。なんなら泊まって行っても…」
「尚の部屋に?」響が驚いたように言った。
あまりに大胆な発言だっただろうか?
「え、あ、うん。そ、そうかな」
尚は恥ずかしさに頬を染めながら言った。
とにかく、響が本当に大丈夫かはっきりするまでは、彼とともにいなければならない。
「なんだよ。また来たのか、響」
居間のソファに転がっていた成道が、居間に入ってきた響にそんな憎まれ口を聞いてきた。
成道とは長い付き合いの響は笑みだけ返すと、尚が差し出したクッションに腰を下ろした。
彼の座ったクッションに、尚は同じ形のものをぴったりとくっつけて隣に座り込んだ。
ふわふわのクッションは少し不安定で、腰掛けた途端、尚の上半身が少し傾いだ。
響は尚の身体に腕を回して支えてくれた。
「ありがと。響君」
「そろそろ、その呼び方、やめてくれないかな。響でいいよ」
「えっ。でも、なんか恥ずかしいなぁ」
頬が熱かった。尚は両手で頬を覆った。
そんな尚の頬に響がそっと指を触れてきた。尚は響と微笑みながら見詰め合った。
「おい。こんなとこでいちゃつくなっ」
怒鳴りつけてきた成道に、尚は唇を尖らせた。
「成道、怒鳴るくらいなら、自分の部屋に行けばいいじゃない」
「お前らが行けばいいだろ。だいたいなんでこんなに早く帰ってくんだよ。明日も休みなんだし、響のとこで泊まってこようとか思わなかったのかよ」
「まあまあ、成道ってば、やきもち焼いちゃってかわいそうに」
そう言ったのは、紅茶を載せたトレーを運んできてくれた母だった。
母の言葉は異常な魔力がこもっているように感じる。
いつだって、そこらの役者よりもひとを翻弄させる力を持っているのだ。
おかげで、母のいまの言葉に、尚は成道に哀れみの気持ちを抱かせられた。
「…かわいそう…って、俺がか…」
成道は、母と、響に尚、三者の瞳に、深い憐憫の情が宿っているのを見て、顔を引きつらせた。
「冗談じゃない。俺は好きで彼女作らないんだ。言い寄ってくる女なんていくらでもいるんだよ」
「でも、実際いないんじゃねぇ。何言っても、説得力に欠けるわよ…ねぇ」
うんうんと、三人は頷きあった。
成道は相手をするのに疲れたらしく、話をすり替えた。
「そういや、親父はどこ行ったんだよ。さっきまでいたのに」
「逃げたわ。そそくさと」
母が、淡々と言った。
「パパったら、いつまでもうじうじしてるんだもの。やんなっちゃう」
うじうじ?
「お父さん、どうかしたの?」
「ね、次の週末くらいに旅行とか行ってらっしゃいよ」
尚は眉を寄せた。
旅行? 父の話はどうなったのだ?
「旅行って…あの、お父さんは…」
「いいですね。旅行」弾んだ声で響が言った。尚は慌てた。
「え…だ、だめよっ」
「どうして?」
首を傾げて響に聞き返され、尚は返事に詰まった。
「どうしてって、どうしてって…」
嬉しそうな響から、楽しげな母へと視線を移し、尚の瞳は最後に成道を捕らえた。
「成道」
「知るか」
成道に拒否され、尚は拗ねて口をへの字に曲げた。
「どこがいいかしらね、響君」
「そうですね。一泊なら、そんなに遠くには行けないけど」
なぜか当人のはずなのに、会話から外されていることに尚はむっとした。
「何でお母さんが盛り上がってるのよ。行くのはわたしの筈なのに」
思わず文句を言ったら、響が驚いた顔で尚を見た。
「行くんだ?」
尚はぐっと詰まった。
「そうだわ、響君、お花見に行きましょうよ。そろそろ桜が咲くかもしれないわよ」
「桜はまだ早いんじゃないかしらね」
「そ、そう?」
「でも、桜の名所に一泊というのは悪くないですね」
また一泊かい…
尚は肩を落とした。
「そうね。桜と温泉とかいいじゃない。そうそう、いまは各部屋に露天風呂がついてるところ、多いらしいわよ」
「いいですね、それ」
もう勝手にしてくれと尚が思ったとき、ふてくされてソファに転がっていた成道がゆっくりと起き上がった。
尚は成道の目を見てぎょっとした。なぜか目がランランと輝いている。
「俺も一緒に行くかな、温泉」
母と響が成道に振り返った。
「再来週には新入社員が入ってくるし、そうなると忙しくなると思うんだ。その前に露天風呂でゆったり気分を味わうってのも、おつかもしれん」
成道は立ち上がって腰に手をあて、偉そうに全員を見回した。
「よし、全員で行こう。俺、全部手配しといてやるよ」
そう言って成道はまたソファに転がり、ぞっとするような含みを込めた潜めた声で笑った。
尚は固まった。こいつはいったい何を企んでいるのだ。
「楽しみね、響君」
母が、嬉しさをひたすら隠すようにさりげなく言った。
「う、ああ。そうですね」
響がありがたくなさそうに、そっとため息をついたのを見て、尚は響の手を取って握り締めた。
「こんな家族でごめんなさい」
尚は潤んだ瞳で響を見上げ、彼にだけ聞こえる声で囁いた。
End
|
|