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その1 お出かけの前に
「なんだよそのでかい荷物は、尚、たった一泊なんだぞ」
成道の呆れた声に、尚は唇を尖らせた。
「どうせ車なんだからいいじゃない」
パンパンに膨れ上がったボストンバッグを、自分の部屋からここまで持って来るのに、尚は大変な苦労をしたのだ。文句など言わずにさっさと受け取って欲しかった。
「成道、女の子というのは、いろいろ荷物があるものなんだよ。ね、諒子さん」
相沢父宗司は、たしかに大きい尚の荷物を苦笑しつつ見つめながら、妻に同意を求めるように言った。だが、諒子は黙り込んだまま返事をしない。
返事がないことに、宗司が、あれっという感じで諒子に振り返った。
「諒子さん?」
「まあ、そうね。でも、いくらなんでも多すぎるんじゃないかと思うけど」
尚の荷物をちらりと見て、諒子が言った。
成道ならばいざ知らず、母親に指摘されて、尚は自分の荷物を見下ろし、少し反省した。
たしかに、あれこれ詰めすぎたかもしれない。
だが、もう出発の時刻は過ぎているし、響が待っているのだ。
「まあ、いいよ。尚、積むからこっちよこせよ」
そんないつもと同じごたごたなやりとりの末、相沢家の面々は出発した。
天気はまずまず、白い雲がぽっかりほっかり浮かび、日の光を浴びて銀色に光っている。
父親の車だが、成道が運転している。
響を途中で拾い、これ一台にみなが乗り込んで行くことになっている。
母親の隣に座った尚は、助手席で鼻歌を歌っている父親の様子に笑みを浮べた。
この最近、目に顕わなほど元気がなかった父だが、今朝はずいぶんと明るく元気で、尚はほっとしていた。
「お父さん、なんだかわかんないけど、悩みが解決したみたいね」
尚は、内緒話のように母親の耳に口を寄せて囁いた。
だが、母親は尚に返事もせず、憮然とした様子で、腕を組んでいる。
運転席の成道が、くっくっと堪えた笑いを洩らした。
「成道」
諒子は、目の前の運転席にいる成道に語気を強めて呼びかけ、成道の頭をいささか強く小突いた。
「いてっ。運転してんのに、危ないだろ」
次の信号で止まると、成道はまず後部座席の母親に振り返って睨んだ。
それから俺はいつだって清廉潔白といわんばかりの、すがすがしくも爽やかな笑みを父親と尚に向けた。
「覚えてらっしゃい」苦々しげに諒子がひとりごちた。
「お母さん、どうしたの?」
尚は眉を寄せて母親に問いかけ、変わらずむっとしたまま返事をしてくれない母親に首を傾げ、今度は父親に同じ言葉で尋ねた。
宗司が「さぁ」と首を捻り、尚も同じように首を捻った。
信号が青になり、車が走り出してすぐ、不機嫌に黙り込んでいた諒子が口を開いた。
「彼女のいない男は、ひとの幸せに水を差すのが生きがいになるのよね。あーあ、哀れ」
母親の言葉に、成道が何かがつぶれたような妙な声を洩らした。
そのあと、ギリリと歯軋りするような音まで微かに聞こえてきた。
「諒子さん、それはどういうことだね。成道が何かしたのかい?」
「成道の悪行はいつものことよ。それより、旅行が楽しみだこと」
それまでの仏頂面が嘘のように、晴れ晴れと楽しげに諒子が言った。
「わたしも楽しみだよ。成道はイベントの盛り上げが得意だからね。この旅行も楽しいものにしてくれるよ」
「ほんとに、さぞかし楽しいことでしょうよ」と、ふっと諒子が笑った。
その馴染みのありすぎる凄みの効いた笑いに、宗司の顔がいくぶん引きつった。
家族の会話よりも、遅れている時間が気になっていた尚は、成道の肩に手を掛けて少し揺さぶった。
「ねぇ、成道、もっと急いでよ。響君を待たしたら可哀相」
「出発を遅くした野郎に言えっ」
運転席から怒鳴りつけられ、尚だけでなく助手席の父親まで縮こまった。
ひとり諒子だけは、平穏そうに窓の外を眺めていた。
響のアパートの前に到着し、路上に立っている響を見つけて、尚は窓から手を振った。
「あら、響君、なにも荷物持ってないみたい…」
そう口にして尚は不安になった。
もしかして急な用事で行けなくなったのでは。
響のすぐ側で車が止まり、尚と宗司は同じタイミングで窓を開けた。
「あの、やっぱり俺、自分の車で行きます。尚、おいで」
「えっ、そうか? まあ、そのほうがゆったり行けるかね?」
宗司が問うというわけでもなく、疑問系で言った。響が無言で頷いた。
「尚?」
響にもう一度呼ばれて、尚は車を降りた。
少し残念だった。
後部座席で一緒に並んで行けた方が、嬉しかったのに…
「尚のうざいほどでかい荷物も、お前の車に乗せてってくれ」
尚は、成道の悪態にしか聞こえない言葉に、いつものようにぷーっと膨れた。
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