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62 相手が悪い
「私が言葉の選択を間違えてしまってな」
恭嗣の言葉に、歩佳は眉を寄せた。
言葉の選択を間違えた?
「何を言った……あっ」
な、なんか、理解できたかも。
「歩佳さん?」
歩佳の反応を見て柊二が呼びかけてきた。
歩佳は柊二を見上げ、それから美晴と恭嗣に視線を巡らせ、「まさか……?」と恭嗣に向けて口にした。
巡査殿、美晴のことをちびっこちびっこって呼んでたけど……まさかそれを、本人に言ったんじゃないわよね?
「口にしてはいけないことを、口にしたのではありませんよね? 巡査殿」
「うむ。……たぶん、君の言うまさかなのだろうな」
恭嗣がいつもの調子で返してきたら、怒りがまた突き上げたらしい美晴は、なんと恭嗣の腹部めがけてボディブローを食らわした。
ぼふっという音はしたが、瞬時に反応したらしく、恭嗣はまったく動じなかった。
さすが巡査殿だが、思った威力を与えられなかった美晴は、ムキーッと苛立ちを露わにする。
「ねぇ、歩佳さん。まさかってなんなの?」
柊二が聞いてきた瞬間、美晴は、今度は柊二に向かって拳を突き出す。
「言わせねぇよっ!」
柊二は自分に向かってきた拳をさっと避けた。
拳が空を切り、美晴は前のめりに転びそうになる。
あっ! と思ったら、恭嗣が美晴を抱き止めた。
「大丈夫か?」
「なっ!」
恭嗣に助けられ、美晴は慌てて恭嗣から距離を取る。
「あなたの助けなんていらないわよっ!」
美晴は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「それはすまなかった」
キャンキャン吠える美晴。対する恭嗣はどこまでも大人の対応だ。
そんな態度が美晴の怒りに油を注いでいるのだが、恭嗣は気づかないようだ。
まったくもおっ、聡いようでいて、女心に関しては朴念仁なんだから。
「あのさ、こんなところで騒いでいたらご近所迷惑だと思うし、とにかく家の中に入ったほうがよくないかな?」
柊二が冷静に促してきて、歩佳はそれもそうだと美晴に歩み寄った。
「美晴、家に入ろう」
美晴は返事も頷くこともせず、恭嗣を睨みアパートの中に入っていく。
続いて歩佳も入ると、柊二と恭嗣のふたりも入ってくる。
なんとも微妙な雰囲気で四人はテーブルを挟み、顔を合せた。
「それで、いったい何があったんですか?」
柊二が改めて、恭嗣に問う。
「わざわざ言う必要……」
「私が失言を……」
美晴と恭嗣が同時に答える。そして、ふたりは視線を合わせたが、美晴の方はぷいっとそっぽを向いた。
「失言?」
柊二はわからないのだろうが、歩佳はだいたい予想がつく。
やっぱり、『ちびっこ』だよね。
「そこまで怒るとは……ちっこいことを、君はそうとうに気にしていたのだな。いや、悪かった」
ゆ、恭嗣さんってば!
「ちっこいって言うなっ! だいたい、身長のことなんてぜんぜん気にしてないしっ!」
美晴が唾を飛ばす勢いで反論する。
いやいや、気にしてないなら、ちっこいって言うなと怒鳴ったり、殴ったりもしないでしょ。と胸の内で思ったことは、美晴には内緒だ。
「そうだ、美晴君。お詫びに何か美味しい物でもご馳走しよう」
「あなたのお詫びなんていりません!」
速攻で断った美晴に、柊二が何か思いついたように「美晴」と呼びかけた。
「なによ!」
弟にまで怒りが飛び火したが、柊二は気にもせず言葉を続ける。
「摩天楼のレストラン、あそこで数万円する豪華ディナーを死ぬまでに一度は食べてみたいって言ってたよな?」
柊二の問いかけに、美晴は眉をひそめたが、急に晴れやかな顔になった。
「いいわね」
ご満悦で頷き、ちょっと意地悪そうに恭嗣に向く。
「恭嗣さん、摩天楼のディナーを奢ってくれるなら、許してあげなくもないですよ」
これは仕返しの挑発だろう。
もちろん、本気で奢ってもらうつもりはなく、ボディブローすら効き目のなかった巡査殿を困らせてへこませてやろうという魂胆のようだ。
けど、こんな仕返し、造作もなく打ち砕かれるのに……
そして案の定、巡査殿は「ああ、そんなことでいいのか?」と逆に美晴に聞き返した。
驚いたのは美晴だ。
「え?」
「良かったな、美晴」
柊二が笑いを堪えながら、面食らっている美晴に言う。
歩佳としても、この流れが愉快になり、乗っかることにした。
「良かったわね、美晴」
「へっ?」
「では、さっそく今夜……」
そう口にした巡査殿は、携帯を取り出し検索を始めたようだった。
そんな恭嗣を見て、美晴は目を白黒させている。
なんか、すっごく面白いことになってきたなぁ。
美晴と恭嗣さん、凸凹カップルでお似合いなんじゃないかって思ってたんだけど……本当にそんな流れになったりして♪
「よし、予約は取れた。あまり遅い時間にならないほうがよいだろうから、七時にしておいた。では、美晴君、六時に迎えにくる」
きびきびと言い終えた恭嗣は、歩佳と柊二に向いてきた。
「ところでふたりは、本当にデートだったのか?」
で、デート?
「ちょっと待って」
デートと言われて、動揺してしまっていたら、目を白黒させていた美晴が我に返ったようで大声で口を挟んできた。
「あんなお高いところ、恭嗣さんキャンセルしてくださいっ」
美晴は必死になって恭嗣に取りすがるように言う。
「いやいや。美晴君、君を傷つけたお詫びとしては、こんなものでは足りないかもしれないが」
ずいぶん反省した様子の恭嗣に、歩佳は違和感を覚えてきた。
これって……もしかして恭嗣さん、この流れを面白がっているんじゃないの?
必死になっている美晴を楽しんでる気がしてきたんですけど……
「足りなくないです。いえ、そういうことじゃ……」
「ならば遠慮することはない」
美晴にきっぱり答え、恭嗣は歩佳に向いてきた。
意味もなくじたばたしている美晴を気にしつつ、歩佳は恭嗣と目を合わせた。
「歩佳君、君は彼と付き合うことにしたのか?」
つ、付き合う?
「い、いえ……」
慌てて否定しようとしたら、それを邪魔するように柊二が「そのようなものです」と答えた。
そのようなもの?
「これからは、休日、ふたりで出掛けることになりましたから」
た、確かにそういうことになったんだけど……
「えーっ! マジで?」
美晴が驚いて叫ぶ。
恭嗣は、なぜか納得というように「そうか」と言う。
な、なんか、わたしと柊二さん、付き合うことになったみたいに取られそうなんですけど……
いいの? でも、付き合おうって言われてないから、そういうことじゃないと思うんだけど……そうだよね?
頭をぐるぐるさせ、さらに目を泳がせていたら、そんな歩佳を見て恭嗣は首を傾げる。
「え、え、えっと……」
「歩佳君」
「は、はいっ」
「もうすぐ君の誕生日だが、実家で誕生祝いをしてもらうんだろう? 実家にはいつ帰るんだ?」
実家? え、えーっと……
「ら、来週の週末に帰るつもりで……もし、恭嗣さんの都合がつけば、車で連れて帰ってもらえたらありがたいですけど、無理であれば電車で帰ります」
「来週なら、金曜日、君が仕事を終えた後が私は都合がいい。なんなら、君らも一緒に行くか?」
恭嗣が、突然柊二と美晴を誘うので、歩佳は驚いた。
「宮平君も誘えばいいんじゃないか。柊二君と宮平君は我が家に泊まってもらえるぞ」
その恭嗣の提案から、なんとあれよあれよという間に、みんなで歩佳の実家に行く流れになった。
歩佳はおろおろしてばかりだったが、恭嗣が仕切るものだから、さくさくと話がついていく。
歩佳の実家にも電話して了承をもらい、思いがけず歩佳の誕生祝いは実家でやることになったのだった。
そのあと、恭嗣は六時に美晴を迎えに来ると再度念を押すように言い、柊二とともに帰って行った。
摩天楼のレストランについては、美晴は最後の最後まで必死になって断ったのだが、断れずじまいだ。
「どっ、どうしよう‼」
玄関先で絶望したように叫んだ美晴は、へなへなとその場にくずおれた。
恭嗣を相手にして、勝とうと思う方が間違いだ、と思う歩佳だった。
つづく
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