募る思いは果てしなく



プロローグ 果てしない恋の始り その4


 尚が高校三年生になって、そろそろ初夏になろうかというある日、成道が居間に駆け込んできた。

 尚はソファに座って本を読んでいた。

 両親は法事に出かけていたので、成道とふたりだけである。


「尚、俺ちょっと文房具買いに行ってくる」

「わかったわ。あの……響君は、今日も来るの?」

「来る。三時くらいって言ってた。俺、それまでに戻るからさ。もし響が先に来たら、頼むな」

「う、うん」

 成道はすぐに出かけていった。

 ひとりになった尚は、そわそわしてしまう。

 もし響が早く来たら、ふたりきりだ。

 こんなことは初めてで、テンパってしまいそうになる。

 ああ、でも成道は、響君が来るまでには戻ってくるって言ってたものね。

 焦ることないわよね。

 ほんと、もう高校三年生になったのに……少しは落ち着け私!

 そう自分に言い聞かせた尚はソファに座り、また本を開いた。

 来年は大学受験だ。

 将来はインテリアコーディネーターになりたいと思っている。

 すでに専門の大学をいくつか探してあり、家から通える大学に進むつもりでいた。

 遠くの大学に入ってしまったら、響と会えなくなってしまう。

 奈都子は東京の大学に行くつもりらしい。

 恋をしていた教諭は結婚してしまい、彼女はいまだに失恋の痛手を抱えている。

 それもあって、早く卒業して家を出たいと思ったようだ。

 昨日も冗談交じりに、『尚も東京の大学にしなよ。あんたとアパートをシェアできたら家賃が安くなって助かるし』なんて言っていた。

 私も、もし響君に彼女ができたとしたら死にそうになっちゃうかも。

 冗談抜きで、息も満足にできなくなりそうだ。

 そんな日が、決して来ませんように。

 両手を合わせて必死に祈っていたら、家の呼び鈴が鳴った。

「えっ? だ、誰?」

 時間を確認したら、まだ二時前だ。

 尚は慌ててドアホンに駆け寄り、ボタンを押した。

 そこに映ったのは……

 嘘! ひっ、響君だ!

「は、はい」

「あの……俺」

「は、はい。響君、すぐにドアを開けます」

 テンパって、慌てて玄関に駆けていく。

 わ、私、この服で大丈夫? 変じゃない?

 暴走する心臓を持て余しながら、尚は鍵を開けて響を招き入れた。

「ど、どうぞ。な、成道はいま、文房具を買いに行ってるけど、すぐ戻るから上がって待っててって……」

「あ……いや、なら……俺、もう一度、出直す……」

 響が出て行ってしまいそうになり、尚は思わず彼の腕を掴んだ。

 響が驚いて振り返る。

「あ、ごめんなさい」

 尚は慌てて手を放した。

 すでに顔は真っ赤だ。

 汗まで吹き出てきてしまい、尚は響から顔を逸らした。

「で、でも……待ってもらっといてって、言われたし……」

「そう……ですか? それじゃ……あの……」

 響がこちらに向き、上がるそぶりをする。

 尚はほっとし、スリッパを出した。

「あ……ありがとう」

「ど、どういたしまして。あの、居間でいいわよね?」

 成道の部屋に入ってしまったらもう顔を合わせられないと、咄嗟にそんなふうに言ってしまう。

「尚さんが……いいなら」

「もちろん、いいわ。……飲み物、出すわね」

 よし。ちゃんと会話できてる。

 それに年上らしく対応できてる。

 少しほっとし、尚は居間へと響を促すと、キッチンに入った。

 彼は、炭酸飲料はあまり好きじゃない。なので、オレンジジュースにしておいた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 お礼を言い、響がグラスを手に取って飲む。

 尚も自分のグラスを手に取って飲んだ。

 オレンジジュースの味がよくわからない。
 どうやらかなり緊張してしまっているようだ。

 年上らしく振舞わないと。

 何か話題は……そ、そうだ。

「あの、響君は高校どこに決めたの?」

「まだ、少し悩んでて……。あの、尚さんは?」

「私は、地元の大学に……」

 インテリアコーディネーターを目指していることを言おうかと思ったが、もしなれなかったら恥ずかしいと考えてしまい、口にはできなかった。

「そうなんだ」

 響がほっとしたように見え、どきっとする。

 も、もしかして、地元の大学って言ったから?

 いやいや、違う違う。

 そんなわけない。

 もう私ってば、自分のいいように思い込むとか……恥ずかしすぎる。

 そう思いつつも尚の頭の中では、特別な眼差しを向けてくる響を思い浮かべてしまう。

 尚はグラスに視線を当てている響をそっと見つめた。

 もうすぐ高校生になるんだ。

 私は大学生……けど、ここ最近の響君は青年の雰囲気になってきていて、とても大人っぽく見える。

 声変りもして、その声が本当に魅力的なのだ。

 たまに見せる笑みにも心臓が壊れそうなほどバクバクしてしまう。

 彼の目も、鼻筋も唇も……そしてその手も……触れてみたい。

 響君の何もかもが、とんでもなく魅力的に見える……
 って私、おかしいのかな?

 その時、響が尚の方を向いた。

 ばちっと目が合ってしまい、尚は驚いて顔を伏せる。

 ううっ、気まずい。

 ずっと見つめていたのが、バレてないかな……

「あの……」

「な、何?」

「俺、その……やっぱり、出直します」

 そう言って、響が立ち上がる。

 えっ?

 よく見れば、響は彼らしくなく、もじもじとして落ち着かないでいる。

 嘘! まさか、響君に嫌われた?

「あ……」

 言葉が出ない。

 もう泣きそうだ。

「尚さん?」

 響が呼びかけてきたが、涙を堪えていた尚は返事ができなかった。

「尚さん? あの、どう……」

「な、なんでもないから。あの、私は部屋に行くから、響君はここにいて」

 尚は立ち上がって言い、ドアに駆けていこうとした。

 だがその手を響が掴んでくる。

 驚いて振り返ると、響はパッと手を放した。

「ご、ごめん。あの……」

 尚は謝ってくる響と目を合わせた。

 すると、どうしてか結びついた視線が逸らせなくなる。

 いつの間にか、ふたりの距離は狭まり、そして……

 軽く抱き合い唇を重ねていた。

 どうしてそんなことになったのか、まるで分からない。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

  いま、尚は響とキスをしている。
 
 お互いに相手を求め、ぎこちないキスは深まっていった。

 心が舞い上がり、尚は至福の中にいた。
 
 私の思いが通じたんだ。

 私、響君と両思いになれたんだ!

 その時だった。

 ドン! と、押された。

 尚が我に返った時、すでに響の姿はそこになく。
 
 遠くでバタバタと駆けて行く足音がし、玄関ドアが乱暴に閉まる音がした。

 呆然として立た尽くしていた尚の胸に、じわじわと恐怖が這い上ってくる。

 私……何をしてしまったの?

 年下の男の子にキスをして、突き飛ばされた……?

 膝がガクガクしてきて、その場に頽れる。
 
 嘘! 嘘‼ 嘘っ‼

 こんなの現実じゃない!

 こんなの夢よっ!

 そうでしょう? そうよね?

 後悔の涙が湧き上がり、尚は床に座り込んだまま泣きじゃくった。


 ――この日から、響は家に来なくなった。





   
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