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尚が高校三年生になって、そろそろ初夏になろうかというある日、成道が居間に駆け込んできた。
尚はソファに座って本を読んでいた。
両親は法事に出かけていたので、成道とふたりだけである。
「尚、俺ちょっと文房具買いに行ってくる」
「わかったわ。あの……響君は、今日も来るの?」
「来る。三時くらいって言ってた。俺、それまでに戻るからさ。もし響が先に来たら、頼むな」
「う、うん」
成道はすぐに出かけていった。
ひとりになった尚は、そわそわしてしまう。
もし響が早く来たら、ふたりきりだ。
こんなことは初めてで、テンパってしまいそうになる。
ああ、でも成道は、響君が来るまでには戻ってくるって言ってたものね。
焦ることないわよね。
ほんと、もう高校三年生になったのに……少しは落ち着け私!
そう自分に言い聞かせた尚はソファに座り、また本を開いた。
来年は大学受験だ。
将来はインテリアコーディネーターになりたいと思っている。
すでに専門の大学をいくつか探してあり、家から通える大学に進むつもりでいた。
遠くの大学に入ってしまったら、響と会えなくなってしまう。
奈都子は東京の大学に行くつもりらしい。
恋をしていた教諭は結婚してしまい、彼女はいまだに失恋の痛手を抱えている。
それもあって、早く卒業して家を出たいと思ったようだ。
昨日も冗談交じりに、『尚も東京の大学にしなよ。あんたとアパートをシェアできたら家賃が安くなって助かるし』なんて言っていた。
私も、もし響君に彼女ができたとしたら死にそうになっちゃうかも。
冗談抜きで、息も満足にできなくなりそうだ。
そんな日が、決して来ませんように。
両手を合わせて必死に祈っていたら、家の呼び鈴が鳴った。
「えっ? だ、誰?」
時間を確認したら、まだ二時前だ。
尚は慌ててドアホンに駆け寄り、ボタンを押した。
そこに映ったのは……
嘘! ひっ、響君だ!
「は、はい」
「あの……俺」
「は、はい。響君、すぐにドアを開けます」
テンパって、慌てて玄関に駆けていく。
わ、私、この服で大丈夫? 変じゃない?
暴走する心臓を持て余しながら、尚は鍵を開けて響を招き入れた。
「ど、どうぞ。な、成道はいま、文房具を買いに行ってるけど、すぐ戻るから上がって待っててって……」
「あ……いや、なら……俺、もう一度、出直す……」
響が出て行ってしまいそうになり、尚は思わず彼の腕を掴んだ。
響が驚いて振り返る。
「あ、ごめんなさい」
尚は慌てて手を放した。
すでに顔は真っ赤だ。
汗まで吹き出てきてしまい、尚は響から顔を逸らした。
「で、でも……待ってもらっといてって、言われたし……」
「そう……ですか? それじゃ……あの……」
響がこちらに向き、上がるそぶりをする。
尚はほっとし、スリッパを出した。
「あ……ありがとう」
「ど、どういたしまして。あの、居間でいいわよね?」
成道の部屋に入ってしまったらもう顔を合わせられないと、咄嗟にそんなふうに言ってしまう。
「尚さんが……いいなら」
「もちろん、いいわ。……飲み物、出すわね」
よし。ちゃんと会話できてる。
それに年上らしく対応できてる。
少しほっとし、尚は居間へと響を促すと、キッチンに入った。
彼は、炭酸飲料はあまり好きじゃない。なので、オレンジジュースにしておいた。
「どうぞ」
「ありがとう」
お礼を言い、響がグラスを手に取って飲む。
尚も自分のグラスを手に取って飲んだ。
オレンジジュースの味がよくわからない。
どうやらかなり緊張してしまっているようだ。
年上らしく振舞わないと。
何か話題は……そ、そうだ。
「あの、響君は高校どこに決めたの?」
「まだ、少し悩んでて……。あの、尚さんは?」
「私は、地元の大学に……」
インテリアコーディネーターを目指していることを言おうかと思ったが、もしなれなかったら恥ずかしいと考えてしまい、口にはできなかった。
「そうなんだ」
響がほっとしたように見え、どきっとする。
も、もしかして、地元の大学って言ったから?
いやいや、違う違う。
そんなわけない。
もう私ってば、自分のいいように思い込むとか……恥ずかしすぎる。
そう思いつつも尚の頭の中では、特別な眼差しを向けてくる響を思い浮かべてしまう。
尚はグラスに視線を当てている響をそっと見つめた。
もうすぐ高校生になるんだ。
私は大学生……けど、ここ最近の響君は青年の雰囲気になってきていて、とても大人っぽく見える。
声変りもして、その声が本当に魅力的なのだ。
たまに見せる笑みにも心臓が壊れそうなほどバクバクしてしまう。
彼の目も、鼻筋も唇も……そしてその手も……触れてみたい。
響君の何もかもが、とんでもなく魅力的に見える……
って私、おかしいのかな?
その時、響が尚の方を向いた。
ばちっと目が合ってしまい、尚は驚いて顔を伏せる。
ううっ、気まずい。
ずっと見つめていたのが、バレてないかな……
「あの……」
「な、何?」
「俺、その……やっぱり、出直します」
そう言って、響が立ち上がる。
えっ?
よく見れば、響は彼らしくなく、もじもじとして落ち着かないでいる。
嘘! まさか、響君に嫌われた?
「あ……」
言葉が出ない。
もう泣きそうだ。
「尚さん?」
響が呼びかけてきたが、涙を堪えていた尚は返事ができなかった。
「尚さん? あの、どう……」
「な、なんでもないから。あの、私は部屋に行くから、響君はここにいて」
尚は立ち上がって言い、ドアに駆けていこうとした。
だがその手を響が掴んでくる。
驚いて振り返ると、響はパッと手を放した。
「ご、ごめん。あの……」
尚は謝ってくる響と目を合わせた。
すると、どうしてか結びついた視線が逸らせなくなる。
いつの間にか、ふたりの距離は狭まり、そして……
軽く抱き合い唇を重ねていた。
どうしてそんなことになったのか、まるで分からない。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
いま、尚は響とキスをしている。
お互いに相手を求め、ぎこちないキスは深まっていった。
心が舞い上がり、尚は至福の中にいた。
私の思いが通じたんだ。
私、響君と両思いになれたんだ!
その時だった。
ドン! と、押された。
尚が我に返った時、すでに響の姿はそこになく。
遠くでバタバタと駆けて行く足音がし、玄関ドアが乱暴に閉まる音がした。
呆然として立た尽くしていた尚の胸に、じわじわと恐怖が這い上ってくる。
私……何をしてしまったの?
年下の男の子にキスをして、突き飛ばされた……?
膝がガクガクしてきて、その場に頽れる。
嘘! 嘘‼ 嘘っ‼
こんなの現実じゃない!
こんなの夢よっ!
そうでしょう? そうよね?
後悔の涙が湧き上がり、尚は床に座り込んだまま泣きじゃくった。
――この日から、響は家に来なくなった。
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