募る思いは果てしなく


2 
踏み出す勇気


「そうそう、いただきものの梨があるんだったわ。尚、食べる?」

 奈都子に言われ、尚は頷いた。

「うん、いただく」

 ここは奈都子の新婚家庭だ。

 弁護士事務所に勤め始めた奈都子は、なんと一年後に、同じ事務所で働いていた弁護士の森本亮治もりもとりょうじと出会い、結婚したのだ。

 尚と同様、高校の時の恋をずっと引きずっていた奈都子だったから、いまとても幸せでいる彼女を見ると、尚も嬉しくてならない。

「甘くてみずみずしい。すっごく美味しい」

「いっぱい食べてちょうだい。亮治さんったら、私が美味しいって言ったら、まだあるのに、また買ってきちゃったのよ」

「うわー、ご馳走様」

「ふふーん、愛されてますから」

 わざと顔をしかめて言ったら、奈都子がにやつく。

「ほんと、亮治さんみたいな素敵な人に出会えてよかったね、奈都子」

 そう言うと、奈都子がじっと尚を見つめてくる。

「な、何?」

「あんたもいい加減、新しい出会いをしてもいいんじゃないの?」

 その言葉に、尚は黙り込んだ。

「亮治さんの友人に、凄く素敵な人がいるのよ」

「奈都子、私……」

 断ろうとすると、「いいから、聞いて」と奈都子は強引に話を進める。

「三須みすさんっていうんだけど、彼、経営コンサルタントでね、ここ数年海外にいたんだけど、この前日本に戻って来たんですって」

 どうやらかなりハイレベルな人のようだ。

 正直、気後れする。

「それで、この間家に遊びにきた時に、結婚式に出てもらえなかったからそのときの写真を見せたのよ。そしたら尚を見て、これは誰だって、もう興味津々」

「あの、奈都子、悪いけど私は……中田君ともダメだったし……」

 中田と別れることになった時、もう二度と、誰とも付き合わないと誓ったのだ。
 八年経っても、尚の心の中には響がいる。

 消し去ろうとしても……どうしても消せないのだ。

 遠くに逃げたって、意味はなかったのよね。

 地元の大学に進むと決めていたが、もう響のいる地元にいられず、東京の大学に進んだ。 そして奈都子とアパートをシェアして……。

 卒業後も、尚は向こうに残るつもりでいたけど、地元に戻ることにした奈都子が、あんた一人置いては戻れないと、『ヒナモト照明』への就職を勧めてきたのだ。

 こちらに戻り、響と会うことになるのではと心配したけど、それはまったくの危惧に終わった。

 結局、四年経っても、彼とは一度も会うことはなかった。

「言っとくけど、私もあんたと同じだったわよ」

「奈都子……」

「けど、もっと愛せる人に出会えた。彼と出会えて本当によかったと思ってる。あんたにとって、三須さんがそうなるのかもしれない。だから、最初からダメと決めつけないで、とにかく会ってほしいのよ」

 その説得に、尚はもう首を横には振れなかった。

「ねぇ、奈都子。ひとつ聞いてもいい?」

「何?」

「……亮治さんと出会って……先生のことは、忘れられたの?」

 奈都子は顔をしかめ、怒ったように見てくる。

「なんて質問するのよ」

「ご、ごめん」

 頭を下げて謝ったら、奈都子はため息をついてしばらく考え込んだあと、ようやく口を開いた。

「亮治さんのことは誰より好き。けどね、先生を好きだった気持ちは、過去の思い出と一緒に胸にあるわよ」

 そうか‼

 そうなんだ。好きな思いがそのまま胸にあったとしても、違う人をもっと愛せるんだ。

「私……会ってみようかな」

「尚?」

「奈都子、ありがとう。私、踏み出してみる」

「う、うん。三須さんは本当に素敵な人よ。尚とお似合いだから、会って損はないわよ」

 三須を一生懸命押してくる奈都子は、驚いたことに涙を浮かべていて、尚まで涙が湧いてくる。

「もおっ、奈都子ってば、なんでこんなことで泣くのよぉ」

「だって……ようやくあんたも前に進めるのかなって思ったら……泣きたくなるじゃないのよぉ」

 奈都子はふて腐れたように言い、梨を口に頬張った。

 尚も涙を拭いて梨を食べる。

 三須さんか……どんな人なのかしら?

 ……私はその人を、響君よりも愛せるのだろうか?

 奈都子の家からの帰り道、最寄りの駅を降りて家に向かって歩いていたら、見慣れた車が尚の側で停まった。

 弟の成道だ。

 いいタイミングで現れてくれて、感謝しつつ助手席に乗せてもらう。

「今日は、奈都子さんのところに行ってたんだよな?」

「うん。もう新婚さんの甘々話をいっぱい聞かされちゃったわ」

「尚は? 結婚したい相手とかいないのかよ?」

「私は仕事一筋だもの」

「尚はそればっかりだな。いい男を紹介してくれそうな奴、周りにいないのか?」

「自分はどうなのよ?」

 尚はそう問い返し、弟を見つめた。

 二十三歳になった成道は、姉の目から見ても、いい男に成長していると思う。

 鼻筋は通っているし美形の部類だ。
 頭も切れるし、モテると思うんだけど……?

「俺はいいの。まだまだ若いからな」

「若くなくてすみませんでした」

 つい本気で怒ってしまい、そんな自分にがっかりする。

 年齢のことを持ち出されると、どうにもイライラしてしまう。
 それは成道が響と同じ年だからだ。

 私はすでに二十六歳で、響君はまだ二十三歳……

 彼には、もう付き合っている子がいるんだろうな。

 きっと二十歳くらいの若い子で……私より六つも年下の子だったりするんだろう。

 胸が鋭く痛み、尚は顔をしかめた。

 この痛みが消える日は来るんだろうか?

 中田君とはダメだったけど……奈都子の言ったように、もしかしたら響君よりも好きになれる人が現れるかもしれない。

 出会いを避けてばかりいては、その可能性もないわよね。

「実はね、私、奈都子からハイレベルな男の人を紹介されることになったの」

 胸にしこっている響のことを払拭したい気持ちから、尚は冗談めかして口にしていた。

「えっ、マジか?」

「マジよ。経営コンサルタントをしている三須って人なの。奈都子の旦那様の友達で、ちょっと前まで海外勤務だったんだって。結婚したら、私も海外に行くことになったりして……」

「尚、本気なのかよ?」

「本気よ。そう言ってるでしょう」

 成道がずいぶん驚くものだから、つい調子に乗ってしまったが、おかげで気持ちが固まった。

 三須に会おう。――そして前に踏み出そう。





   
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