その3 秘密の友達
歩道を歩いていた沙由琉は、見知らぬ男に突然声をかけられ、驚いて振り返った。
隙がないからなのか、魅力がないからなのか、生まれてこの方、ナンパされる状況に陥ったことはない。
沙由琉は、なんとなく、いや、ものすごくわくわくした。
どういう言葉でもって断ろう。
断る言葉を色々考えつつ振り返ったら、「やあ」と親しげな顔で言われた。
その男の顔をすぐには思い出せず、沙由琉は思わずぽかんとしてしまう。
「本屋で会ったろ、覚えてない?」
相手は声を掛けたのをちょっぴり悔やんでいるような表情をした。
その途端思い出した。
今、もっとも思い出したくない男。ナンバーワン。
『新城!』
飛び出そうになった言葉を、やっとの思いで喉の奥に押し込める。
「僕の方は忘れようったって忘れられない出来事でさ」
確かに、ひどく愉快そうだ。
出来ることなら、にやにやしたその顔を思いっきり張り倒してやりたかった。
ギロリと見た沙由琉の眼にビビッたのか、新城が半歩退いた。
そのまま無視して歩き出しそうとした沙由琉に、新城が慌てたように続けた。
「いや、悪かったと思ってたんだ、あの時のこと…」
謝っている態度ではなかった。
思い出してでもいるのか、へらへらと笑っている。
あの日、帰ってすぐにあの英語のスペルを和訳した。
新城が舌を巻く発音で読み上げたところからして、その意味も当然知っているだろう。
そのままにしておいては、負け犬になった気分から抜け出せないような気がしたのだ。
『恋をして、しかも賢くあることは不可能だ』
なんだか、希美のことを表しているようだし、しかもその言葉を新城が目にしたということが気にさわって仕方なかった。
今度逢ったら、殺す!
新城がわっと叫んだ。
沙由琉が彼の頬で拳を寸止めしたからだ。
狙った以上の新城の驚きに満足して、ふっと笑うと沙由琉はまた歩き出した。
「危ないやつ…」
後方で新城の呟きが聞こえた。
そう思うなら二度と声掛けてくんじゃねぇと、乙女にあるまじき罵声を心のうちで浴びせる。
希美の気持ちが落ち着いた今、もうこんな奴に用はなかった。
「あの本読んだよ。良かった」
その一言に沙由琉は足を止めてしまった。
「読んだの。全部?」
沙由琉は、ぱっと顔をほころばせた。
ぱちっと目が合った新城が、なぜか眩しげに目を細めた。
「うん、ああ」
新城は石に似せて作られた歩道の囲いに腰を落ち着け、沙由琉も並んで腰掛けた。
そしてその後、沙由琉は彼と長い時間、読後感想会を始めたのだった。
それ以来、沙由琉は新城と会うようになった。
希美にはもちろん内緒だ。
そのせいで、沙由琉は新城と逢う度に微かな罪悪感を感じざるを得ない。
でも、別に特別な関係じゃないし。単なる読書仲間だし。
そう思うものの、それでも希美はいい感情を持つはずがないと分かっている。
新城に逢う限り、どこまでもこの罪悪感を引きずるのだろう。
友人になった今、新城の良さを彼女も理解していた。
けっこう律儀だし、待ち合わせに遅刻して来ることもない。
希美が時間にルーズで、かなり迷惑をこうむっているものだから、これは評価に値した。
沙由琉は、ちらっと新城の横顔を盗み見た。
一番印象的な眼の鋭さ。それと対照的に、微笑むとやさしげになる口元。
なんだか分からないけど、新城の少し長めの髪がさらりと揺れるたびに、沙由琉がとても好きだと思う匂いがする。
わざともってまわった言い方をして面白がる癖も、やはり魅力がある。
何人もの女に言い寄られるのも頷けた。
まあ、多分にひとをからかうところは、ちょっといただけないが…
結局、と沙由琉は思う。
当初の希美の作戦は、遠からず成功している。
希美の考えでは、この後、新城の新しい彼女とのデートに居合わせ、彼女を憤慨させて別れさせる。というものだった。
希美はとにかく、最後に会った女がしゃくにさわって仕方がなかったようだ。
希美の言うには、その彼女は新城に相応しくないのだという。
このままその女と新城が付き合うのは、どうしても許せないと言っていた。
希美は二人が別れればそれで良かったのだろうか?
それとももう一度、新城と寄りを戻したいという気持ちがあったのだろうか?
作戦の遂行の必要はなくなって、そうする気持ちもすでにないのだが、なんとなくわだかまりを感じてしまう。
それにしても、新城の彼女はどこにいるのだろう。
存在していない筈はないのに、こうして新城と逢うようになって二ヶ月、未だ見たことがなかった。
「新城君、いまちょっといい?」
いつの間にか、沙由琉と新城が座っているテーブルにくっつくようにして立っている高校生らしき女の子がふたりいた。
ふたりとも新城と同じ学校の制服だ。
「なにか用?」
本から顔もあげずに新城が言った。
かなりいいところなのか、ものすごく声がそっけなかった。
だが、そんなことなど気にかける様子もなく、もうひとりが話しかけた。
「一組の伊藤岬って子知ってるでしょ?ものすごく可愛い子だから」
可愛い子という言葉を言うときに、なぜか沙由琉をちらと見て、ふふんと鼻で笑った。
沙由琉は首をかしげた。
いまのって、私を挑発してるのか?
新城は答えなかった。
完全に無視してるのか、それともまったく気づかないのか、何事も起こっていないかのようにページをめくった。
返事がないことにいらだったらしく、また最初の子が言った。
「ね、新城君。聞いてるの?」
「うるさい」新城がぽつりと言った。
沙由琉は、鳥肌が立った。
怒鳴らずして、こうもひとをおびえさせるとは。
自分に言われた台詞ではなくても、恐さがあった。
もちろん、言われた本人達は、絶句している。
彼女達は数秒突っ立っていたが、我に返って互いの顔を見合わせ、ふたり同時に文句を言い始めた。
もうこれ以上、何も言わないほうがいいよ。と言って上げたかったが…
「なによっ」「それって、あんまじゃない?」
新城が本を閉じた。
パシンと大きな音が響いた。
彼の身体から発散する怒りが見えた気がした。
不謹慎だが、沙由琉はわくわくしていた。
初めてのこと、さらに意外性なども大好きだ。
「人の邪魔して、君たちの方が…あんまりじゃないのか?」
冷たい刺す様な眼で言う。
その頬に触れたら、手のひらが凍ってしまうかもしれないと思えた。
出来るなら、本当に凍るものか触れてみたかった。
「沙由琉、いま、何考えてた?」
彼女達がぷりぷりしながら退散して行くのを眼で追っていたら、新城が言った。
沙由琉は、ふたりと合流した女の子を見て眼を丸くした。
「あの子が伊藤岬ちゃんかな。ほんと、すっごい可愛い子」
「今何考えてたって、聞いてるんですけど」
冷たい声に肝がひやりとする。
沙由琉はにっこり笑って新城に向き直ると、彼の頬っぺたにぴたりと手のひらを当てた。
「ほんと、冷たい」
「まったく。わけわかんない奴」
新城は肩をゆすって笑い出した。
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