その2 恋の定義
「えーっ、付き合ってないよー」
沙由琉の作った一口サイズのチョコケーキを、頬をふるふるさせて幸せそうに味わっている希美は、沙由琉の質問にそう答えた。
「でも、橋田君はそのつもりじゃないかなぁ」
沙由琉の言葉に、希美が笑いながら大きく手を振った。
「ありえないって。友達だよ」
笑いを収め、希美はもうひとつチョコケーキを口に放り込んだ。
もぐもぐととろけそうな表情で食べている希美を見ていると、沙由琉まで幸せな気分になる。
唇をぺろりと舐めて、最後の甘みに笑みを浮べ、希美は沙由琉に向いた。
「あのさ、すでに沙由琉も恋愛経験者なんだから、わかるでしょ?恋ってのはドキドキして切なくて、こんなチョコケーキみたくあまーくて、…泣きたくなるようなものなのよ」
判る?というように沙由琉を見つめながら希美は顎を数回上下させた。
沙由琉は同じように顎を上下させて応えた。
「つまりね、こんなに気楽なのは、すなわち恋じゃないってこと」
そこで何を思い出したのか、希美が破格の笑みを浮べた。
「大口開けて、ガハガハ笑いながらポップコーン食べつつユーモア満載の映画観たりしないもんなのよ」
「映画…行ったんだ」沙由琉は、呟くように言った。
「うん。橋田君が券もらったから行こうって、昨日」
「そうなんだ」
たしかに恋とはドキドキして切なくて、甘いについてはまだ経験がないが、泣きたくなるものだというのは、すでに経験済みだ。
だが…
「でもさ、恋がみんなそうだとは限らないんじゃないかな。いろいろ種類が…」
ちっちっち、と希美が沙由琉の鼻先で人差し指を左右に振った。
「沙由琉、ドキドキと切なさと甘さなくして、恋は語れないのだよ」
「そんなもん」眉を潜めて沙由琉は言った。
「そんなもん」深い考察の末の言葉のように、希美が言った。
沙由琉は腑に落ちなかったがそれ以上の追求をやめた。
しょせん経験が浅いのだ。
いまだって、新城の謎の不機嫌さに翻弄されている。
「そいでさぁ、明日沙由琉たち、どっか行く予定組んじゃった?」
「別に、いつもどこって決めないから。ただ待ち合わせの時間だけ決めて、いつもの喫茶店で本を…」
「デートで本?デートで本、読んでるの?」
「う、うん。私たち元からそんな風に過ごしてたし」
「ふたりして別々の本読むの?」
「そりゃそうでしょ」沙由琉は思わず吹いた。
当たり前のことだ。同じ本など読めるわけがない。
ページを捲るタイミングがずれて、本に没頭できないではないか。
「あー」
そう叫んで希美が机に突っ伏した。
「沙由琉、ふたり付き合ってるんだよ。恋人同士なんだよ。自覚してる?」
顔を上げた希美が、言葉ひとつに、人差し指を一回一回突きつけながら言った。
「読書なんか駄目、そんなものひとりの時にやればいいじゃん」
「読書は駄目なんてこと…ないんじゃないかな」
「駄目にきまってるじゃん」希美が怒鳴った。
その剣幕に、沙由琉は椅子ごと後じさった。
「ダブルデートしようって橋田君が言ってるの。明日行くわよ」
きっと睨まれて、沙由琉は思わず頷いた。ダブルデート?
「そして、呆れるほど馬鹿なカップルに、デートの真髄というものが、いかなるものか教えてやるわっ」
呆れるほど馬鹿なカップルとは、やはり自分と新城のことなのだろうか?
拳を震わせて自分にガッツを入れている希美を見つめつつ、沙由琉は思った。
「ダブルデート?ふぅーん、いいんじゃない」
携帯の声の新城は、いつものようにそっけなかった。
「それで、どこに行くって?」
「さぁー」
「なんだ、さぁーって」
「希美がひとりで盛り上がっちゃって。明日、駅前に十時集合って。行き先なんて行ってから聞けばいいじゃない?」
「行き先は重要だろ。特に女の子側は」
「え………どうして?」
「行く場所によって着てゆくものって違うだろ」
「え………そうなの?」
「違わないのか?」
「………」
「沙由琉?」
「行き先聞いて、また電話します。では」
そう丁寧に言ってから電話を切り、沙由琉は頭を抱えた。
行く場所によって服が違う?
新城の口ぶりから、それは世界の常識と沙由琉には聞こえた。
彼女はジーンズとTシャツ類しか持っていない。
それは新城も知っているはずではないか。
それとも、口には出さないが、沙由琉の服装に不服があったのだろうか?
まさか、それが不機嫌の理由…だったりとか。
「行き先は、花パークだって」
「ああ、あそこか。小学校の遠足以来だな、僕は」
「わたしも同じ」
花パークはその名の通り、花がいっぱいで、ペンギンとかの動物もいて、大きな池があって、パステルカラーに塗られた可愛いメリーゴーランドと観覧車がある。
つまり、、動物園にしては動物も少なく、無駄に大きな池があり、遊園地としては物足りなく、この歳では恥ずかしくて乗れないおこちゃま向きのメリーゴーランドと観覧車があるところなのだ。
「いいんじゃない。それじゃ明日…」
「あ、うん。明日ね」
意外だった。きっと新城は呆れると思ったのに。いいんじゃない?
希美に何を着てゆくのか尋ねると、「わたしはなんでもいいのよ。沙由琉、可愛い服着ておいでよ」と念を押された。
ジーンズとTシャツなんか論外という含みも、ひしひしと感じた。
スカート…そんなもの、この家のどこに…
沙由琉は、太一郎の部屋をノックした。
返事を聞いて中に入ると、ベッドに寝そべって雑誌を見ていた太一郎が起き上がった。
「太一郎兄様、もしかして…」
「なんだ?」
「スカート持ってる?」
太一郎の眉が目玉と一緒に上にあがった。
彼は頭をくしゃくしゃと掻き、左の肩をぼりぼり掻き、それからひとつあくびをした。
それからやっと沙由琉に向いた。
「なんだって?」言葉に剣が含まれた。
「だから…スカート」呟くように沙由琉は言った。
「お前、馬鹿か」
「だって、兄様、言ったじゃない」
「持ってるって言ったってのか?俺が?いつ?」
「男だってスカートを履くって言ったじゃない。この間」
「お前の頭の中じゃ、この俺と、スカートが結びつくのか?」
「結びつかないけど…もしかしてって思って」
「スカートなんか…あ、そうか」
何かひらめいたらしい。
「そうかそうか。沙由琉、俺のところに来るくらいなら、母のとこにいけよ。あのひとなら持ってるぞ、たっぷりと」
「あ、そうか?なんで思いつかなかったんだろう?あはははは」
「あはははは」
声を合わせて笑いながら、太一郎が近付いてきた。
近付いてきながら、彼は手に持っている雑誌を丸め始めた。そして…
パコーンと気持ちの良い音が響いた。
「いたた」
沙由琉は頭を押さえた。
「この、あほう!」
もう一度雑誌がパコーンと音を立て、同時に太一郎の罵声が飛んだ。
「ごめんなさーい」
「ね、これなんかいいんじゃないかしら?」
「母様、そんなぴらぴらじゃなくて、もっとあっさりしたのがいいんだけど」
「そうお。こんなに可愛いのに」
可愛いかどうかではなく、似合うかどうかが重要だと思うが…
クローゼットの中からは、可愛らしい服が溢れるように出てきた。
そしてどの服も、母のお古にしては新品のようにみえた。
沙由琉はもっともシンプルなデザインの服を選び出した。
「これと、それからこのスカートにするわ。うーん、ちょっと短いかしら」
当ててみると、さらに短く感じる。
「そんなことないわよ。可愛いわよ」
「わたしに似合うもの探してよ。それにしても、母様、若い頃、こんなに可愛い服着てたのね」
「いやーねぇ。これは沙由琉ちゃんのよ」
「えっ」
「いつか目覚めてくれると思って…」
「目覚める?」
「ふふ。で、それでいいの?」
「うんまあ。いいかな」
ふたりの横では父がもくもくと、妻と娘が広げた服をハンガーにかけている。
服が決まった沙由琉も、残りの服を掛けるのを手伝った。
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