その3 不明瞭な助言
「わたし、彼がこれっぽっちも理解出来ないの」
シチューの味見をして、足りないと思える香辛料を足しながら沙由琉は、後ろにいる母親に顔だけ振り返り、諦めた口調でそう話を締めくくった。
「そうねぇ、それじゃあ、今度の土曜日に温泉でも行こうかしら」
サラダを彩りよく盛り付けながら、沙由琉の母はのほほんと言った。
家事一切、特に料理の腕には難のある母だが、盛り付け担当専門で年月を過ごしてきたせいなのか、料理を彩りよく盛る腕だけは長けている。
温泉?
沙由琉は眉をひそめ、母の言葉を理解しようとした。
夕食の準備をしながら、ぽつりぽつりと、今日の新城のことを話したのだ。
母親が知らないうちに買い込んでいた数々の洒落た服。
母親にたしなめられるようにして、それらの服を着て新城と会った。
しかし、新城は着飾った沙由琉をどうにも受け入れられないようなのだ。
彼女が洒落た服を着ていれば着ているほど、なぜか新城は不機嫌になる。
彼女に好きだと言ってしまったこと自体、彼の過ちだったのではと、悲しい結論を出したこともあったが…
どうもそうではないようだし…
「本屋さんで落ち合ったら、祐樹君を家に連れていらっしゃい」
「でも、母様、父様と温泉に行くのでしょ?」
「ええ。あなたたちは、ふたりきりになる機会があまりないでしょ?」
「それどういう…えっ?」
「スキンシップは大切よ。そういうことが互いの心を寄り添わせるの」
母の、含みのある瞳が笑っている。
「母様?」
「あなたたちふたり、デートの間に、手を握ったり腕を組んだり、してる?」
赤くなった沙由琉は、母親の手でキレイに盛り終えたサラダをそれぞれの位置に並べ、食器棚から皿を取り出して食卓に置いた。
新城と逢うときは、たいがい本屋で欲しい本を買い込み、そのまま喫茶店でお茶という流れになる。
もちろん、喫茶店で向かい合わせに座った状態で手を握るなんてありえないし、歩道を歩きながら腕を組むなんてことも、ふたりにはありえない。
つまり、デートという言葉で沙由琉と新城の付き合いを表現するのは、不釣合いなのだ。
デートと呼べるのは、希美と橋田の4人で遊びに行く時くらいだが、その稀なデートの時ですら、希美にどれだけせっつかれても、ふたりは手を繋いだりしなかった。
ふたりは、どうしてもそういう雰囲気にならないのだ。
一度だけ、沙由琉からキスをしたことがあるが、あれは…
「沙由琉ちゃん?」
いやにきっぱりとした声で、母は答えを催促してきた。
沙由琉は小さく吐息をついた。
こういう口調の母の質問には、答えないわけにはゆかない力が潜んでいる。
「そういう…なんていうのか…無理だし…」
分かっていた答えだというように、母が頷いた。
「祐樹君と手を繋ぎたい?彼に触れたいって、沙由琉ちゃんは思わないの?」
大胆な質問に、沙由琉は真っ赤になって俯いた。
「そんなこと…」
「とても大切なことよ。もし、触れたいと思わないのだったら、彼とは別れなさい」
母の真面目な口調に、彼女は驚き、目を大きく見開いて母親を見た。
「でも…新城君…嫌かも知れない…」
「ひとの心は、態度に表れるものよ。そんなことはないわ」
「で、でも、新城君はわたしが可愛い服着てるのを見ると、嫌がるのよ。何度もそう言ったでしょ?」
「どうして彼が嫌がるような態度を取るのか、沙由琉ちゃん、分からない?」
沙由琉は、口元を固くした。もちろん、答えははっきりしている。
「…似合ってないから」
なぜか母親は、あからさまに大きなため息をついてみせた。
「彼、どんな性格をしてたかしら?」
沙由琉は怪訝そうに首を傾げた。
「どうして?」
「いいから答えてごらんなさい」
言い聞かせるように言われて、沙由琉は母親の真意が理解できず、また首を傾げた。
「どんな性格って…シニカルかな。言いたいことは言うけど、なんていうのか、まっすぐな表現は使わないっていうか…」
母が理解を示すように一度頷いた。
「シニカルで、素直に言葉を口に出来ない男の子なわけね?」
「まあ、そう」
母親は、まるで期待するように沙由琉の目をしばらく覗き込んできた。
彼女は目を瞬いた。
「答えは分かった?」
「え?」
戸惑っている沙由琉の手を、母親は両手に握り、ポンポンと軽く叩くとやさしく微笑んだ。
「答えはもうあなたの中にあるわ」
「答え?どんな?」
「それをわたしが口にしてしまうわけにはゆかないわ。あなた自身が見つけ出さないとね」
その夜、ベッドにもぐりこんでから、沙由琉は母のいう答えを見つけようとしたが、頭の中で、母との会話が空回りするばかりで、答えどころかなんら得ることは出来なかった。
母親の方は、沙由琉との会話ですべてを分かっているようなのに…彼女には分からないのだ。
そう考えるとひどくもどかしかった。
教えてくれればいいのに…
答えはもう沙由琉の中にあるという母の言葉…
目の前に転がっているはずの欲しいものは、形を成さない透明な空気のようなものだ。
沙由琉は苛立ちにかられ、ベッドから抜け出した。
気になって、とても寝られそうになかった。
彼女はふと思いついてクローゼットの扉を開け、ぶら下がっている服を真剣な顔付きで眺めた。
今度の土曜日、いつも着ているようなジーンズとTシャツは、絶対着ないようにと、母親に申し渡されてしまったのだ。
母は沙由琉の中で絶対の存在だ。
そして母の言葉は、けして無理やりの押し付けでない。
それが沙由琉にとってもっともよいと分かったうえでの言葉なのだ。
そんな母の申しつけを無視することは…
沙由琉は、ぶら下がっている服の中から、まだ手を通したことのない薄桃色のブラウスと紺色のミニスカートを手に取った。
母は、すべて沙由琉に似合うものを揃えてあるのだから、どれも必ず似合うと請合ってくれたが…
こんな服が本当に似合うのだろうか?
新城に、またちゃらちゃらした服を着るなと、イライラしながら言われたら…
そのとき、コンコンとドアがノックされた。
「いまいいか?」
太一郎だった。
「どうぞ」
ドアはすぐに開けられた。
まだ風呂に入っていないのか、太一郎は寝巻きを着ていなかった。
「沙由琉、男ってのはだな…」
開け放ったドアにもたれるようにして前置きなくそうしゃべり始めた太一郎は、唐突に言葉を止め、沙由琉の手にしているスカートをマジマジと見つめた。
「兄様、なんなの?」
「それを着るつもりか?」
確めるように言われて、なぜだか沙由琉はむっとして肩をそびやかした。
「着るわよ!」
「…そうか。いいか、沙由琉。男というものは自分でも止められない衝動というものに突き動かされるときがあるもんなんだ。そのことをしっかり頭に入れて、土曜日を迎えるんだぞ」
沙由琉は、ポカンとした顔をした。太一郎は何を言っているのだ。
「兄様、いったい…」
「その服はいいと思うぞ。新城も喜ぶだろう…だが…」
「だが?」
「許されるのは…」
「許される?」
きょとんとオウム返しに繰り返す沙由琉と瞳をバッチリあわせていた太一郎の頬が、なぜだか少しずつ赤らんできた。
「兄様?」
「ゆ、許されるのは…だな」
「許されるって?なにを?」
「いや…間合いを…いや違う…。間合いを取ってしまってはいかんのだ…この場合」
太一郎は天上を見上げては呟き、床を見据えては呟いた。
「間合い?」
「間合いのことは忘れろ。だが、度を越えて我を忘れてはいかん」
そう言った太一郎はなぜだか満足そうに微笑んだ。
まるで、自分はうまいことを言ったとでも思っているようだった。
沙由琉は眉をしかめた。
「あの…」
「いざというときは、俺のいまの言葉を思い出すんだぞ」
肩をそびやかして部屋を出てゆく兄の後姿を、沙由琉はぽかんとした顔で見送った。
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