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その4 噛み合わない心
横にずらりと本が並んでいる本屋の棚を前に、手に取った本をパラパラとめくっている新城を数メートル離れた場所から沙由琉は眺めていた。
『家に来ない』その言葉は、予想していたことだが、なかなか口に出来ないでいた。
すでに新城は二冊の本を選んで脇に挟んで満足しているようだし、手にした本は棚に戻し、そろそろレジに向かうに違いなかった。
今日も始まりから躓いていた。
本屋に先に来ていた新城を見つけた沙由琉は、彼の側に行くのにかなり時間が掛かった。
腹を据えた沙由琉が彼の前に出て行くと、彼女に気づいて沙由琉の全身をさっと見た新城は、ほんの一瞬だが、苦いものを飲み込んだ顔をした。
あの苦い顔を思い浮かべるたびに、沙由琉は後悔を噛み締めた。
沙由琉は、自分の履いた紺色のミニスカートを見下ろした。
それはとてもやわらかな素材で、歩くたびに太もものあたりでゆらゆら揺れる。
少し歩いただけでも大きく波打つのだから、走りでもしたら、とんでもなく太ももを晒すことになるだろう。
服というものは、着てみないとどんな効果を及ぼすかわからないというのが、今日の沙由琉の学びのひとつだ。
つまり新城と言い争い、腕に抱えているハーフコートも着ないうちに、いつものように怒りとともに駆け出すというようなことだけはしない方がいいようだった。
「鈴川?」
恐る恐るというような遠慮がちな声がすぐ近くから聞こえた。
顔を上げると顔見知りの男子生徒の、船本だった。
いまは違うが、二年の時には同じクラスだったし、三年になってからは彼女がクラス委員をしていたこともあって、生徒会の副会長をしていた彼とはちょくちょく顔を合わせる機会があった。
「あら、船本君」
沙由琉は知った顔に会った偶然に、船本に微笑を向けた。
どうしてか船本が眩しいものでも見るように瞬きした。
「やっぱり君だったんだ。…驚いたな」
驚きに照れを浮かべて船本は頭を掻きながら、沙由琉の全身へ上下に視線をあてた。
「鈴川、学校とはぜんぜんイメージ違うから人違いかなと思って、なかなか声を掛けられなかった」
船本の言葉に、沙由琉は改めて自分の服装を意識した。
途端に恥ずかしさが湧き、頬が染まった。
「似合わないのわかってるんだけど…母様が…」
くすっと船本の笑い声が聞こえて、沙由琉は俯いていた顔を上げた。
「お母さんのこと、母様って呼ぶんだ」
「え?…お、可笑しいかしら?」
「いや、可愛らしいなと思って…」
可愛い?
聞きなれない言葉に、沙由琉はうろたえた。頬がひどく熱かった。
「沙由琉」
頑とした新城の声が、突然頭上から降って来た。
驚いて振り返ると、顔を冷たく強張らせた新城がいた。
「新城君、もう行く?…本は、買うんじゃなかったの?」
沙由琉は新城が手に本を持っていないのに気づいて、そう付け加えた。
「彼は?」
船本に顎を向けて新城は尋ねてきた。その目はひどく鋭かった。
「友達の、船本君。船本君、彼は新城君、その…彼は、その…か、彼なの…」
知り合いにそう紹介してしまっていいものか迷い、沙由琉はそう結んだ。
「彼?…それ、君と彼は付き合ってるって意味?」
「あやふやな紹介だったが…」
そう言いつつ新城は沙由琉を責めるように見てから、彼は挑戦的な視線を船本に向けた。
「そうとってもらっていい」
「そうなんだ…そうか。それじゃ…これで」
店の出口へと船本は向きを変え、何かにつまずいたのか、少しよろめいた。
船本を少しだけ見送り、沙由琉は新城に声を掛けた。
「新城君、本は?買わないの?」
沙由琉は、自分に向けられた新城の鋭い視線にたじろいだ。
「どうかしたの?」
「僕と付き合ってると口にするのを、どうしてあんなにためらった?」
「え?だって…新城君が嫌かなって思ったから…」
「僕が?君じゃなくて、どうして僕なんだ?」
「だって、こんな格好してるわたしは、新城君、嫌いなんでしょ?」
新城は複雑に表情を揺らした。
「…確かに、いつもの服装の方がいい」
その言葉は予想していたものだったが、沙由琉はひどく気落ちした。
おまけに視界までぼやけた。
「買う本を取って来るよ。君は買わないのか?」
「わたし…今日はいい」
「けど、茶店で僕だけ本を読んでたら、君つまらないだろ」
どうしてだか、沙由琉の心に急激に絶望感が湧いた。
彼女と新城の仲は、なんら進展しない。
一緒にいて心地よい空間を分かち合うのは楽しいけれど、いまの沙由琉は、それを虚しく感じた。
新城は沙由琉に、友情しか求めていないのだ。
その感情がどれほど強く深いとしても、友情は友情で恋ではない。
母が口にしたように、認めたくないことだが、沙由琉は新城に触れたいと思っている。
手を握りあったり、腕を繋いで歩いたり…
一度きりの沙由琉からのキス…そのことを思い出すとさらに虚しさが湧いた。
新城は、沙由琉にキスなど求めてなど来ない。
それどころか、女の子らしい服装をする彼女を嫌ってすらいる。
恋心の明らかな重みの差をはっきりと感じて沙由琉は辛かった。
いや、違う。
たぶん…新城には恋心などないのだ…
「わたし…」
「うん?」
「…今日は帰る」
沙由琉は新城の脇をすり抜けて、店の出口に向かった。
店から出て歩道を歩き出してすぐ、新城に腕を掴まれた。
「どうしたっていうんだ?何が気に入らない?あいつか、あいつのことか?」
あいつ?
彼女は眉を寄せて新城を見上げた。
彼は声と同じく、憤怒ともいえる不機嫌な顔をしている。
「船本君のこと?」
寒風が肌を刺すように吹き抜け、沙由琉は腕に抱えていたコートを羽織った。
新城の方は、黒いコートを手に掴んだままだ。
「寒くない?」
「話をそらすな!」
新城が怒鳴った。怒鳴られた沙由琉はむっとして彼を睨み返した。
「意味がわかんない。船本君がどうしたっていうのよ?」
「急に帰るって言い出すなんて、おかしいだろ?」
沙由琉は込み上げてくる罵声をいったん飲み込んだ。
唇を噛み締めて新城を睨みつけ、彼女は極力落ち着いた声で言った。
「この服装が気に入らないんでしょ?気に入らない服を着てるわたしと一緒になんかいたくないでしょ?」
新城がちょっとひるんだ。
彼は気まずげな顔を隠そうとでもするようにそっぽを向いた。
「そういう意味じゃ…」
「とにかく帰る。この服でいるの、もういたたまれないし…」
「それじゃ、着替えて戻ってくればいい。そうだ、それがいい」
沙由琉がくるりと振り返った途端、バシーンと激しい音が辺りに響いた。
通行人の何人かが、ふたりをちらちらと見ながら通り過ぎて行った。
数秒時を止めていた沙由琉と新城だったが、沙由琉がその場から遁走したことで、頬を腫らした新城ひとりが取り残された。
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