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その5 ありがたい助け
駅を出てからの沙由琉の歩調は、徐々に鈍くなっていくようだった。
俯きがちにとぼとぼと歩いている彼女の後姿を見つめながら、祐樹はこうして後を付けているだけの自分が嫌でたまらなかった。
どうしても彼女に声を掛けられない。なのに、ここから立ち去ることも出来ないのだ。
顔は沙由琉の平手打ちで赤く腫れているようで、ジンジンする痛みはもうそれほど感じなかったが、熱く熱を持っていた。
沙由琉の瞳は祐樹をひどく責めていた。そして暗く悲しげな光を放っていた。
沙由琉をひどく怒らせたのが自分の口にした言葉だともちろん分かってはいたが、どの言葉がどのくらい彼女の怒りを買ったのか…いや、悲しませたのか…いまの祐樹には分からなかった。
ドギマギした思いに駆られていたところに、沙由琉に親しく話し掛けてきた船本という男の存在。そして船本を見つめる沙由琉のひどく嬉しげな笑み…
激しい苛立ちに駆られて、そのあとの自分が何を口にしたのかも覚えていなかった。
彼女の家に来たことはないから確実ではないが、たぶん沙由琉は自分の家に向かっているはずだ。
彼女が家に着いたら、そのまま回れ右して帰るつもりなのか…祐樹は何も考えていなかった。
そのとき、沙由琉が何気ない動作で後ろに振り返った。
慌てたようにサッと顔を前に戻したところをみると、どうやら祐樹に気づいたようだった。
けれど彼女は立ち止まりはしなかった。それどころか少し足を速めた。
十メートルほどの間隔を開け、新城も同じだけ歩調を速めて沙由琉の後に付いて行った。
数分後、沙由琉は低い垣根に囲まれた家の玄関へと入ってしまった。
その家の端あたりにいた祐樹は、その場で足を止めた。
存在感のあるどちらかというと和風の家だった。
庭のたたずまいが、なんとなしに歴史を感じさせるような…
家そのものは、そのつど改築改装しているようで古びてはいなかったが、先祖代々続いている家なのに違いないと思われた。
帰ろうと背中を向けた祐樹は、もう一度二階の窓に視線を向け、深い悔恨のため息をついて立ち去ろうとした。
「おい、君」
真横辺りから、唐突に呼びかける声が聞こえ、祐樹は首を回して声の主を探した。
人影はなかったが、車庫に入れられた車のドアが開き、かなりでかい男がぬっと出てきた。
立ち上がりついでのように、男は大きなあくびをもらしながら、伸びをするように両腕をぐっと振り上げた。
「この家に、何か用事でもあったか?」
「あの…もしかして、太一郎さんですか?」
男の風貌は、沙由琉の表現していた太一郎とは食い違いが多く、祐樹の問いかけは、当たりに近付くための質問過ぎなかった。
「それじゃあ君、兄貴の後輩かなんかか?兄貴と約束でもしてたのか?」
なぜか男の顔が期待に膨らんでいる。
「いえ。僕は…その…沙由琉…さんの…」
「沙由琉?ああ、君、もしかして新城裕樹か?」
どうやら彼のことは、家族中が認知しているらしい。
「あ、はい。あの、あなたは?」
「俺は賢だ。あいつのもうひとりの兄貴。ところで、いま家には誰もいないぞ。どこぞに出掛けたらしい。そうだ、君、携帯持ってるんだろ?沙由琉に、いまどこにいるのか聞いてくれないか?」
「沙由琉なら家に帰ったところですよ」
「へっ?」
賢は自分の家を見上げ、照れた様子で頭を掻いた。
「どうやら寝ていて見過ごしたらしいな。それじゃあ、君はあいつを送ってきたところってわけか?」
そう言った賢は、うん?と眉を寄せた。
「でも、まだ昼前だぞ。デートから送ってくるには早すぎないか?」
「それが…」
進退窮まっていた祐樹は、沙由琉の兄に自分の窮地を簡潔に話した。
いつもなら、初対面の相手にそんな親しいことをする祐樹ではないのだが、沙由琉の次兄の賢は、シニカルな心の持ち主である祐樹の壁をいともたやすくすり抜けてしまうような、やさしい瞳をした男だった。
「乗れよ」
簡単すぎる告白を聞いた賢は、祐樹の話が終わるとそれだけ言った。
戸惑う祐樹に、賢が付け加えた。
「ちょっくらドライブして来ようぜ」
「あの、家の鍵と携帯を持っていなかったんですか?」
5分ほど走った辺りで祐樹は疑問を問いにして尋ねた。賢がくすくす笑った。
「携帯はエネルギー切れで死んでるし、家の鍵を持ってくるの忘れたんだ。しかし、要領よくまとめられた問いだな?君は頭が切れるんだな」
祐樹は気まずく視線をそらした。
「そうとは言えないみたいです」
頭が切れたら、沙由琉を悲しませたりしてないだろう。
「あいつのせいで、頭のネジを狂わされてるんだから、仕方ないさ」
「ネジが狂ってますか?」
「ああ。だが、別にいいんじゃないか」
「確かに、ネジが狂ってるんだと思います。僕の言葉の何が彼女を…悲しませたかわからないんですから」
賢が目玉を上向けた。笑いを堪えているのが分かった。
「そりゃあ、あいつが着ていたという服のせいだろ。君の言うことが本当なら…」
祐樹は問い返すように眉をあげた。
「俺はあいつが制服以外のスカートを履いているのを想像できない。見たことがないんでね」
祐樹はその言葉に大きく頷いた。
「そうなんです。付き合い始めた当初は、ずっとTシャツにジーンズでこざっぱりした服装だったんです。それが突然…」
「それで、君は心穏やかでいられなかったわけだ」
祐樹はため息を付いて、素直に頷いた。
「そうなんです。だから、Tシャツとジーンズに着替えて来たらどうかって…」
「君に見てもらいたくて着てきた服なのにか?着替えて来いなんて言われたらショックだろう?」
賢の言葉に、祐樹はショックを受けた。
その通りだ。いったい自分はなぜ気づかなかったのだろう…
「行くか?君、このまま帰るつもりはないだろ?」
「はい」
車は家の近所をぐるぐる回っていただけだったらしく、ものの五分ほどで鈴川の家に着いた。
「1時間くらいで戻る。その間に、しっかり誤解を解けよ。あ、それとインスタントじゃないコーヒー入れといてくれ。ケーキか何か、あいつの好きな甘いものでも買ってこよう」
祐樹を降ろし、賢はそれだけいうと、車で走り去って行った。
賢の配慮はありがたいものだったが、鈴川の玄関に立ち竦んだ祐樹は、なかなか呼び鈴を鳴らせなかった。
出来れば賢に間に入ってもらいたかったが…
祐樹はためらった挙句、玄関に背を向けた。
だが、賢のコーヒーをという言葉を思い出して、足を踏み出すことはできなくなった。
祐樹はぐっと唇を噛んだ。
どうやら、賢という人物は、かなり頭が回るらしい。
祐樹が尻尾を巻いて逃げ帰ることをあらかじめ見越して、コーヒーを入れておいてくれとの言葉を付け足したのではないだろうかと思えた。
結局、祐樹の指がインターホンを押すことはなかった。
ためらいがちにゆっくりと、玄関の扉が開いたのだ。
姿を見せた沙由琉は、下唇を噛み締め、ひどく顔を強張らせていた。
「あの…」
祐樹は言葉を飲み込んだ。悔いのせいで胸が痛かった。
彼女は飾り気のない服に着替えていた。
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