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その6 揺れる男心
「あの、君の兄さんに家の前で逢ったんだ」
祐樹の言葉に、沙由琉は目をぱちくりさせた。
「えっ、太一郎兄様が?兄様は両親と温泉に行ったはずで…」
「賢さんの方」
「賢兄様?…どこに?」
沙由琉は新城の後方に視線を走らせた。
賢は車で二時間ほどの大学に通っている。
週末はバイトをしている忙しい兄が家に帰るのは、かなり稀なことだ。
「コーヒー…インスタントじゃないやつ…入れといてくれって…1時間くらいしたらケーキ買って帰るそうだ。…あの、お邪魔してもいいかい?」
「あ、ごめんなさい。どうぞ」
沙由琉は、新城に場所を開けるため、さっと横によけた。
靴を脱いだ新城が家にあがり、彼女の横に並んで立ったが、沙由琉は突っ立っているばかりだった。
母親は、彼女の部屋に通すように言っていたが、一時間後に兄が戻るならば居間にいるのがいいかもしれない。
「えっと、あの。それじゃ、こっちに…」
新城は居間に向かう沙由琉に黙ったまま付いてきた。
すぐ後ろについてくる新城の上背、身体の輪郭は、彼女に奇妙な圧迫感を与えた。
空気が満足に吸えず、息が詰まりそうだった。
新城に座るように勧めた彼女は、キッチンに行き、コーヒーを入れようと思ったが、まだ早いと思いなおして、彼のところに戻り、真向かいの椅子に座り込んだ。
「あの」「あの」
ふたりは声を合わせ、ふたりして黙り込んだ。
沈黙は固く、なんともいたたまれない時が過ぎた。
「さっきのこと…謝る」
新城は深く頭をさげてきた。
「何を…?」
「服のこと…」
沙由琉は頬が熱くなった。
赤くなったに違いない顔を見られるのが嫌で、彼女は俯いた。
「…似合ってたよ」
ぎこちない口調で新城は言った。
その短い言葉を口にするのに、彼はかなりてこずったようだった。
「わけ…わかんない…」
涙が滲んで、目の前が霞んだ。
「僕も…だ」
沙由琉は顔を上げ、ため息とともにそう言った新城を見つめた。
「君が女の子らしい服を着てると…冷静でなくなるんだ。…僕は」
彼は俯いたまま呟くように言った。
「いまみたいな服を着てると…ほっと…」
顔を上げた新城と目が合った。沙由琉の頬に涙が一滴伝ったところだった。
彼の言葉は途中で止まった。
「つまり、好きなの、嫌いなの、どっち?」
「だから、つまり…」
部屋はまだ暖まり切っておらず、どちらかというと小寒いのだが、新城はポケットに手を突っ込んでハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
新城は胸の内で、激しく葛藤しているようだった。
「つまり?」
「…そろそろコーヒー入れた方がいいんじゃないか。君の兄さん、早めに戻ってくるかも知れないし」
沙由琉にとって、とても大切な問いから逃げた新城に対して、彼女のこめかみがピキンとはじけた。
彼女は新城の鼻先に拳を突き出し、寸止めした。
けれど、彼は沙由琉のこの行為に慣れたのか、これまでのようにぎょっとしたりはしなかった。それでも彼女の言いたい事を充分に受け止めたようで、口元を曲げて彼女を見上げてきた。
「はっきり聞かせて」
「君が好きだ」
ぽつんと新城が言った。沙由琉は自分の耳を疑った。
「君が女の子らしい服を着てると、心中穏やかでいられない。さっきの男に微笑みかけてるのを見たときは、ひどく憤りが湧いた」
すべてを観念したような新城の目は、どこか宙を見据えていた。
沙由琉は彼の言葉が空気に溶けてしまう前に、なんとか捉えようとした。
「僕は、そんな自分を直視したくない。自分に苛立つんだ。だから、君が今みたいな服装でいてくれた方が…いいんだ」
沙由琉はこくりと頷き、落ち着いて座っていられずに立ち上がった。
そしてそのままキッチンに行き、三人分のコーヒーを入れた。
胸が、嬉しさなのかなんなのかはっきりしない熱いもので、はちきれそうだった。
新城は彼女のことを好きでいてくれたということなのだ。ちゃんと女の子として…
「沙由琉」
「な、何?」
ゆるみがちの顔を引き締めて、沙由琉は新城に向き直った。
「あの…僕はだな…」
新城はそう言いながら立ち上がり、迷いを見せてから彼女のところへ近付いてきた。
「ああいう服を全面的に否定したわけじゃ…だからその…着るといい、君が着たいときには…」
彼女は笑って首を振った。
「別にいいの。母様が着て行きなさいって、強く言うものだから、わたしも着ていただけ。このほうが着心地良いし、落ち着くし、色々気にしないでいいから」
「…だけど、たまにはいいんじゃないか。せっかく持ってるんだしな」
懸命に説得する口調になった新城に、沙由琉は眉をひそめた。
男心というものは、まったく理解出来ない代物だ。
「新城君が、そんなに言うのなら…でも、不機嫌にならない?」
「ならないようにする」
眉をしかめてそう強い決意を込めて言った新城に、沙由琉はたまらず吹き出した。
彼は一歩前に踏み出し、沙由琉にぐっと近付くと、驚いている彼女の手を取って握り締めた。
彼の手のぬくもりと間近すぎる新城の身体を意識して、彼女の鼓動は暴走し頬が燃えた。
新城の眼差しに捉えられ、沙由琉は瞬きすらできなくなった。
「沙由琉」
呼びかけとともに、新城のもう片方の手が彼女の肩に触れ、それとともに彼の顔がゆっくりとかすかに傾きながら近付いてきた。
初めそっと触れた合った唇の感覚は、沙由琉の頭の芯をジーンと痺れさせた。
一度目のキスとは、なぜかまったく違う。
あの時は、ただ必死で…
だけれど、いまの唇のふれあいは、沙由琉の意識をどこか別次元に飛ばしてしまいそうなほど、通常の感覚を遥に超えていた。
瞼を閉じて新城の与える甘い感覚に翻弄され、考えることもままならなかった彼女の耳に、几帳面な呼び鈴の音が飛び込んできた。
沙由琉はハッとして目を見開いた。
視界には新城の瞳しかなかった。
沙由琉の瞳を見つめたまま、ひどくゆっくりと彼の唇が離れていった。
「賢さんが戻ったんだな」
沙由琉の髪を、名残り惜しそうに下へと撫で降ろしながら新城が言った。
彼は突然、彼女をぎゅっと抱きしめ、パッと離した。
その夜、沙由琉はなかなか寝付けなかった。
ケーキの箱を提げた賢が戻ってからは、コーヒーとケーキを食べながらの和やかな語らいを三人は楽しんだ。
とはいえ、キスのせいで、しばらくおかしな空気が漂っていたが…
新城は、彼女が叩いたためにまだ赤くなっていたほっぺたを、賢におおっぴらに指摘され、いくぶん気まずそうに笑った。
賢と新城は馬が合うらしく、ふたりは沙由琉が混ざれない種類の話題でひどく盛り上がっていた。
新城への恋心は、沙由琉の心に負荷を負わせるけれど、彼女と同じほど、新城だって負荷を感じているのだといまは確信出来た。
彼女はそのことを心の底に落とし、微笑みを浮かべて自分の唇にそっと触れた。
End
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