シンデレラになれなくて


その10 儚く消えた夢



パーティー会場に戻った愛美は、すぐに百代に声を掛けられた。

「愛美ってば、いったいどこにいたの?」

今しがたの突発事故な出来事は、いまだ愛美の中で処理出来ずにいた。

何をどう言って良いのか混乱し、何も言えないでいる愛美の手を、百代はひっぱりながら会場の出口へと連れてゆく。

それまで気づかなかったが、会場のほぼ中央にはグランドピアノが置かれ、前もって蘭子から話しに聞いていたように、橙子がピアノの優雅な旋律を奏でていた。

ダンスの曲を弾いていた小さな楽団も、その演奏を引き立てるように音をあわせている。

その演奏は、会場中の注目を集めているようだった。

ピアノの好きないつもの愛美なら、うっとりと聞き惚れるところだが…

「もう帰る約束の時間なのに、愛美が見つからないから、どうしようと思ってたのよ」

「帰る…?いま、何時?」

「もうすぐ八時だよ。ここの玄関前に、蘭子が車を待たせてくれてるの。それに乗って帰ってって…」

八時…!

それでは、彼女は先ほどの男性と、一時間以上も一緒にいた計算になる。
だが、とてもそんなに長く一緒にいたとは、信じがたかった。

「蘭子は、まだ、ここにいなくちゃならないんだって…なんかこれから…良くわかんないけどあるみたいで…」

大きな拍手が沸き起こり、百代が足を止めた。
ピアノの演奏が終わったのだ。

弾いていた橙子が、自分を囲っている客に向けて、洗練された身のこなしで、優雅に膝を折って挨拶をしている。

淑女というのは、彼女のようなひとをいうのだろう。

「お姉さん、素敵過ぎだね。やっぱり、蘭子に似てるわね」

そう言われても、視界が充分でない今の愛美には、今の橙子を確めようもない。

進行役を勤めている男性が、マイクを持って橙子から少し離れた場所に立ち、褒めの言葉と、ねぎらいの言葉を続けて述べた。

そこに少々こぶとりの婦人が、人波から抜け出して橙子に近付いていった。
進行役のひとの対応からすると、藤堂家の親戚らしく思われた。

「まあまあ、素晴らしい演奏だったわ。橙子さん」

マイクの必要もなく、その婦人の声は会場内に響き渡った。

橙子は返事を返したようだが、こちらは淑女らしいものやわらかな声で、出口付近にいる愛美のところまでは聞こえてこなかった。

「不破家とのご縁談も、もう、まとまる直前とお聞きしていましてよ」

途端に、会場内が騒音のようにざわめいた。

「やはりあの噂、本当でしたのね」

愛美のすぐ近くにいた、小さな集団のひとりが愉快そうに言った。

「ええ。そのようだわ。不破家のご長男優誠様と、藤堂家のご長女の橙子様がご結婚となれば、ますます藤堂家は安泰ですわね」

「快く思わない者もいるでしょうけど…」

その会話は、潜めたくすくす笑いに転じた。

愛美は、百代に何も言わず、ふらふらと出口から外に出た。

不破優誠…
王子様は、彼女に同じ名前で名乗らなかっただろうか?

『私の名は、不破優誠です』

『ゆうせい?』

どんな漢字を当てるのか見当がつかず、愛美は尋ねたのだ。彼は答えた。

『ええ、優しいに、誠と書くんです』…と。


車の後部座席で、愛美は無意識に指を動かして、アップにされた髪を梳き、いつもの三つ編みに結っていた。

そんな愛美の前に、百代が眼鏡を差し出してきた。

「これ、預かってたの。どうしても必要になったら、渡しなさいって、蘭子が…」

愛美は受け取った眼鏡をしばらくじっとみつめた。

「どうしたの、愛美?あそこで何かあった?」

「どうして?」

「だって…涙、零してるから…」

そう百代に指摘されて頬に触れ、愛美は自分が泣いていることに気づいた。

彼女は慌てて眼鏡を掛けた。
視界は爽やかに晴れたが、愛美の胸は混乱し、激しく渦巻き続けた。

舞踏会は終わったのだ…
あらゆる魔法も解けた…

胸にあるのは後悔なのか、王子に対する思慕なのか、愛美には分からなかった。

けれど、ひとつだけ確かなことがあった。

あの夢の中には、二度と戻れない…

夢は泡と消えたのだ…




   
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