シンデレラになれなくて


その14 木漏れ日のベンチで



「わざとやったのよ。ふたりだって見てたでしょ?」

蘭子は、濡れた服を腹立ち紛れに脱ぎ捨てた。
愛美は、蘭子の脱ぎ捨てた服を拾ってたたみ、ビニール袋に押し込んだ。

確かにわざとだった。

「もういいじゃん。蘭ちゃんだって櫻井の性格知っててやったんだもん。こういうことになるって予想できたはずだよ」

マスターが持ってきてくれた着替えの服を、蘭子に手渡しながら百代が言った。

「できやしないわよ。ひとの頭に冷水ぶっかけるなんて、どこのどいつがやるのよ」

「櫻井」

「百代、あんたどっちの味方よ!」

淡々とした百代の言葉に、蘭子がカッとして怒鳴りつけた。

「だからさぁ。いつものことじゃん。はい」

同じくマスターが貸してくれたジーンズを、百代が差し出すと、蘭子は腹立ち紛れにそれをひったくった。

「ふたり、やってはやりかえす。それが現実になっただけだもん」

「お話にならないわ!」

怒りで顔を真っ赤にした蘭子は、ドンと音がするほど、床を両足で踏み鳴らした。

「ところで、どうするの?これから」

愛美は蘭子の怒りをこれ以上煽らないように、そっと尋ねた。

蘭子は怒った顔を愛美に向けたが、自分のいまの服をあらためて眺め回し、鼻の頭に皺を寄せて唇を引き締めた。

「仕方がないわ。今日のところは、デートは取りやめよ。帰るわ」

蘭子は携帯を取り出すと、電話を掛けた。

「車、よこして頂戴。場所は…なんですって?」

蘭子の顔が叫びとともに険悪になった。
何か思うようにならないことが起きたようだ。

「それならもういいわ!」

携帯に怒鳴りつけた蘭子は、音荒く閉じ、携帯を投げつけようとして手を振り上げた。
愛美は驚いて、蘭子の腕を掴んだ。

「ら、蘭ちゃん、どうしたの?」

「車、いま来れないって…わたしたちを駅まで送ってきて、そのまま点検に出しに行ったらしいわ」

蘭子はいまいましげに言った。
腰に手を当てた百代が、考え込んでから口を開いた。

「店で待ってる男性陣、みんな車で来てるんじゃないかな。乗せて…」

「俺が送ってってやるよ。詫び代わりにな」

三人はその声に同時に振り返った。

ドアのところに櫻井が立っていた。
いつやってきたのか、ドアは開け放たれ、そこに寄りかかっている。

「女性が着替えている部屋に、ノックもせずに…なんて無礼なやつなの!」

蘭子が毒を持って睨み据えたが、櫻井は痛くも痒くもなさそうだった。

「着替え終えてるじゃないか」

櫻井はクールな笑みを見せ、蘭子の全身をゆっくりと愉快そうに眺め回した。

男物の大きなTシャツに、裾を曲げたジーンズ姿の蘭子…
こんな服装の蘭子を見たのは初めてだが、それほど違和感はなかった。

「良く似合ってるじゃないか?」

その言葉には、楽しげで、あざけりは含まれていなかった。

「余計なお世話よ」

「蘭ちゃん、送ってもらいなよ。せっかく送るって言ってくれてるんだし、わたしたちも一緒に乗せてもらって…」

百代の言葉を櫻井が止めた。

「悪いけど、俺の車、スポーツカータイプで二人しか乗れない」

「櫻井君、あなた運転出来るの?」愛美はいまさら驚いて尋ねた。

「できるさ。夏休みに免許取った」

「それじゃあ。わたしたち…、彼らの誰かが車を近くに置いてるなら、蘭子の家まで送ってもらうわ」

「私は川田さんに送ってもらうわよ。彼氏なんだもの、それが当然でしょ?」

「そう。それじゃあ、彼に車があるか聞いてくるわ」

そう言うと、百代はさっそく部屋を出てゆこうとした。

「お前、その格好のまま、あの男の前に出ていけるのか?」櫻井が言った。

蘭子は、ぐっと詰った。
彼女の高すぎるプライドが、ギシギシ音を立てたようだった。

「百代!もういいわ」

ドアのところまで出ていた百代が、振り返った。

「櫻井に送ってもらうわ。こうなったのも、こいつが原因なんだから…」

櫻井は肩を竦めると、手を大きく振り上げ、大袈裟なお辞儀をしてみせた。

「仰せのままに、お嬢様」

「そのむかつく態度、やめてよ!」

「それじゃ俺、まだバイトもあるんで…はやいとこすませようぜ」

櫻井はツカツカと前に進み出てくると、蘭子の手首を掴んで、いささか強く引っ張った。

「行くぞ、藤堂」

「放してよっ!」

やかましい会話をしながら、ふたりは出て行った。
それまで、傍観しているしかなかった愛美は、静かになった途端、我に返り、百代に振り向いた。

「よ、よかったのかな?百ちゃん」

「いいのいいの。蘭子のこと、櫻井が引き受けてくれて、助かったわ。ほら、彼らを待たせたままだし、戻りましょう」





それから数分後、愛美は保志宮の車の助手席に納まっていた。

百代は、百代のお相手の車で送ってもらうことになり、蘭子の相手は気落ちして帰って行った。

できるなら、百代と同じ車が良かったのだが…

「保志宮さん、貴方に送っていただくことになってしまって、すみません」

「もともと、私は貴方をご自宅まで送るつもりでいたんですから」

「あの…」

「なんですか?」

運転している保志宮は、愛美に少しだけ視線を向けた。

「気にしないでください。わたしは気にしないので」

「気にしないでとは、何をですか?」

「わたしと付き合う必要など、ないってことです」

保志宮はしばらく黙り込んだ。

「私では、駄目ということですか?」

「え?」

「貴方の方に、私を好きだという気持ちがないのは分かります。ですが、そう簡単に答えを出さずに、しばらくお付き合い願えませんか?」

愛美は保志宮の口にしたことを頭の中で整理し、意味を理解して唖然とした。

「本気でおっしゃってるんですか?」

動転した愛美は、とんでもなく声がうわずった。

「本気ですよ」

「…その、わたしなんですよ。相手は…」

愛美は良く見てくださいといわんぱかりに、保志宮に身体を向けて、胸のところを手のひらで二度叩いた。

「貴方は、どうやら、ご自分を過小評価されているようだ」

愛美は事態についてゆけず、大きなため息をついた。
なんだか、ひどい脱力感を感じ、彼女の肩はがっくりと落ちた。

「貴方が…よくわかりません」

「ならば、知るために付き合いましょう。しばらくでも…」

保志宮の申し出に、愛美はどうしていいかわからなくなった。
彼が愛美を女性として気に入ったとはどうしても思えない。

「早瀬さん、少し寄り道してもよろしいですか?ほんの十分ほどで済むと思うので…」

早瀬と呼ばれて、愛美はドギマギした。
そう言えば、彼女は早瀬まなということになっているのだった。

その時になってハッと気づいた。
蘭子は彼女を、愛美と呼ばなかっただろうか?

記憶をさらった愛美は、胸の中で唸りを発した。

「早瀬さん?」

「は、はい」

保志宮と視線を合わせた愛美は、思わずあからさまに顔をそむけた。

「あ、…か、構いません」

「それでは、お言葉に甘えて」

心臓がやたらドキドキした。
ささいな嘘が…それがバレているという気まずさに、愛美の胸の中で巨大化してゆく。

車はしばらく走った後、左に曲がり、すぐに駐車場に停まった。

「そこに公園のベンチがありますよ。木陰になっているし、車の中より過ごしやすいはずです」

小さな公園だけれど、たしかに、心地の良さそうな場所だった。

「はい。それじゃあ、そこで待ってます」

愛美は保志宮としばらく距離を置けるありがたさに、車から降り立つと、歩道を歩いて公園の中に入った。

「用事を終えたら迎えに来ます」

保志宮の声が背後から飛んできた。

「は、はいっ」

愛美は振り向き様固い返事をし、すでに後姿の保志宮の背中を見送った。

葉の茂る大きな木の下に木目のベンチはあり、ベンチの上も、地面のあちこちにも、木漏れ日が光の点をばら撒いていた。

ベンチは、背後が住宅地だからだろう、道路側に向けて置いてあり、たまに通り過ぎる車があるものの、静かな場所だった。

ひとりきりになった愛美は、ほっとしてベンチにぐったりと座り込んだ。
いまさら今日の出来事を思い返し、引きつった笑いが込み上げてくる。

まったく、とんでもない時を過ごしたものだ。
初対面のひとと会い、そのままデートだなんて…

蘭子と櫻井の対決も、いまになると笑いの種でしかない。
そのおかげで、トリプルテートは途中で中止ということになってくれたし…

それにしても、保志宮というひとは、本気で愛美と付き合おうというのだろうか?

彼女の名前が偽名だと気づいたはずなのに、それに触れても来ない。
愛美の名前など、彼に取って、問題になるほどたいしたものではないということなのか?

もしかすると、お金持ちのようだから、愛美を相手に、ちょっとした気晴らしをしようというのかもしれない。

そう結論を出してみた愛美だが、保志宮はそんな気晴らしをするような人ではなく思える。
名前のことも、いずれ尋ねてくるに違いない。

いったい、この先、どうしたらいいのだろう…

一心に考え込んで深い吐息をついた愛美は、目の前の道路に、黒っぽい大きな車が停まったのに気づいて顔を上げた。

車のことなど何も知らない愛美にも、外車だとひと目でわかる。
物珍しさに見つめていると、後部座席のドアが開き、男の人が降り立った。

黒っぽいスーツ姿に、サングラスを掛けたその男性は、まっすぐに愛美を見つめてきた。
愛美は、どきりとして身体を硬くした。

男性は、当然のように彼女の方へ足を踏み出してきた。

優雅な歩みで近付いて来る、この普通でない存在感を発している男性は、何もかもが特別なひとだった。





   
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