シンデレラになれなくて


その15 突然の再会



「やっと…お逢いできた…」

とても低いソフトな声には、深い感情がこもっていた。

愛美は目を見張った。…聞き覚えがある…

「あ…の…?」

「わけを話したいんです」

わけ?

その言葉を口にしたつもりだったが、頭に浮かべただけで声にはならなかったようだと、愛美は遅れて気づいた。

「少し時間をいただけませんか?」

「わ、わけ?」

「ええ。ですが、ここでは…」

相手が手を差し出してきた。愛美は驚きに身を引いた。

「わ、わたし…いま、ひとを待ってて…」

「…すぐに終わります。あれには理由があるんです。とにかく、それを説明して、貴方にわかっていただきたい」

彼の声はとても真剣で、緊張に固く強張っているように聞こえた。
けれど、サングラスを掛けているせいもあり、彼の表情がはっきりせず、愛美は警戒心を強めた。

「あ、あの、貴方は、どなたなんですか?」

愛美の問いに、相手が瞬間固まったのが分かった。

「私が…わからない?」

愕然としたような声だった。
愛美はなぜか、自分が手痛い失敗をしたような気分に陥った。

「す、すみません」

男性は口元を引き締め、愛美の表情を見つめて何事か考えている様子だったが、やっと口を開いた。

「不破です」

「え?不、破?」

愛美はぎょっとして、頭に手のひらを当てた。
頭の中にとりついているもやもやが動いたのだ。
まるで意志を持った生き物のように…

そして、その生き物と対立するように、不破という言葉が頭の中に響いている。
愛美は目を見開いて頭の片側を掴んだ。

「どうしました?」

「いえ…頭が…」

愛美は混乱して顔を俯けた。

「痛むんですか?」

心配を含んだやさしい声に、愛美は無言で首を横に振った。
彼の手のひらが、気遣うように愛美の肩に置かれたとき、ひとつの記憶が鮮明に蘇った。

不破…
パーティーの会場に行く途中、愛美がよろけてぶつかった人だ…
そう、彼の声の響きすら…覚えている。おかしなほど、はっきりと…

夢の中に現れて、愛美にキスをしたひとの声も…同じだった…
だが、あれは彼ではないはずだ。

だって…彼の瞳は…

愛美は困惑した表情で、ゆっくりと顔を上げた。
不破が愛美の顔を覗き込んできた。

「大丈夫ですか?」

愛美は彼の顔をじっと見つめたまま頷き、サングラス越しに、目を凝らして不破の瞳を覗き込んだ。

その彼女の仕草に、悟ったように、彼がサングラスに手を掛けた。

「すみません。すぐに取るべきでした」

目の覆いがゆっくりと外され、愛美は言葉を失くした。

心をすべて引き込まれてしまいそうな…青い瞳…

夢のひと…

そう思った途端、頭の中のもやもやが、ぐるぐるっと最後の足掻きのようにうごめき、あっけないほどパッと消えた。

まず、一輪の白薔薇が頭に浮かんだ。
喉の熱の感覚…頬のほてり…寄りかかった頼りがいのある腕…

その時、微かな振動音が聞こえてきた。不破の胸の辺りからだ。

「申し訳ありません」

顔をしかめた不破は、断りのように呟くと、背広のポケットに手を入れて携帯を取り出した。

そして、まだ振動音を発している電話を操作すると、出ることもせず即座に黙らせた。

「時間があまりないんです。どうしても行かなければならないところが…」

不破は話しの途中で苦い笑みを浮かべると、言葉を止めた。

「私を覚えていない貴方に、こんなことを言っても…」

愛美はもどかしさに首を左右に振った。
彼を思い出したことを伝えようとするのに、どうしてなのか、言葉が声にならないのだ。

「優…誠…」

愛美は、やっとのことでそれだけ声にしたが、ほとんど聞き取れそうもない音だった。
不破が、愛美の唇に視線を当てた。

「いま…なんて?」

また振動音がした。不破はひどく顔しかめた。
その音も、黙らせると、彼は愛美に向いた。

人の目を釘付けにしそうなほど端整な彼の顔には、いまや強い焦りが浮かんでいた。

「私たちは一週間前、パーティーで逢ったのです。貴方の名前も存じています。私は、怪しい者ではない。信じていただけますか?」

早口にそう言った不破に、愛美は頷くことで答えた。
けれど、そんな頷きだけでは、彼の心は満足できなかったようだった。

「もう行かなければなりません。連絡を取れるように、貴方の携帯電話の番号を教えていただけませんか?」

必死さを感じさせる真剣な口調だった。
愛美は大きく息を吸った。

「も…」

一言そう言えたことで、彼女は安堵した。

「持っていないんです」

彼女の言葉に、不破は怪訝な顔をした。
それはそうだろう。携帯を持っていない者は、稀な世の中だ。

「携帯電話を?」

「すみません」

愛美の謝罪の言葉を聞いて、不破の顔から、微かな疑いの色が消えた。

また振動音が響き、無意識にそれを黙らせた彼は、困った様子で黙りこくった。

「若様」

遠慮がちな声が聞こえ、不破が車の方へ振り返った。

声を掛けて来たのは、彼が乗ってきた車の運転手のようだった。
申し訳なさそうな、けれど催促するような顔で不破を見つめている。

「わかってる。すぐに行く」

不破はポケットを探り、何かを取り出した。
彼はそれを愛美に差し出してきた。携帯電話だった。

先ほどから振動音を発している携帯電話とは別のものだ。
携帯を開いていくつか操作をした不破が、それを彼女に手渡そうとし、愛美は驚いた。

「私のプライベートのものです。これを持っていてくださいませんか。時間を作れたらすぐに連絡します」

「で、でも…そんな…」

「繋がりを切りたくないんです。お願いです。受け取ってください。次にお会いしたときに返していただければいい」

「でも、貴方の手元にないと、困るでしょう?」

「貴方と連絡を取れなくなるより困ることは、今の私にはありません」

その言葉が本気だということは、彼の眼差しの強さで分かる。
愛美は彼の瞳の中に取り込まれそうになって、慌てて瞬きした。

「でも…」

困惑したままの愛美の手のひらに携帯を残し、彼の手が離れた。
愛美の意図しないところで、彼女は彼の手を追いたくなり、もっと困惑が増した。

頭の中がぐしゃぐしゃだった。
いまのこの現実について、考える余裕など、愛美のどこにもなかった。

「私の名が表示されたときだけ、出てください。それ以外のものは、放っておいてくださればいい」

不破はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がり、名残おしそうに愛美を見つめてから踵を返した。

彼の背中を見つめている愛美の胸に、虚しさが広がった。
まるでそれを感じたかのように、数歩歩いた彼が、また愛美に向いた。

「私の名は…」

「優誠」

愛美の口から、自然に零れた自分の名を耳にして、不破は目を見張り、それから濃い安堵の色を浮かべた。

彼は一歩、愛美の方へと踏み出したが、微かな振動音、そして運転手が背後から呼ぶ声に顔をしかめ、足を止めた。

「必ず」

彼は愛美の心に焼き付けるように、そうはっきりと口にすると、後ろに向いて駆け出し、すぐに車に乗り込んだ。

ドアが閉まるのももどかしいように、車は勢い良く走り去って行った。





   
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