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その17 シャットアウト
「私は、まだ諦めませんよ」
藤堂の屋敷に向けて、ふたり並んで歩き出したところで、保志宮は言った。
その言葉を耳にして愛美が顔をあげた瞬間、よく知った声が保志宮に呼びかけてきた。
蘭子の姉、橙子だった。
「橙子さん。蘭子さんは、どうしていらっしゃいます?」
保志宮が、こちらに向けて歩いてくる橙子に聞いた。
「蘭?彼女はまだ…あらっ、ま…」
橙子は愛美に呼びかけようとして口ごもった。
「まなさんは、蘭と一緒に…どうして、保志宮さんとご一緒なの?」
橙子の問いの視線は、愛美の手に抱えられた、なにより目立つ小さな花束へと移動した。
愛美は恥ずかしさが湧き、後ろ手に隠したくなった。が、いまさらだし保志宮の手前もある。
「蘭子さんは、まだ帰っておられないんですか?」
愛美を見つめていた橙子が、保志宮の方へ向いて頷いた。
彼を見る橙子の顔には、なぜか微かな翳りがあるように思えた。
「あの、百ちゃんは?彼女もここに来たはずなんですけど…」
「いいえ。いらっしゃってないと思うけど…」
橙子は、愛美とふたりだけで会話したいようだった。
だが、礼儀をわきまえている橙子は、強引に保志宮から離れて、愛美と話すということは、できないようだった。
もどかしさを浮かべている橙子に、愛美はわけを話すことにした。
「喫茶店で、蘭ちゃんに水が掛かってしまって…服がぐっしょり濡れて…それで帰ることになったんです」
「そうなの。なら、蘭子は川田さんが送って来て下さるのね」
「いえ。それが…櫻井君っていう…彼、同級生なんですけど」
「櫻井?彼がどうして?あ、ああ…なんとなく分かったわ」
蘭子は橙子に隠し事をしていないようだった。
櫻井とのバトルも、橙子は聞いているのかもしれない。
いまは保志宮の方が、意味が分からず眉を潜めている。
「蘭ちゃん、大丈夫でしょうか?探しに行った方が…」
「蘭は、どこにいっても大丈夫よ。心配なさらないで。蘭にはおふたりが来てくださったことを告げておきますわ」
そう話しているところに、当の蘭子を乗せた櫻井の車が、かなりのスピードで屋敷の庭に走りこみ、三人のすぐ脇に急ブレーキの音を響かせて停まった。
「なんてひとなの。屋敷の中なのよ、少しスピードゆるめなさいよ!」
別れる前に目にしたTシャツとジーンズという出で立ちで、蘭子はぷりぷりしながら車のドアを開け、思い知らせるように物凄い力でドアを閉めた。
「おい、こいつは俺の宝なんだぞ!」
櫻井が本気の怒りを込めて、蘭子に怒鳴った。
「たいした宝だこと。どうせ親に買って貰ったもののくせに」
運転席に座ったまま、櫻井は蘭子を睨み付けてきた。
「俺はお前とは違う。バイトで稼いで買ったんだ」
「なっ…」
櫻井の冷たい目に、蘭子が口ごもっているうちに、彼は車をUターンさせ、何も言わずに走り去って行った。
「なによ…」
蘭子はひどく小さな声で叫ぶと、ぐっと唇を噛み締め、上背を伸ばした。
「ただいま、姉様」
「お帰りなさい。蘭」
いまの出来事などなかったような、落ち着き払った姉妹の挨拶に、愛美は脱帽した。
「今日はお出かけのご予定でしょう?どうしてここにいらっしゃるの?」蘭子が姉に尋ねた。
「ご都合が悪くなったと連絡が来て…」
そう語る橙子の頬は、少し朱に染まった。
「また?」
「仕方がないわ。お忙しい方だもの」
「だって、約束を反故にしていいわけがないわ。それも姉様との」
誰に対して怒っているのか、蘭子の目が三角に釣りあがっている。
彼女はバッグに手を突っ込むと、携帯を取り出し、すばやく指を動かした。
「蘭?何をするつもり…」
「文句を言ってやるのよ」
蘭子は怒りを体現するかのように足を開き、左手を腰にあて、携帯を耳に押し付けた。
愛美の小さなバッグから振動音が響いた。
音は小さいが、バッグを抱えてる愛美には、はっきりと細かな震えが伝わってくる。
彼女は他になすすべもなく、バッグをぎゅっと抱え込んだ。
「優兄様ってば、出ないわ」
蘭子がいまいましげに携帯を切った途端、愛美のバッグの振動が止んだ。
彼女の背筋に冷たいものが伝った。
蘭子はもう一度掛けようとしたが、橙子に止められしぶしぶそれに従った。
愛美は目を閉じてほーっと息を吐いた。
だが、パーティーの時、最後に耳にした会話が、いま愛美の胸に大きくのしかかってきていた。
不破優誠と、橙子の縁談の話。
まとまるのも時間の問題と言っていた…
そして、今日、橙子は、あのひとと…出掛ける約束をしていたのだ。
息が詰った。
いまの自分が、こんなとんでもない事態の当事者となり、こんな感情を抱いていることが信じられない。
いますぐにでも、一人になる必要があった。
心にあるすべてを整理してしまわないと、自分が何者かすら分からなくなってしまいそうだ。
「わたし、もう帰ります」
一歩後ずさり、後ろに向いて走り去ろうとした愛美は、保志宮に手首を掴まれた。
「早瀬さん、私がお送りします」
保志宮の腕を振り切れそうになくて、愛美は絶望感が湧いた。
「愛美は私が送るわ。彼女に話があるの」
保志宮が不服げな顔を、愛美、そして蘭子に向けた。
「では、私はここでお払い箱ですか?」
「また近いうちに、デートを企画しますわ」
「またトリプルですか?」
保志宮の顔には笑みがあり、たぶんわざとなのだろうが、ひどくあてつけがましく責めるような言い方だった。
「当然です」
苦笑いを浮かべている保志宮と橙子に背を向けた蘭子は、愛美の手を取って歩き出そうとする。
愛美は慌てて保志宮に向き直った。
「あの、お花などいただいたことがなくて、嬉しかったです。保志宮さん、ありがとうございました」
愛美は深く頭を下げると、蘭子に従って小走りにその場を後にした。
蘭子に送ってもらえることになって安堵していた愛美だが、まだ携帯を手にしていた蘭子が、歩きながら操作しているのに気づいて血の気が引いた。
「蘭ちゃん、やめて」
恐怖に駆られた愛美は、蘭子の携帯を、思わず取り上げようとした。
「ま、愛美、いったいどうしたのよ。運転手を呼ばないと帰れないのよ」
愛美は一瞬固まり、額に手を当てて息を吐いた。
「ごめんなさい」
「変な子ね」
愛美の寿命は、派手に縮んだに違いなかった。
「それで?どうだったの。ヘマはしなかったでしょうね?」
藤堂の家を出られ、そのことだけにはほっとした愛美に、蘭子が尋ねてきた。
これまで、家に帰れることが、これほど嬉しかったことはない。
「ヘマをしたのはわたしじゃなくて、蘭ちゃんだもの」
愛美は、彼女らしくなくとげとげしく蘭子に言った。
蘭子は、このとんでもない事態へと愛美を追い込んだすべての原因だ。
「私?どんなヘマをしたというのよ。水をかぶったのは、私のヘマじゃないわよ」
「わたしのこと、愛美って呼んだでしょ?」
「え?…あ、あら、そうだったかしら」蘭子の目が泳いだ。
「そうだったの。保志宮さんに指摘されたわ」
「まあ、いいじゃない。彼は信用の置ける人だもの」
あっという間に立ち直ったらしい蘭子が、押さえつけるように言った。
「気まずかったわ」
愛美の本当に気まずげな言葉に、蘭子はほんの少し眉をあげてみせただけだ。
彼女は疲れを感じた。
「それで、あんたのことだから、自分は高校生で早瀬川愛美ですって、何もかも、正直に告っちゃったわけ?」
「それは言ってない」
「あら、あんたにしちゃあ、上出来じゃないの。それで、今度はふたりきりで会おうとか、電話番号教えてくれとか、保志宮さん言ったの?」
蘭子はそう問いつつ、意味深に愛美の持つ花束を見つめている。
「そんなこと言わなかったわ」
蘭子が意外そうに眉を上げた。
「ふーん。なんだ。まあ、その方がいいのだけど。それじゃあ、お次は静穂たち三馬鹿トリオをへこます番よ」
蘭子は肩を怒らせ、力を込めて、パチンと両手を打ち付けた。
すでに自分の勝利がみえてでもいるように、瞳が輝いている。
「もうやめましょう。私、もう嫌だわ」
「何言ってるの。静穂を調子付かせたままで終われないわよ。どんなことがあっても、付き合ってもらうわよ」
今日はもう疲れすぎていた。
鋼の壁のような蘭子の意志に向けて、これ以上、無力な反論をする気力は、もうどこにも残っていない。
蘭子はまだ何か喚いていたが、愛美はシートにぐったり寄りかかり、力を込めて瞼を閉じると、現実を強制的にシャットアウトした。
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