シンデレラになれなくて


その18 受け止めきれない記憶



家に帰りついた愛美は、すぐに着替えて化粧を落とした。
父の徳治は、昨日から山の家に行っている。窯に火を入れているのだ。

大学にも窯の設備はもちろんあるだろうが、長年使い慣れた窯はやはり違うのだろう。

愛美も一緒にと言われたが、今日のことがあったから、断るしかなかった。

本当はトリプルデートより、ひさしぶりに山の空気を胸いっぱい吸い込みたかったのだ。
近くの森を散策して、いまの時期咲いている野草の花を見たかった。

窯の側で動き回っているだろう父親を思って、強い郷愁が湧き上がった。
ひとりぼっちの部屋は、ひどく寂しい。

汗を流しながら窯の近くをうろうろしている方が彼女らしいし、心がほっとする。
父も、ひとりきりより、愛美が側にいたほうが楽しかったに違いない。

父についてゆかなかったことを、愛美はひどく悔やんた。

蘭子の命令など無視して…

そう考えた愛美の胸に、ため息が湧き上がった。

この思いは、今日を終えた後の今だからのものであって、昨日の愛美は、結局同じ選択をしているだろう。

不破優誠…彼との遭遇は愛美にとって、リアルな夢でしかない。
あれはどうしたって、現実のことではないのだ。

彼と出会ってキスをしたのは、魔法によって変身させられた、この世に実在しない早瀬まなだ。

あのひとの心に存在している女性は、愛美ではない…

それに、強力な魅力を発する男性に触れて、恋焦がれない女性はいないはずだ。
いまの愛美のように…

そう考える傍らから、触れた彼の感触、香り、そして低い声がまざまざと蘇り愛美の胸を切なく突く。
愛美を見つめる青く澄んだ瞳も…

愛美はすべてを振り払うように、激しく首を振った。

彼を思うことで、胸に湧く痛いほどの切なさも、これ以上会うことがなければ、いずれ薄れて消えるに違いない。


食欲はまるでなく、ほんの少し口に入れただけでひとりの夕食を終えると、愛美は風呂に入った。

湯船に使ってうとうとしていると、電話の音に起こされた。

愛美は急いで身体を拭き、バスタオルを巻いて電話に駆けつけ受話器を取り上げた。

「愛美」

呆れるほどそっけない父の声に愛美は微笑を浮かべた。
どんなに無骨でもそっけなくても、父の声は無条件に安らぎを与えてくれる。

「そっちはどう?」

「変わりない」

それは、とてもうまくいっているということだ。

「明日、来るだろ?迎えに行かなくてもいいか?昼まで手を放せそうにないんだ」

「明日?」

「ああ。手伝いをな。…友達と、約束でもあるのか?昼まででいいんだが…。午後には大学に戻らなければならないんだ。あっちの窯も火を入れてある」

「行くわ」

愛美は考えるより先にそう言っていた。
父が頼みごとをしてくることはあまりない。

「何時に行けばいい?」

「早いほどいいな」

「分かったわ。それじゃあ、9時くらいまでに行くわ」

「ああ。それじゃ、明日。駅まで迎えに…」

「迎えはなくていいわ。バスか…歩いてゆくのもいいから…」

「そうか。それじゃ、明日」

「はい。おやすみなさい」

「ああ。戸締りに気をつけてな」

「ん、分かってる」

受話器を置いた愛美の心は少し軽くなっていた。

明日は山の家に行くのだ。
あの新鮮な独特の空気を吸えば、胸の中のもやもやすべてを消し去れるかもしれない。

そう考えて浴室の方へ戻ろうとした愛美は、微かな振動音が聞こえるのに気づいてハッとした。

今日抱えていった小さなバッグの中から聞こえてくる。
愛美はバッグに近付き、小さな音を発しているバッグを凝視した。

彼女は立ち竦んだまま動けなかった。
音は数十秒続き、そして途絶えた。

胸が苦しくて、哀しくて、涙が零れた。
愛美はそのままバッグに背を向けると、浴室へと戻った。

彼女だって受け取ってしまった携帯電話を、このままにしておけないことは分かっている。
だが、いまは無理だ。

まだ少し湿り気のある髪を梳かしながら、鏡に映るぼんやりとした自分の顔を、愛美はじっと見つめた。

不破と保志宮、彼らの気持ちが理解出来ない。
彼らは、こんな愛美のどこが気に入ったというのだろう…

それともこれは、何かの間違いなのだろうか?

アルコールを飲んだあの時から、愛美はどこか夢の世界に飛び込んでしまったままなのではないだろうか?

もしかすると、アルコールのせいで意識不明陥り、どこかの病院のベッドの上で、生死の境をさまよっているのかも…。

その方が、よほど現実味を感じられる。

けれど夢は終わらず、愛美は考えることを止めた。

読みかけの本を手に取る気にもなれずに、愛美は居間の壁に背をつけて座り込み、携帯をどうすべきかを考えた。

蘭子からという案は、もちろん駄目だ。百代経由でというのももちろん無理。
保志宮は…と考えたが、それこそ絶対に駄目だ。

警察に届けるなんてことも考えたが、それだと届けた愛美のことを詳しく聞かれるに違いない。

かといって、適当な場所に置いて、通りかかったひとに届けてもらうなんて無責任なこと、出来るわけがない。

彼に電話を掛けて、指定の場所に取りに来て欲しいと頼むのはどうだろう?

愛美はその案を即座に却下した。
自分から電話する度胸などありはしない。

ふーっと深い諦めのため息をついて、ぼーっとした頭で天井を見上げた愛美は、不破の唇が自分の唇に触れた瞬間を生々しく思い出した。

ぎょっとした彼女は必死になってその記憶を追い払おうとしたが、抗いが良くないのか、記憶は消えるどころかもっと鮮明になってゆく。

彼の唇の感触、ぬくもり、際限なく繰り返されたキス…

「もう、やだ!」

愛美は受け止められずに叫び、立ち上がった。

手に負えない状況に狂いそうだ。
彼女はその場にしゃがみ込み頭を抱えた。

パーティーなどに行かなければよかった。
今日だって、父と一緒に行けばよかったのだ。

そうしたら、あのひとに今日逢うこともなくて…

「え?」

愛美は目を見開いた。

どうしてあのひとは、あそこに現れたのだろう?

保志宮が連れて行った公園に…
彼がいなくなるタイミングを、まるで見計らったように…

誰かが彼に連絡を?
だとすれば、五人の中の誰かが…?

蘭子と百代のはずはないから、百代の相手の蔵元?、それとも蘭子の…?

保志宮だろうか?と考えた愛美は、花束を差し出してきた彼のやさしい笑みを思い出して、その疑いを退けた。

また振動音が耳に届いた。
時計を見ると、八時になるところだった。

このままにはしておけない。

愛美は覚悟を決めてバッグの口を開けて、携帯を数秒見つめてから意を決して取り上げると、携帯を開いた。

画面に、優誠という名が表示されていた。
携帯を取り落としそうなほど、愛美の手が震えた。

彼女は携帯をぐっと掴んで見つめ、どこを押せばいいのか分からずに少し迷い、やっと耳に押し当てた。





   
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