シンデレラになれなくて


その4 とんでもない電話



開くたびにキーッという金属が擦れた音がする玄関ドアを開けて、愛美はスーパーの買い物の袋を提げて我が家に入った。

これから夕食の支度をするが、父が帰るのはまだまだ遅い。

新しい仕事についてからの父親の給料は驚くほど多額で、無理しないでも、もっといいところに引っ越せるのだが…

父は何も言い出さないし、愛美も先行きが不安で、いただいているお金を不用意に使う気になれないのだ。

父の性格から、いつなんどき、また解雇されるか分からないのだし…

古めかしい建物だが、部屋は三部屋あるし、愛美にも自分専用の部屋がある。
愛美は冷蔵庫の中に食料品をしまい、着替えのために私室に入った。

彼女の部屋はごくさっぱりとしている。
たぶん見た人の目には女の子の部屋とは写らないだろう。

和室だから、ベッドもないし、あるのは机と椅子。そして、ちょっとしたボックスの棚だけだ。

本は好きだが、買わずに、読みたい本は図書館で借りている。
いまこの部屋にある五冊の本も、図書館の本だった。

新刊もリクエストすれば、案外早く読めるし、図書館に無い本を頼むと、新品の香りのする本を手に取れることだってある。

高価な専門書すらも見放題だ。
あんなに素敵な施設は、他にないと愛美は思う。

服は既製品を買うよりも、安い生地や無地のTシャツなどを買って来て、自分の好きにリフォームして着ている。

それらの服は、蘭子や、あのおかしなデザインの服ばかり着ている百代にも気に入られ、この半年の間に、ふたりにも幾枚か作ってあげたりもしていた。

この間の遊園地にも、三人色違いのお揃いで、愛美お手製のTシャツを、ジーンズと合わせて着ていったのだ。

蘭子と百代からは、そのお返しにと、アクセサリーや化粧品や服などをもらっているが、それらは愛美のスタイルにはそぐわぬものばかりで、ふたりには悪かったが、押入れのダンボールの中に収めたままになっていた。

けれど、蘭子と百代には本当に感謝していた。
彼女たちが友達になってくれて、彼女はあの学園で浮いた存在ではなくなった。

いまは違う意味で浮いているのかもしれないが、いまの彼女は…ひとりぼっちではない。

先に話しかけてきたのは、百代だった。
そして、百代の無二の親友だった蘭子が、自動的に付いて来た。

ふたりとも平凡な愛美と違って個性の塊で、一緒にいて飽きることがない。

まあ、たまには蘭子に翻弄されてドタバタしなければならなくもなるが、それも実のところは楽しい。

普通ならありえない体験もさせてもらえるし…

蘭子のとんでもない御殿にお邪魔したときには、肝がつぶれるかというくらいの衝撃を受けたし、いまでも蘭子の父母らと対面すると、愛美は声と足が震える。

いまはひと月に二、三回くらい、ふたりは蘭子の家に遊びに行っていた。

蘭子はもっと頻繁に来て欲しいようだが、愛美も百代も家族との暮らしがあるし、さすがに毎週は遊べない。

父がどんなに娘の愛美に無愛想でも、やはり一緒に過ごす時間は大切に思う。

それに蘭子自身、上流階級の複雑な付き合いとかがあって、忙しい身なのだ。


エプロンを着けて、台所に立った愛美は、テキパキと夕食の支度を始めた。
料理を作る作業は大好きだ。

包丁とまな板が立てる音、鍋から立つ湯気、部屋に満ちるおいしそうな香り…
この時間は、まるで、自分の手のひらが魔力を持っているように感じる。

台所での仕事を終えた愛美は、自分の部屋から本を取ってきて、居間に座り込んで本を読み始めた。

父親が戻ってきたのは、それから一時間ほど経った頃だった。

いつもと同じに言葉少ない父親と食事を食べ、愛美は片づけを終えた。

風呂から上がってきた父と交代で風呂に入ろうとした愛美に、珍しく徳治が声を掛けて来た。

「進学のことなんだが…」

どうやら、その問いを父親はずっと胸に温めていたらしい。
徳治の性格から、いつどうやって切り出そうかと、さんざん悩んでいたのに違いない。

けれど、すでに一度、進学のことは話しあったのだ。
山中の家にいたときには、愛美は当然高校を卒業と同時に就職を考えていた。

だが父が定職を持てたことで、大学に進むことを父から勧めて来たのだ。
陶芸が好きならば、父の学部に入って本格的に学べばいいと。

愛美は就職が有利になりそうな、事務を身に付けられる専門学校に進みたいと父に告げた。

陶芸はとても好きだが、娘が自分の教え子になるというのは、父にとっても他の教え子にとっても、あまりいいことではないだろうと考えたからだ。

「もう一度、考え直してはどうだ」

「でも…もう決めたし」

父の顔が曇ったのをみて、愛美は戸惑ったが、すでに専門学校への願書も出してしまったのだ。いまさら…

「お前の母が…望んでるような気がするんだ」

「え?」

「このところ、何か落ち着かないんだ」

そう言うと、徳治は胸の中のものを吐き出そうとするように大きく息を吐いた。

「とにかく、考えてみてくれ」

「父さんは…わたしに陶芸を学んで欲しいの?」

徳治と愛美の視線があった。
父の瞳に、動揺が浮かんだように見えた。

「お前は土と相性がいい」

徳治の視線は茶ダンスに向けられた。
そこには愛美の手作りの器や皿が並んでいる。

「でも、お父さん、やりづらくない。娘が入ってきたんじゃ…」

「それも考えたんだが…娘ということは、みなには内密にしておけばいい」

徳治はそれだけ言うと、自分の部屋に入って行った。
話しは終わったのだろうと、愛美は風呂場に向かおうとした。

「愛美」

父の声に振り向いた愛美に、徳治は大きな茶色の封書を差し出してきた。

「願書だ」

愛美が受け取ると、徳治はもう何も言わずに自分の部屋に引き上げた。

封書を持った愛美は、笑いが込み上げてきた。
父とこんなに長い会話をしたのは、本当に久しぶりのことだ。

学園に編入して、ふた月ほどたったころ、徳治はひどく口ごもりながら「友達は出来たのか?」と聞いてきた。

とても気掛かりそうな口ぶりだった。
ふたりの友達が出来たと伝えると、徳治はほっとしたように「よかったな」と言ってくれた。

その時の、父の安堵の表情を目にして、愛美はひどく反省させられた。

語らない父だからと、彼女から話すこともなかった。
父は心配してくれていたのに…きっと、ずっと…

休日にはその友達の家に遊びにも行っていると告げると、なぜか父の目が不安定に揺れて…何か言いたそうなのに何も言わなくて…愛美から「何?」と聞いたのだ。

父はとても気まずい顔をした。
徳治は、その友達が男か女か知りたかったのだ。

女の子だと分かった徳治の顔が、ほんのり赤くなり、愛美はその珍しい現象に驚いて目を見張った。

記憶を掘り起こして笑みを漏らしていた愛美は、電話の音に我に返った。

電話に出た途端、賑やかな蘭子の声が響いた。

「どうしたの?蘭ちゃんが電話してくるなんて…何かあったの?」

『今度の週末、土曜日だけど開けといて頂戴』

完全に命令口調だった。
何があっても譲らないわよと、その声は言っている。

「何をするの?」

『パーティーよ』

「はい?」

馴染みのない言葉に、愛美は眉をひそめて聞き返した。

『パーティーよ。その単語の意味は知ってるでしょ?』

それは…知っている。

『我が家が主催するパーティーがあるのよ、それに参加するの』

「誰が?」

『愛美、あなた寝てたんじゃなくて。あんたと百代よ、決まってるじゃない』

「どうして?」

父親が部屋から静かに出てきて、愛美の会話は自然に止まった。

徳治はトイレの方へと向かったが、この電話が気になってのことのように思えた。
愛美は、無意識に徳治の姿が見えなくなるまで追っていた。

『聞いてんの?』

受話器から聞こえる蘭子のガミガミ声に、愛美は意識を戻した。

「何を?」

『もおぉ〜。だから、ドレスはわたしが用意したって言ったのよ』

「ドレス?」

『そう。靴もバッグもあるから、あんたはいつものように、いつもの格好で、百代と一緒にここにくればいいの。簡単でしょ?』

「簡単?」

何事が起きたのか分からず、愛美は意味もなく、蘭子の口にした言葉を繰り返した。

『そう。簡単なことよ。来るわね』

「あ…あの」

『何よ、まだ何か聞きたいことでもあるの?』

「何のために、わたしと百ちゃんは、そのパーティーに参加するの?」

蘭子が呆れたように鼻を鳴らす音が聞こえた。

『決まってるじゃない。そこらには転がっていない、ハイレベルな男を手に入れるためよ。頑張ってよ。それじゃあね』

ブツンと電話は切れた。
愛美は呆然として受話器を見つめ続けた。





   
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