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その43 プリンへのお誘い
平穏な学園生活を送るほとんどの学生のあずかり知らぬところで、悪事は行われていたようだった。
月曜日の朝刊で、学園長の不正が白日の元にさらされたのだ。
それによって学園長は、職を追われるように辞職した。
学園長は生徒から愛されている人物ではなかったし、愛美が耳にするささやき声を鑑みるに、どちらかといえば嫌われ者だったらしい。
嘘か本当かは知らないが、不正を暴く一端を担ったのが櫻井だとの噂が、生徒間に蔓延していた。
当の櫻井は、はっきりしない受け答えをするばかりで、事を認めもしなければ、そうでないとも言わないらしかった。
そして、生徒の多くが、この騒ぎを大いに楽しんでいるようだった。
「うるさいったらないわね」
昼食を前に座り込んだ蘭子は、ざわざわとした周囲に対して不平を洩らしたが、それは無意識な反応のようなもので、何者をも、いまの彼女の幸せに水をさしたりはできないようだ。
土曜日の完璧な勝利に、蘭子は酔っているのだ。
静穂の鼻をあかせたという出来事の前には、学園長突然の失職も、それに櫻井が関わっていたという噂も、蘭子にとっては、チリほどの価値もないらしい。
静穂たちはといえば、蘭子や愛美たちを頭から無視することに徹している。
その静けさが、愛美には空恐ろしかったが…
いずれ静穂たちが、彼女たちに対して報復を考えるのではないかとの不安を、愛美は感じざるを得なかった。
蘭子は勝利感に酔っているばかりで、そんなことは露ほども考えないようだが…
愛美が懸念していた、保志宮と愛美が芝居の途中で消えた事実も、蘭子にはことさらたいしたことではなかったようだ。
蘭子はひとこと、「わたしに何も言わずにいなくなることないでしょうよ」と言っただけだ。
それも追求というほどでない、彼女の目を欺くように消えたことに対するお小言を食らわしただけという感じだった。
「櫻井君があんなに機嫌が良かったわけよね」
百代の言葉に、愛美は食事の手を止めて顔を向けた。
「櫻井君の機嫌?」
「そう。彼は今日のことをすでに確信してたのよ。自分が関与してたことが実を結ぶという勝利感が、あの日の彼を有頂天にしてたんだわ」
百代は言葉どおり確信をこめた口調で言った。
蘭子と愛美はそれぞれに怪訝に眉を潜めた。
「なんでもいらっしゃーいって気分だったのよね、あの時の櫻井」
百代のおかしな抑揚の言葉に、愛美は笑いのツボを突かれて吹き出した。
吹き出しながら、愛美は百代の言葉を反芻しつつ理解しようとした。
「どういうことよ?」
眉を寄せた蘭子が尋ねた。
「簡単に誘いに乗りすぎると思ったのよ。いくらMMOの大ファンにしても…でもこれで、妙な疑念を抱える必要はないと分かって嬉しいわ」
「どういうことよ?」
先ほどまでの高揚感を捨てて、蘭子はいらいらしたように百代に詰め寄った。
「意味が分からないことには、誰だって疑念を抱くでしょう?原因があって結果があるんですもの。原因が分からないうちは、櫻井が何かたくらんでいるんじゃないかという、危惧が拭えなかったのよ」
「でも、誘ったのはあんたじゃないの。やつがMMOが好きで、誘いに乗ると分かってて誘ったんでしょう?」
「まあね。ともかく誘えば乗ると思ったのよ。でも、その時点で根拠はなかったの」
百代の説明は、聞けば聞くほど訳が分からなくなるという特徴を持っている。
愛美は理解を諦めて肩を竦めたが、蘭子は納得がゆかずに苛立ちを募らせるばかりのようだった。
「つまり、どういうことなのよっ!」
今日一発目の蘭子の怒鳴り声に、百代がくすりと笑った。
「なんで笑うのよっ!」
「まあまあ、落ち着きなさいって。念願の勝利感をそう簡単に手放しちゃもったいないわよ」
百代は蘭子をなだめるように言ったが、彼女の言葉は蘭子の怒りを煽りはしても、けしてなだめはしなかった。
「あんたが手放させてるんじゃないの」
「つまり」
愛美は、蘭子の腕に手を触れて彼女の注意を引き、百代の言葉を整理して、考え考え言葉にした。
「櫻井君は、百ちゃんが芝居に誘ったとき、月曜日には不正が暴かれると確信していて有頂天だったから、百ちゃんの誘いにすぐに乗ったってことなのでしょ?」
百代がうんうんと肯定して頷いた。
眉をしかめた蘭子も、愛美の説明を、頭の中で咀嚼しているようだった。
「だから、何も企んでなかったってことがはっきりして、百ちゃんもすっきりした…と」
百代は大きく頷き、蘭子に向いた。
「そのとおりよ。蘭子も分かった?」
蘭子がギロリと彼女たちを睨みつけてきた。
「それで、あんたたちこれからどうするの?」
「何を?」百代が聞き返した。
「あんたは蔵元さん、愛美は保志宮さんよ」
「ああ。もうこれで蘭子の予定した企みは終了したんだものね。彼らもお役ご免なわけよね」
「あんたたち、お役ご免でいいの?」
「今後は私たちの好きにするわ」
「百代、あんたは蔵元さんと付き合うつもりなの?」
「友達にはなったわ」
「真実を告げたということ?」
「ううん。それはまだ。いまはその時機じゃないから…」
「どうして?」
「そう思うからよ。愛美、あんたもよ。まだ時機じゃないわ」
愛美は唖然として友の顔を見つめた。
昨日の問いを、百代は聞いていたのではとしか思えない答えだった。
「それは…あの…」
保志宮ではなく…不破のこと?と…愛美は思わず心で問いかけていた。
「そうよ」
愛美は友のはっきりとした答えに驚愕して目を見開いた。
百代は愛美の驚きなど意に介さず、眉間に深い皺を刻んだ。
「でないと…うまく立ち行かなくなるように…思えるわ」
そう考え込みながら言った百代の顔が、みるみる暗く翳った。
いつもひょうひょうとした百代の、みたこともない暗い顔に、愛美はどきりとした。
「百ちゃん?あの…」
「なんでもない」
そう言った百代は、口をぐっと結び、それから一言も口を開かなかった。
三人の間に沈黙が満ちた。
おかげで蘭子のせっかくの勝利感は台無しになり、彼女はあからさまに不機嫌になった。
百代の理解しがたい暗い翳りは、そんなに長くは続かなかったが、愛美の中に、とらえどころの無い影を植えつけた気がした。
蘭子はどんなに不機嫌さを顕わにしても、百代と愛美の側にいた。
というより、百代の側にというべきだろうか…
蘭子と百代の仲に、愛美はとても特別なものが存在しているように感じるのだ。
百代は蘭子の親友というより、蘭子にとって百代は、もっと特殊なかけがえのない存在のように愛美には思えた。
「わたし…愛美といるから…」
いつものように校門前で蘭子と別れ、ふたりして門に向って歩いてゆく途中で、ふいに百代が言った。
「百ちゃん…?」
「この言葉、忘れちゃだめだよ」
「あの?百ちゃん、いったい…」
百代は答えずに鞄を開けると、財布を取り出した。
そして財布の中身を確めて、愛美の顔をのぞき込み、ちゃめっけたっぷりに囁いてきた。
「愛美、プリン食べたくない? 華の樹堂のやつ」
百代の変化に愛美はひどく戸惑った。
「華の樹堂の?…た、食べたいけど」
「行こう。あのバスに乗ってくんだよ。ほら、ダッシュ」
明るい声で百代は叫ぶと、愛美の手を取って走り出した。
笑い声を響かせて走る百代の表情は、笑いと同じに何の翳りもなく、それに応じて愛美の心は晴れていった。
『プリンがお好きなんですか?』
愛美は百代とプリンを食べに行った経緯を、楽しさそのままに不破に語った。
自分がどれほど張り切ってプリンのことを話しているのか、愛美は分かっていなかった。
くすくす笑う不破の声に、愛美はただ幸せを噛み締めて笑みを零した。
「華の樹堂のです。そこのが特別美味しいんです」
不破は、愛美の身に起きた出来事をすべて聞きたいようだった。
けれど愛美は、高校生であると彼に悟られないように語らなければならず、不破を欺いていることは、ひどく心に重かった。
『では、次回お会いした時に、一緒に行きましょう』
「でも、あのお店…男の方はあまり…いらっしゃらないみたいです」
『男の私が行っては目立ちますか?』
不破が不服そうに、けれど笑いながら言った。
「はい」
愛美の率直な答えに、不破の笑い声が膨らんだ。
彼はどこに行っても目立つだろう。
それに、あの店に、愛美が不破と一緒に入るなど想像出来なかった。
百代とふたりで入るのだって、愛美には勇気が必要だったのだ。
あの店は、愛美のような人間を怯ませる、何かがあるように思うのだ。
それは、つんと澄ました居丈高なものとかでなく、畏れ多さとでもいうものだ。
愛美は、畏れ多いものに対して、ひどく敏感なのに違いない。
百代はとても気さくだが、彼女とて裕福な家の娘なのだ。
華の樹堂のような店に対して、愛美のような畏怖など、感じたりしないのだろう。
育ちというのは、ひとに確定的な意識を植え付けてしまうものなのかもしれない。
愛美が、百代や蘭子の感覚にはなれないのと同じに、百代と蘭子にも、愛美の感覚は理解できないだろう。
そして、たぶん不破も…
『もう、おやすみなさいと言わなければならないんだな』
名残り惜しそうに不破が言った。
その声には、苛立ちも含まれている。
九時から始る電話は、三十分の制限を設けていた。
そうでないと、切るタイミングを失ってしまうからと、不破から提案してきたのだ。
けれど彼は、この提案を守る時間になるといつも、提案をした自分に立腹するようだった。
『今週末、お会いしたかったのですが、どうにも元からの予定が動かせないんです』
不破の苛立ちが、彼の声から伝わってくる。
彼にしばらく逢えないとわかって、愛美もがっかりした。
「そうですか」
『どうにかならないものか、まだ調整してみるつもりですが…あの、まなさん』
「はい」
『平日の夜半に…お会いすることは出来ませんか?』
「ごめんなさい。夕食を作らなければならないので…」
『貴方が夕食の支度をなさっておいでなんですか?』
不破は少し驚きを込めて言った。
愛美には、彼の驚きが理解出来なかった。
「はいそうです」
『夕食の支度を整えてから出掛けることは?』
「ごめんなさい…夜は出掛けられません」
『そうですか』
不破の無念そうな声に、愛美は申し訳なさと、不破と同じだけの切なさを味わった。
『この続きはまた明日話しましょう。時間が過ぎてしまった…』
「はい。…優誠さん、おやすみなさい」
愛美は、不破の『おやすみなさい、まなさん』というやさしい声を、耳に味わいながら電話を切った。
彼女は、宿題の続きに手をつける前に、携帯の画面に魅入った。
微かに照れたような笑みを浮かべた、不破…
次はいつ…逢えるのだろう…
愛美の胸は、馴染みになった切ない疼きに苛まれた。
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