シンデレラになれなくて


その44 逢いたい気持ち



心をほっとさせる土のぬくもりは、愛美にこれまで以上の慰めを与えてくれた。

彼女は目を閉じて土以外の香りを感じようとした。

動きを止めたような森林の空気…
地表から立ち上る力強いエネルギー

少し離れた場所から、地面に落ちた枯葉を踏む微かな音が聞こえ、彼女は林へと続く小道に視線を向けた。

すぐにこちらに歩いてくる父親の姿が見えた。

徳治は愛美と視線を合わせると、無言のまま小さく頷いてみせた。

その小道の先にはお墓があるのだ。
父は、母や祖父母の墓を参ってきたのだ。

愛美と徳治は、相談したわけではないのだが、けして一緒に墓に行かない。
徳治がひとりで参るのを好むせいで、自然とそうなったのだ。

愛美にしても、ゆったりと母と話せる時間が持てるから、その方が良かった。

自分の工房の中へと入ってゆく父親の背中は、いつものように、不自然なほど静かだった。

愛美の母とどんな語らいをするのか…父はいつだって、物悲しいものを背負って戻ってくる。

父はこの人生に生きていて、楽しさを味わっているのだろうか?
その問いが、突然愛美の脳裏に浮かんだ。

焼き物が良い出来だったときの父は、嬉しげだ…

それに、土をこねている時の父は、愛美が思う以上に幸せなのではないだろうか?
そう考えると、少しほっとできた。

愛美は自分が丹念に作り上げたものを、まずまず満足を持って見つめた。

これらのうち、出来の良かったものを、愛美は不破へのクリスマスプレゼントにするつもりだった。

クリスマスはまだまだ先のことだが、万が一うまく焼きあがらなかった場合のことを考えて、なるべく早く作っておくほうが安心だ。

蘭子と百代には、ふたりのそれぞれの個性にあった、デザインのバッグを作るつもりでいる。

こちらは団地の家でも出来るから、そう慌てることもない。

彼女は立ち上がって水道で手を洗い、いったん家の中に入った。

夕方近くなったいま、少し肌寒くなってきていた。

彼女はタンスからカーディガンを取り出して羽織ると、少し軋む床の音を楽しみながら台所に立った。

今日は土曜日で一泊し、明日の夕方早くに帰る予定にしていた。

慣れ親しんだ台所は、何もかもが古めかしいが、使い勝手がいい。

この台所に母も立っていたのだと思うと、すでにこの世にいない母に包まれているような気持ちに浸れる。

夕食の支度を済ませた愛美は、外に出て、父の工房の戸口から中へと声を掛けた。

「父さん、行って来るから」

「ああ」

父のそっけないような返事に笑みながら、愛美は小道へと歩いて行った。

夕方の時刻、まだ日は高いが、そろそろ西の空がオレンジ色に染まりつつある。

一日として同じ色合いはない夕暮れの空に畏怖を感じながら、愛美は小道をゆっくりと辿っていった。

踏みしめた落ち葉が足の裏にあたるふわふわとした感覚を楽しんでいた愛美は、固いものを踏んで立ち止まった。

足をあげてみると、青い帽子を被ったどんぐりが転がっていた。

愛美は屈んで、踏んでしまったどんぐりを拾ったが、その近くにどんぐりがいくつも落ちているのに気づいて、手のひらに乗せられるだけ拾い、やっと立ち上がった。

ポケットにいくつか入れ、残りは母や祖父母への贈りものに持ってゆこうと決めた。

母や祖父母の墓がある、森林の中のひらけた空間は、いつもどおりに愛美を迎え入れてくれた。

墓というと、普通怖さを感じるものなのかもしれないが、この場に至っては、愛美に安心感を与えてくれる場所だった。

父の作った陶器の置物が、あちこちに置かれていることも要因しているのかもしれない。

もちろん、愛美が作った稚拙な焼き物も飾られていた。
母、祖父母の誕生日に、愛美の手で、そのつど贈り物として置いてきたのだ。

幼い時からの習慣なので、父から言い出したことなのか、愛美が言い出したのか、彼女には分からなかった。

愛美は手にしていたどんぐりを、3人の墓に三等分して置き、祖父母の墓に手を合わせて、いつもと同じ挨拶をし、母の墓に向かい合った。

彼女は祖母のことはまったく知らない。祖母は愛美が生まれる前に他界している。

祖父のことは、少しだけ覚えている。
白い髭を蓄えた、まるで仙人のような風貌をしているひとだった。

そして、とても深い声の持ち主だった記憶がある。
祖父はその声で、愛美のことを、なぜかお姫と呼んでいた。

母親は、中学校の一年生の時に、病気を患い逝ってしまった。
それ以後、愛美は父と二人きりで暮らしてきた。

「母さん」

愛美はそう呟くように声を掛け、母にいまの彼女の心情を語った。

蘭子と百代のこと…そして、さんざん考え込みながら、不破との出会いを母に話した。

彼女の胸の内に溜まっていた思いを、母が吸い込んでくれるようだった。

「見守っててね。母さん」

最後にそう言って立ち上がった愛美の心は、いくぶんかやすらぎを得ていた。

不破に会えないのはもちろん淋しかった。
だが彼に予定がなくても、思うほどふたりは逢えないだろう。

毎日声を聞けるのだ…それで満足すべきかもしれない。

だが、不破の方は、愛美ほど割り切れてはいないようだった。

逢えない日を重ねている今、彼のやさしい声には、隠し切れない苛立ちが混じっている。

今夜の電話のことを考えた愛美は…ぐっと眉をしかめた。

考えてみたら、この山の家から不破に電話を掛けることは出来ない。
家は古く、どこにいても人の話し声は筒抜けなのだ。

困った愛美はポケットに入れていた不破の携帯を取り出し、今夜は余所の家に泊まるので、電話が出来ないとメールを打った。

送信ボタンを押した愛美は、眉を寄せた。
画面に、送信不可との表示が出たのだ。

いったいどういうことなのだろう?

携帯をつくづくと眺めた彼女は、圏外という文字が出ているのに気づいて驚いた。

どうやら、ここからでは、携帯は使えないということらしい。

愛美は顔をしかめて周囲を見回した。
木々に囲まれた小道は、そろそろ本格的な夕暮れを迎えようとしている。

愛美は血相を変えて駆け出した。
彼女は家に戻ると、すぐに自転車に駆け寄りながら、工房の外に出ていた父親に声を掛けた。

「父さん、ちょっと、ふもと近くまで降りてくるから」

愛美は怪訝そうな父の表情に気づいたが、自転車に飛び乗ると道に向って走り出した。

「すぐに戻るからぁ」

愛美は叫び、何か口にしたらしい父に振り返りもせず、ふもとへ向けて坂を下った。

田んぼのひらけた場所までやってきた彼女は、自転車から降りてすぐに、携帯の画面を確めた。

圏外の文字は消えていた。

愛美はほっとしてメールを打ち、すぐに送信した。

背後から車の音がして彼女は振り返った。

「いったいどうしたんだ?」

車の窓から眉を寄せた徳治が叫ぶように言った。

その問いに、愛美は俯いた。
焦ったあまりの行動は、ずいぶんと突飛過ぎたようだ。

「ごめんなさい。友達にメールしようとしたんだけど、圏外って出てたものだから…」

「メール?」

どうやら父は、まだメールを知らないようだ。

「文字の手紙みたいなもの」

「なんで電話で手紙なんだ…電話でよかったんじゃないのか?」

「圏外だと電話も通じないもの」

「家の電話があるじゃないか」

愛美は唇を噛んだ。

「そうだったわ」

だが家の電話では駄目なのだ…と、愛美は心の中でつけたした。

「も、もう終わったから帰るわね」

愛美は顔を赤くして、自転車にまたがった。

いくぶん不機嫌な顔の徳治も、車に乗り込んだ。

狭い一本道だから、Uーターンするにはもう少し先まで行かないと車は戻れない。
愛美は気まずく父の車を見送ってから、もう一度、携帯を確めた。

不破からの返事は届いていなかった。きっと忙しいのだろう。

彼女は諦めて携帯を閉じると、圏外の地へと、いくぶん不安な面持ちで戻って行った。





翌日も愛美は土をこねてすごした。

3時を回る頃、ふたりは周辺の片付けを始め、4時近くには車に乗って山を後にした。

アパートの近くに戻ってきたときには、すでに夕暮れていた。

アパートの敷地への入り口を通過する直前、愛美は道端に停まっている、黒っぽい乗用車に気づいた。

不破の車に似ていると思った瞬間、愛美の胸はドキドキし始め、彼女は後方へと、通り過ぎた車を目で追った。

「何かあったのか?」

上半身を回して、後ろに振り向いている愛美に、父親は当然の問いを向けてきた。

「あ、う、ううん。知っている人がいたみたいな気がして…それだけ…」

そういう間も、愛美の心臓は大きく波立っていた。

あれは不破だ。間違いない。
愛美の直感がそう告げてくる。

彼女は心半分で荷物を持ち、車を降りた。

すぐさま確めに行くべきか迷ったが、父の目があるのに、確めになどいけるわけがないと思い直した。

彼女は後ろ髪を引かれる思いで家に向った。

荷物を台所に置くと、残りの私物を持って愛美は自室に駆け込んだ。

窓から外を窺ったが、車があったあたりには塀があり、先ほどの車は見えなかった。

混乱した頭を落ち着かせ、愛美は考え込んだ。

不破が、何の連絡も寄こさずにここにくるわけがない。
あれはきっと、不破ではなかったのだ。

彼女はそう結論を出しながら、いいことを思いついて、携帯を取り出した。

メールをしてみればいいのだ。
彼があそこにいるなら、すぐに返事をくれるに違いない。

携帯を開いた愛美は、画面を凝視した。

不破からのメールが2通届いていた。
愛美は新しいものを先に開いた。

(いま近くに来ています。逢えませんか?)

彼女ははっと喘いだ。
あれは…やはり不破だったのだ。

愛美は矢も盾もたまらず、部屋から飛び出した。

靴に足を突っ込み終えないうちにドアから飛び出そうとした愛美の背に、父の驚いたような声が飛んできた。

「いったいどうしたんだ?」

「友達が来てるみたいなの…下に…ちょっと行ってくる」

愛美はそれだけ叫ぶと外に飛び出した。

階段を、驚くようなスピードで駆け下り、愛美は不破の車が止まっていた場所まで駆けつけた。だが、不破の車はなかった。

味わったことのない喪失感が、彼女の胸を打った。

「うっ…」

胸に悲しさが突き上げてきて、涙が湧き…零れた。

愛美は急いで不破に電話を掛けた。
もしかすると、まだ近くにいるかもしれない…

だが不破は、電話に出なかった。

彼はいま運転中なのだと遅れて気づいた愛美は、慌てて電話を切った。

いったい、自分は何をやっているんだろう…

愛美は惰性で、そのまま家とは反対方向に歩いて行った。
家に帰る気には、とてもなれない…

アパートの近くにある小さな公園に、彼女はうなだれてとぼとぼと入って行った。

日曜日の夕方の、この小さな公園は、あまり遊具が無いからか、誰もいなかった。

彼女はペンキの剥げ落ちたブランコに座り、不破のもう一通のメールを開いた。

(何かあったのですか?)

その文字を見つめた愛美の目から、また新たな涙が溢れてきた。

「どうして、もう少し待っててくれなかったの?あともうちょっとで良かったのに…優誠のバカッ!」

携帯に向けて怒鳴った途端、携帯の画面がチカチカと光りだした。

愛美はぎょっとして携帯を取り落としそうになった。

不破からの電話だ…

愛美は、不破に向けて理不尽に罵った後ろめたさに、即座に出られなかった。

彼女は目を瞬いて涙を払い落とし、意味なく左右に視線を向けてから、やっと電話に出た。

「も、もしもし」

『まなさん、ようやく声が聞けた』

彼はその言葉の最後に、大きく息を吐き出した。

「あの、さっき見たんです。父と帰ってきたら…優誠さんの車があって…それで…」

『時間が出来たので、ひと目逢えないかと思って…すみません』

「どうして謝るんですか?」

『ずいぶん余裕のないことをしてしまいました。昨夜、貴方からメールが来たきりで…ひどく不安になってしまって…』

「不安?」

不破は笑っているようだった。

『いつでも不安になるんですよ。連絡が途絶えたらと思うと…』

不破が黙り込み、ほんの数秒、沈黙が続いた。

『逢えますか?』

そっと言葉を押し出すように不破は言った。

「逢えるんですか?」

愛美は急くように尋ねた。

不破の嬉しげな笑い声が響いた。

「あの?」

『すみません。貴方も、私に逢いたがってくださっていることが嬉しくて…』

「逢いたいです…」

愛美は思わず繰り返した。

不破と逢えるなら、もうなんでも良かった。

『…いま、どこにいらっしゃるんですか?』

「近くの公園に アパートの東側にあるんです」

『これから行きます。待っていてくださいますね?』

「はい」

希望が胸に兆し、安堵が沸いた。

不破に逢えるのだ…

携帯を切った愛美は、胸を震わすような嬉しさに、唇を噛み締めた。





   
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