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その45 秋色のお土産
愛美はブランコに座ったまま、嬉しさに胸をときめかせながら不破を待っていたが、だんだん落ち着かなくなってきた。
ときめきの中に、不安が湧き上がってきたのだ。
自分の身なりを意識した愛美は、不安が急激に大きくなっていくのを押さえられなかった。
土をさんざん玩んできたものだから、ズボンや上着のあちこちに乾いた土が付着しているではないか。
履いているジーンズも、よくよく見ればよれよれで、上着は洗いざらして色があせている。
まさか顔に泥など…
彼女は、どきりとして、自分の頬に手を当てた。
どうしよう…
頬に触れた指先が震えた。
確めようにも、こんなところに鏡などあるわけがない。
家に駆け込んで確めてきたい衝動を、愛美はなんとか堪えようとした。
いまこの場を離れたら、不破と逢えなくなる…
その思いに引き止められ、愛美は衝動と戦い、ブランコにしがみ付くように座っていた。
愛美の葛藤のさなか、不破の車が公園の前に現れた。
駐車場というほどのものはないが、整地されていないでこぼこした空き地があり、彼はそこに車を乗り入れた。
愛美はブランコから立ち上がり、その場から動かずに、車から降りて公園内に入ってくる不破の姿を見つめていた。
いつもと同じにシックなスーツを着込んでる不破は、この場にまるきりそぐわない、彼独特の雰囲気を漂わせている。
そんな彼を意識した途端、少しばかり残っていた高揚感は完全に消え失せた。
重い不安に取り付かれた愛美の表情は、暗い翳りを帯びていった。
なのに不破は、愛美を一心に見つめてくる。
彼の目に、いまの彼女はどんな風に映っているのだろうか?
怖れに似たものを抱えた愛美は、不破の視線を避けるように目をさ迷わせながら、そわそわと身じろぎした。
「いいところですね」
その言葉に虚をつかれ、愛美は戸惑った顔を上げた。
「ここが?」
「ええ。何もかもが自然なものと思えます。…ああ、そうか…」
不破は首を傾げておかしそうに微笑んだ。
「貴方がいるからだ…」
「わたし?」
「そう、貴方の存在が…」
不破はそういうと手を差し出してきた。
愛美は彼の魔法に掛かったように無意識に手を上げた。
彼は愛美の手を取り、やわらかに握り締めた。
不破は、愛美の手を味わうように、その手にゆっくりと力を込めていった。
その一方で、彼の目は愛美の顔を食い入るようにみつめてくる。
愛美はまた不安が頭をもたげ、思わず自分の頬に触れた。
「土を…」
「土?」
おうむ返しに不破が繰り返した。愛美は不安な面持ちで頷いた。
「ずっと土をいじってたから…ついていないか心配になって」
不破は空いている方の手で、不破の視線を逸らそうとばかりしている愛美の顔に、指先で触れてきた。
調べ物をするような真剣な顔で、不破は愛美の顔の角度を少しずつ変えさせて確めた挙句、最後に指の先を、そっと唇に押し当てた。
驚いた愛美は目を見張った。
「…とても綺麗ですよ」
奇妙に平坦な声で不破は言うと、驚いている愛美の唇の表面を、指先で味わうように、ゆっくりとなぞった。
「ゆ、優誠…」
「いい場所だが…欠点もあるな」
苦笑と不平を取り混ぜたような声で不破が呟いた。
「欠点…」
「あなたの住まいが、すぐそこにあるからですよ。…薄暗くても、あのたくさんの窓から、私たちはよく見えるでしょう。貴方を抱きしめたいが…貴方の困るようなことは出来ない」
愛美は背後の建物に振り返って見上げ、改めて不破を見つめた。
スーツできっちりと身を固めている不破…
古びたアパート、手入れの行き届いていない公園…
色の褪めた上着によれよれのジーンズを履いた愛美…
両者のあまりの差に、彼女はふたりの間に横たわる超えられない溝を感じた。
「まなさん?」
愛美はハッとして顔をあげた。
「な、なんでも…なくて…」
なんだか堪らない気分に襲われ、愛美は不破の手から自分の手を抜こうとした。
「触れていたいんです。せめて手だけでも…」
不破の言葉には懇願があった。
その懇願の響きに、愛美はなぜか救われた気持ちになった。
愛美の頷きに、彼女の手を離すまいと力を込めていた不破の手から、ほんの少し力がゆるめられた。
「どこにお出掛けだったんですか?」
「焼き物を作りに、父と…窯があるんです。そこに行ってました」
「あなたもお作りになるんですか?」
「はい。好きなんです」
笑顔でそう言った愛美は、「へたくそですけど」と、クリスマスに不破に手渡すことを思って、付け足した。
「そうだ…優誠さんのお誕生日はいつなんですか?」
「七月です」
愛美は問うように不破の瞳を見つめた。
不破はなぜか苦笑いを浮かべた。
「笑わないでくださいね。七夕の日なんですよ」
愛美は思わず笑った。
「笑わないでくださいとお願いしたのに…」
いくぶん拗ねたように不破が言った。
愛美は笑いながら首を振った。
「ごめんなさい。でも、優誠さんが笑わないでなんて前置きなんてなさるから、笑ってしまったんですよ」
「私のせいですか?」
愛美は不服そうな不破を見つめて、夕暮れの中に笑い声を響かせた。
「でも、覚えやすくていいですね。それになんだか…優誠さんにぴったりな気もします」
「ぴったり?」
愛美は頷いた。
「星のイメージっていうか…優誠さんは…キラキラした天の川みたい…」
自分で言った言葉なのに、愛美の顔から笑顔が消えていった。
そう…手の届かない…遠い存在…
「何を考えているのか…教えていただけませんか?」
愛美の翳りを見たからだろう、不破の声は固かった。
顔を上げてみると、愛美の心を推し量っているような彼の眼差しがあった。
「…ただ、その…星は遠いなって…」
不破がぐっと顔をしかめた。
彼は握り締めている愛美の手を自分に引き寄せて、ふたりの距離を縮めた。
「こうやって、触れ合っているのに…ですか?」
愛美はその問いに答えなかった。
不破の身体は触れそうなほど近くなり、愛美の好きな不破の匂いがした。
甘く、愛美を惑わし、引き込むような香り…
不破の身体に対して抱いた気恥ずかしい感覚と、いまの会話を誤魔化すために、彼女はポケットに手を入れてどんぐりを取り出した。
「お土産です」
愛美は恥ずかしげに微笑みながら、不破にどんぐりを差し出した。
帰る不破を見送るのは淋しかったが、愛美は彼と、次の土曜日に会う約束をした。
どんぐりを手の中で転がしていた不破が、森林公園に行かないかと提案してきたのだ。
もちろん愛美は、即座に頷いた。
その提案は、心から嬉しかった。
気の張るようなところだと、不破と一緒であっても、萎縮してしまうばかりでちっとも楽しめないだろう。
それに着る服にも困る。
彼が連れてゆくようなところは、普通に着飾ったくらいでは足りないところばかりなような気がするのだ。
愛美の心は沈んだ。
彼と付き合ってゆく以上、いずれはそういう事態になるに違いない。
不破への恋しさと、別れた淋しさと、先への気掛かりを抱えて、とぼとぼと家に帰った愛美は、持ち帰った荷物を片付け始めた。
父は私室にいて、愛美の立てる物音を聞いて部屋から出てきた。
「夕飯の材料は揃ってるのか?買い物に行かなくても良かったか?」
「大丈夫。金曜日のうちに、今日の分の買い物、しといたから」
「そうか」
徳治は相槌を打ち、くるりと背を向けて自室に入ってしまった。
先ほど飛び出していったことを怪訝に思って、何か聞いてくるのではないかと思ったのだが…
愛美は気にしていた問いをもらわずに済んだことに、ほっとした。
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