|
その46 愛される資格
「それでは今日も楽しい一日を過ごされたんですね?」
その不破の言葉に、愛美は半分正直な心で「はい」と返事をした。
蘭子や百代とはうまくいっているし、楽しいというか、いつもどおりの一日だったと思う。
ただ、学園長失脚での騒ぎも収まりをみたこの最近、愛美に対して、微妙な接触があるのだ。
それはいつも愛美がひとりになった時のみに限られる。
男子学生の時もあれば、女子学生の時もあり、ひとりでいる愛美のところに彼らはさっと現れて、慌しく問いを向けてくるのだ。
櫻井と付き合っているのは、愛美なのか蘭子なのか?…と。
蘭子の性格に怖れを持っているのか、この問いを蘭子本人に向ける者はいないようだった。そして、不思議少女の百代に近づくことを普段から恐れているのか、百代に聞く者もいない。
けれどその真実を知りたい気持ちは増すばかりのようで、愛美がひとりになったとたん、アプローチにやってくる輩がいるのだ。
愛美がはっきりと、どちらも付き合っていないと言えば済むことなのだ。
けれど、なぜだか百代がそれをさせてくれない。
いったい百代は何を考えているのだろう?
愛美には理解出来ないものを、百代は見ているのに違いない。
それだからこそ、百代の言葉には逆らえないのだ。
「明日は九時半ですよ。絶対に忘れないでくださいね」
しかつめらしく、わざと念を押すように不破が言った。
「はい。もちろんです。楽しみにしています」
愛美も真面目くさって答えた。
不破が楽しげに笑った。
明日は森林公園だ。
ふたりの間に、明日会えるという嬉しさが、大きな期待となって膨らんでいるようだった。
愛美は、不破の正直な感情の表現に圧倒されることが多い。
礼儀正しくやさしい彼だが、彼の思いは驚くほどストレートに愛美に伝わってくる。
こんなひとは、愛美にとって初めてだ。
父は自分の感情を表に出すのが下手だし、誰だってどこかで気持ちをセーブしたり、いくらかは誤魔化しつつ言葉を発しているように思えるのに…
だからこそ、愛美も彼の前では、感情のままに向き合えるのだろう。
愛美は少し考え込んだ。
不破の前ではそうだが、他のひとに対しては、彼女もこんなじゃない。
もしかすると不破も…他の人の前では、違う面をみせているのだろうか?
きっとそうだろう。
彼女が知っている不破は、彼のすべてではないのだ…
「この間の公園に九時半、本当に昼食のお弁当をお願いしてもよろしいんですか?」
愛美は不破の言葉に我に返った。
「あ、はい」
「私は貴方の手作りが口に出来て嬉しいですが…用意される貴方は大変でしょう?」
「下ごしらえはしたので。でも、優誠さんのお口に合うかは、お約束出来ませんけど…」
愛美はだんだん不安になってきた。
「やっぱり、優誠さんのおっしゃる通り、買って持って行ったほうが良かったでしょうか?その方が美味しいに違いありませんし…」
「まなさん、けしてそんなことはない」
不破がひどく慌てて叫んだ。
「え?…あ、あの?」
「私が言ったのは…そういう意味ではないのです。もちろん…」
「あ、はい」
「ただ、貴方が大変だろうと…そう考えただけなんです」
「それなら…。でも、あまり期待しないでくださいね」
「わかりました。怪我をしないように…気を付けてくださいね」
「怪我?」
「刃物を使うでしょう?」
「それは、あ、はい」
「手を切ったりしないように…」
「包丁を研いだすぐ後だとそういうこともありますけど、大丈夫です」
「不安だな」
ぼそりとひとり言のように不破が言った。
「不安?」
「怪我をして欲しくないんですよ。刃物を使わずに出来る料理にしてはどうですか?」
ひたすら真剣な不破の声に、愛美は呆気に取られた。
「大丈夫です。いつも使っているん…」
「家政婦を雇ってはどうかな?」
はい?
彼女は声に出さずに不破に問いかけていた。
「私の知っている派遣会社に、これから頼みましょう。きっといい人が…」
愛美は慌てた。
「ち、ちょっと待ってください。家政婦とか、ありえませんから…」
愛美は携帯を耳に押し当てたまま、ブンブンと首を振った。
ありえない、ありえない…
不破の思考は、愛美の理解の及ばないところにいってしまっている。
愛美は顔を歪めた。
だが、彼はひたすら真剣なようだ。
いったい…どうしたらいいのだ?
「私からご両親にお話ししましょう」
愛美は思わず叫びそうになった。
不破の思考は、さらに高みへと上って行くようだ。
「万が一、指に怪我をしてしまったら、学業にも支障がでるんです。きっと、私の意見に耳を貸されると思いますよ」
いや、貸さないだろう…
彼女はきっちりと首を横に振った。
「あの、ですね、優誠さん。普通の家庭は、お料理は家族が作るものなんです」
「もちろん、そうです。でも、それは…」
不破はなぜか突然言葉を止めた。
無言の時がしばらく続き、愛美はそわそわした。
「あの?優誠さん、どうしたんですか?」
「貴方は私に…とても重要なことをまだ話していませんね?」
不破の声は、ひどく重く低かった。
愛美はぎょっとして息を止めた。
「えっと…あの…?」
「そうだった…考えればわかることだった…貴方は…」
「優誠さん?」
「これまで、貴方は…お母上のことを…口にされたことが無かった…」
「あ…」
不破が深く息を吸うのが聞こえた。
「お聞きしても、よろしいでしょうか?」
「母のことを?」
「ええ」
本当は、なんとなく、口にしたくなかった。
亡くなった母のことを口にすると、彼女の気持ちが自然と重くなるからだ。
彼女は不破との楽しい時に、そんな重い空気を混ぜたりしたくなかった。
けれど、いま、話さないわけにはゆかなそうだ。
「亡くなったんです。中学の時。でも、お料理は好きで、母が健在だった頃から作ってたんですよ」
愛美はわざとあっさりと告げたし、会話が重くならないようにと考えて明るく話し続けたのに、不破は、なんの返事もしなかった。
沈黙が続き、愛美は戸惑いながら不破に呼びかけてみた。
「あの、優誠さん?」
「自分が情けない…」
「ど、どうしたんですか?」
「ひどく情けない気分です…。何も出来ない、何もしてあげられない自分が情けない。…いまのいままで、気づかなかったことも…」
不破の悔いを含んだような溜息が聞こえた。
「これまで不可能なことなど何もなかった」
不破らしいと言える言葉だった。
確かに、彼に不可能なことなどないだろうと愛美にも思えた。
「…なのに、貴方と出会ってからは、可能なことの方が少ないくらいだ。…思うままにゆかないことばかりだ…」
不破の告白に、愛美は息が詰った。
「時間ですね…」
不破がぽつりと言った。
過ぎる時を、恨んでいるような口ぶり…
電話を切ったとき、愛美は不破の大きすぎる愛に圧倒される思いだった。
その愛を受け取る資格が自分にあるのだろうか?
愛美はそれについて考えるのを止めた。
それを決めるのは不破であって、愛美ではないのだ。
|
|