|
その47 両の頬に甘いキスを…
ブランコに乗って見上げた空には、わたがしのように甘そうなふんわりした雲が、あちらこちらにぽこぽこと浮かんでいた。
吹く風も頬にやさしい。
愛美は膝に置いているお弁当の入った藤のバスケットを、上の空で抱えなおした。
ふたり分のお弁当は、思ったよりも量が多くなってしまった。
不破がどれくらい食べるのか、まったく予測がつかなかったのだ。
それに、着る服を選ぶのに、こんなに悩んで時間を掛けたのも初めてのことだった。
彼女は自分が身につけている服を、つぶさに点検した。
百代がとても素敵だと褒めてくれた上着にブラウス。そして、ジーンズ。
髪は垂らしていた。
もちろん不破が、垂らしている方が好きだと言ったから…
髪のひと房を指で摘み、毛先をじっと見つめているうちに、愛美はやたら恥ずかしくなってきた。
自分が特大の愚か者になった気がして仕方ない。
だからといって、髪を束ねる気にもなれないのだ。
胸はやたら切ないし、不破のことを考えると頭の中は悩みでいっぱいになる。
先行きは不安だらけだし、愛美が彼とともにいる未来など、これっぽっちも見えて来ない…
それでも…一緒にいたいのだ…
やはり、恋は人を愚かにするらしい…
急激に胸にせりあがるものがあり、愛美は思わず涙ぐみそうになった。
彼女は盛大にため息をついて、涙を回避した。
まったく…
手に負えなくなってきたこの脆すぎる涙腺を、なんとか修復できないものだろうか?
徳治は早朝、七時くらいに愛美の作ったお弁当を持って、山の家へと出掛けて行った。
不破と会うのは、今日で六回目だ。
愛美は空に浮かぶ雲を見つめながら、不破と出逢ってから今日までのことを思い返した。
藤堂家のパーティーでの初めての出会い…
翌週の土曜日に、保志宮に連れられて行った公園での、思いがけない再会…
そしてその次の日、河原の公園で待ち合わせをした。
河原の公園で不破と逢った時のことを思い出しているところに、不破の車が、前と同じ位置に停まった。
愛美はすぐに立ち上がり、車の方へ歩き出したが、不破もまた車を降り、彼女の方へと駆け寄って来た。
「遅刻してしまって、すみませんでした」
愛美の目の前に来て、不破は彼女が持っている荷物に手を差し出しながらそう言った。
彼女は見慣れない不破にドギマギしながらバスケットを差し出した。
彼の前髪が目を隠すほど垂れていて、これまでとずいぶん印象が違うのだ。
髪型だけに限らず、ずっとスーツを着ている不破しか見たことのなかった愛美の目に、濃紺のシャツに黒いスラックス姿の彼は、ひどく新鮮に映った。
上着を着ていないせいで、すらりとした肢体が、さらに際立ってみえる。
けれどどんな服装をしていても、彼の気品は損なわれないようだった。
「遅刻?」
彼女は戸惑いながら不破に言った。
「あれほど九時半と、繰り返し約束の時間を念押ししたのは私なのに…三十分も遅刻してしまって…」
三十分?
いつの間に、そんなに時間が経ったのだろう?
「そ、そうなんですか?」
「え?」
逆に戸惑ったような眼差しを不破から向けられ、愛美は照れた笑みを浮かべた。
「ちっとも気づいてませんでした。ブランコに座って、空の雲みたり…あと色々…」
「色々?」
「はい…色々…優誠さんとのこと思い出したりしてたら…」
「私とのこと…?」
今日の彼の青い瞳は、太陽の光線が加担してか、いつもより真っ青に見える。
じっと見つめていた愛美は、彼の瞳に吸い込まれてゆくような気分に囚われた。
「六回目なんだなって…お逢いするの…」
どこか遠くで、自分の声が聞こえた…
「そうですね」
心地よく響く不破の低い声が、愛美の胸を悪戯に震わせる…
きらめいている不破の瞳…
…なんて…綺麗なんだろう…
目の前に影が差し、不破の瞳が視界から消えた。
愛美の額の前に、不破の手のひらがあった。
驚く間もなく不破の指が額の生え際に触れ、愛美の前髪をそっと撫でた。
その突然の触れ合いに、愛美は小刻みに身を震わせ、反射的に目を閉じた。
ゆっくりと瞼を開いた彼女の視界に、不破の笑みのない瞳があった。
「そんな瞳で見つめられたら…我を失くしてしまいそうです」
そんな瞳…?
愛美はパチパチと瞬きした。
いったい愛美が、どんな目をして不破を見つめていたというのだろう?
「行きましょう」
その言葉とともに、不破が手を差し出してきた。
愛美は考えることなく、彼の右手に右手を重ねた。
彼は愛美の手をぎゅっと握り締めると、彼女の背後に回り込み、愛美を促して歩き出した。
右手同士を繋いだためだ。
不破の右腕に抱かれるような形になっている自分に、愛美はどぎまぎした。
「遅刻したお詫びを、何かしなければ…」
バクバクと暴走途中の心臓に手を焼いていた愛美は、不破の声に意識を凝縮させた。
「お詫びなんていいんです。わたしも河原で遅刻したし…だから、おあいこです」
車の助手席のところで立ち止まった不破は、上半身を曲げて、愛美の顔を覗きこんできた。
「逢うたびに驚かされる」
愛美は眉をひそめた。
…その言葉は、やはり、彼女に向けられた言葉なのだろうか?
そうなのだろう。
ここには他に誰もいないのだし…
不破は助手席のドアを開け、彼女に乗るようにと促した。
愛美は乗り込む前に、不破に振り向いた。
「驚かせる…?」
「ええ」
何を考えているのか、不破の笑みが広がった。
助手席に座った愛美は、不安に駆られ、自分の身体を眺め回した。
不破が驚くような、おかしなところがあるのだろうか?
だが、見つけられない。
自分のすべてが不安になり、無意識に頬に手を当てた愛美は、運転席に座っている不破の潜めた笑いに気づいて顔をあげた。
「わたしのどこがおかしいんですか?」
不安と泣き出したいような気持ちに囚われた愛美は、いくぶん責めるように不破に問い掛けた。
彼女の責めを帯びた問いをわざとはぐらかすように、不破は眉をあげてみせた。
彼が、何かひどく愉快がっているがわかる。
それがなぜなのか分からないもどかしさに、愛美は口元を強張らせた。
「おかしいなどとは、口にしていませんよ」
笑い顔でそう言われて、愛美はさらに泣きたくなった。
「でも、優誠さん、わたしのことを笑ってるじゃありませんか」
愛美の声が震えたからか、不破が笑みを引っ込めた。
「すみません。からかってみたくなって…」
からかう?
「意味が分かりません」
「可愛いすぎるからですよ」
不破はどこか責めるように言うと、ハンドルに腕を掛けて愛美の方へ屈み込み、彼女の赤くなった左頬にすばやくキスをした。
愛美は呆気にとられた。
彼は愛美にシートベルトを装着させ、戻り際、もう片方の頬にもキスを落とし、上体を戻してサングラスを掛けると、すぐに車を発車させた。
いったい今、何が起きたのだ…?
愛美は固まったまま、しばらく身動きできなかった。
|
|