シンデレラになれなくて


その49 コスモスの花



不破の提案で、ふたりは公園内を散策する前に、ベンチに並んで腰かけてパンフレットを開いた。

森林公園は、巨大な広さを持っているようだった。

愛美達が入ってきた東門の辺りは、ワンパク広場という名称がついていて、先ほどの滑り台をはじめ、様々な遊具が散らばっている。

右方向に行くと、アスレチックコースがあり、ベンチからでもたくさんの人が遊んでいる姿を見ることが出来た。

子どもだけに限らず大人の姿も多く、中には奮闘している母親もいるようだった。

ワンパク広場をまっすぐに突き抜けると植物園があり、そのまま進んでゆくと自然歩道に展望台があるらしい。

そして、左側にゆくと大きな池があり、だだっ広い芝生の広場があり、ミニコンサートなどが出来る会場があるようだった。

「クラシックはお好きですか?」

「はい。好きですけど…」

不破がパンフレットについていた、一枚の小さな紙を摘んで愛美に見せた。

ミニコンサート会場で、バイオリンとビオラの演奏があるようだった。

午前の演奏開始は、十一時からで、後五分ほどで始まるらしい。

「行ってみますか?」

愛美は頷きながら立ち上がった。

ふたりは急ぐでもなく会場の方へと向かった。

着いた時には、すでに会場は満杯で中には入れなかったが、屋根のある吹き抜けの会場だったため、周りの芝生に座っていれば、聴くことができるようになっていた。

もちろん外に洩れてくる音は、会場の中で聴く音とは違うだろうが…

木陰の下になる、ベンチの空いたところを見つけて、ふたりはしばらく流れてくる音楽に耳を傾けて過ごした。

メンデルスゾーンの春の歌の曲が、空気中に音の振動を伝えているなか、不破は握り締めたままの愛美の手を愛しげに撫でている。

愛美の全ての感覚は、不破が触れているその一点に集中していた。

「クラシックで、好きな曲はありますか?」

特殊な熱にくらくらする頭で、愛美は不破の静かな声を聞き取った。

唇は、頭と切り離されたところで自然に開いた。

「夢…ドビュッシーの…」

噛んで含むような時が流れた。

「貴方らしい曲ですね」

不破の親指と人差し指が、愛美の人差し指を、やさしくついばむように摘んでいる。

「そ、そうですか?」

愛美はやたらドキドキ跳ねている心臓を落ち着かせるために、不破に悟られないようにふーっと息を吐き出した。

頬が赤く染まってきているに違いなかった。

それを目にして、不破はどう思うだろう?そのことがひどく気になった。

不破が指を離してくれれば、平常に戻れるだろうが、離して欲しくはないのだ。

ついばむようなふれあいは、愛美の芯に、これまで経験のない甘い疼きを与えてくる。

「…優誠さんは?どんな曲がお好きなんですか?」

愛美は不破に尋ねた。

もちろん彼のことを知りたい気持ちに促されてのことだったが、慣れない疼きを沈めるために、問いは気を散らす役にも立つと思えた。

「そうですね。ドボルザークの新世界…勢いと宇宙を感じさせる」

「不破さんらしいです」

微笑みの浮かんだ不破の瞳を、愛美は見つめ返した。
愛美の視線に絡むように不破が見つめ返してきた。


どうやら、ふたりの知らぬ間に時が過ぎたようだった。

ふたりして我に返ったときには曲が変わっていて、ブラームスのハンガリー舞曲が流れていた。

「驚いた…な」

不破がひとり言のように呟いた。
愛美も彼と同じだけ驚きに包まれていた。

「違う場所に行ってみませんか?ランチの場所を探しましょう」

彼らしくない焦りを見せて、不破はそう言った。

周囲では、芝生にシートを広げてお昼の時間を楽しんでいる人々もいたが、愛美は不破の言葉に従った。

彼はどこか違う場所で、昼食を食べたいのだろう…

ふたりはそれぞれの好きなクラシックの曲について語りながら、植物園に向かった。

「まなさん、お詳しいですね」

「それほど詳しいわけではないんですけど…クラシックは、父がとても好きで…物心ついた頃…から…」

愛美は口元に指先を当て、語るのを止めた。

「まなさん?」

自分の口を封印するように唇に指を当てたまま、愛美は彼の顔を見つめ返した。

不破が愛美の手首を優しく握り締め、そっと外した。

「いま貴方の喉元に封じ込めている言葉を、話してくださいませんか?」

不破の強い求めを感じた。

通路の左側に、大きな池が見えていた。
緑色の湖面に、鴨が2羽、静かに浮かんでいた。

その池の周辺には、たくさんのコスモスが咲き乱れていた。

ここがパンフレットに載っていたコスモス花畑なのだろう。

「母がとても好きでした。コスモスの花」

「そうですか」

「家の近くにコスモスの花がいっぱい咲いている場所があって、蜜蜂が…」

愛美は自分の話が逸れてしまっていることに気づいて言葉を止め、照れて笑った。

「父はピアノが弾けるんです。でも母はあんまり…というか、全然弾けなくて…わたしが物心ついた頃、母とわたしは一緒に、父にピアノを習い始めたんです」

「いいですね。ほのぼのとして…」

愛美は思い出の情景を見つめて笑みを浮かべた。

母の顔…そして母を見つめる不器用な父の…今は見ることのない幸せそうな笑み…

「でも…母はなかなかうまくならなくて…いつも…」

愛美は思い出を辿って、言葉の途中で吹き出した。

「…拗ねてました」

くすくす笑いが止まない愛美に不破もつられたのか、吹き出した。

「父は拗ねている母をなだめようとするんですけど…いつもひどく苦心してて…あまり言葉がうまくないひとだから…」

「そうですか」

思い出に押しつぶされそうになっていた愛美は、不破の相槌の声に、心が温かく緩んでくるのを感じた。

愛美は無意識に繋いでいた手に力を込め、不破の手を握り締めていた。

彼の手は、どうしてこんなに愛美にやさしいのだろう?

「まなさんのピアノを、聴きたいですね」

愛美は笑みを浮かべて、否定するように首を振った。

「やめてしまったから」

「ピアノに飽きてしまったんですか?」

「母が亡くなったから…」

愛美は目の前で揺れているコスモスの花を、歩きながら指先でそっと突いた。

「父が思い出すみたいで…わたしがピアノを弾くと…父も弾こうとはしないですし…」

不破の大きな手が、小さく首を振る愛美の頭を抱え込み、自分の胸に引き寄せた。

ふたりはどちらからともなく足を止め、しばらくその場に立ち止まった。

愛美は不破の温もりを、心の痛みに沁みこませていった。

通りすがりの人がいて、人の目が気にならないことはなかったが、いまの愛美には不破の体温が必要だった。


植物園には秋の花が豊富に咲き乱れていた。

遠く黄色く色づいたイチョウの葉が目を引き、緑の木々の中では、赤く染まった紅葉も、その存在を誇示している。

花を眺めて歩きながら楽しんでいる人々の中には、高級そうなカメラを見事な風景に向けている人々も多かった。

風船かずらの緑色の、思わず微笑んでしまいそうなふわふわとした実を横目に、愛美は不破のリードで木々に囲まれた小道へと入って行った。

展望台近くの、ひとのいない東屋を見つけたふたりは、やっと椅子に腰を落ち着けた。

不破は愛美の真向かいではなく、彼女の隣に座ってきた。

昼を過ぎた日差しは、思ったよりも強く照り付けていて、愛美も喉の渇きを覚えていたところだった。

「優誠さんの、お口には合わないかもしれませんけど…」

バスケットの中からお弁当の包みとお茶の入った水筒を、お弁当作ると言い出した自分をいくばくか悔いながら、愛美は取り出した。

「お弁当を食べることなど、あまりありませんから、楽しみにしていました。まなさんの手作りですから、なおさら…」

不破の顔は期待にキラキラと輝いているように見えて、愛美は一層気後れした気分に陥った。

「そう言われてしまうと…困ります」

不破は、お弁当の蓋を開けて中身を覗き込み、嬉しげに微笑んだ。

愛美は紙皿と割り箸を不破と自分の前に置いてから、ふたり分のお茶を注いだ。

「玉子焼き、好きですか?」

愛美は玉子焼きを箸で摘み、彼の分の紙皿に載せる前に、不破に尋ねた。

次の瞬間、箸の先の玉子焼きは、ぼとりと紙皿の上に落ちた。

愛美の身体は不破の胸の中にあった。

彼女は不破の肩に顎を乗せ、驚きからパチパチと瞬きし、自分の現状を遅れて認めた。





   
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