シンデレラになれなくて


その50 消えることのない存在


「とても美味しかった」

愛美は不破の言葉に笑みを浮かべた。

父は愛美の手料理を食べてあまり褒めることはないし、これまで愛美の作ったものをひとに食べてもらったことも無かった。

「ひとに褒めてもらえるのって、すごく嬉しいですね」

愛美はバスケットの中に、ほとんど空になった弁当箱をしまいながら、心からそう言った。

「父は、美味しいと思ったとしても、口に出して褒めたりはしないひとですから…」

「また、食べさせていただけますか?」

「はい」

「約束…ですよ」

強調された言葉に愛美は笑みを引っ込め、不破を見つめた。
彼は軽い口約束などではなく、必ず果たされる約束を望んでいるのだ。

愛美は彼とのこれからの可能性を見つめ、それでも「はい」と口にして頷いた。

不破との間にある内緒事を、もう話してしまいたい。
けれど、百代に尋ねずにそれをするのは躊躇われた。

愛美が高校生だという事実は、不破との間に亀裂を生じるだろうか?

不破は軽くなったバスケットを取り上げ、自分の傍らに置いた。

日差しが木立の向こうに隠れ、影になったために、東屋はほんの少し肌寒く感じた。

「まなさん、寒くは無いですか?」

寒いと言ったら、不破は自分の持っているジャケットを愛美に着せるつもりだろう。
だが、シャツ一枚の不破の方が寒いに違いない。

「わたしは大丈夫です。優誠さんこそ、ジャケットを羽織った方がいいです」

「ほんとうに?」

「はい」

どうしたのか不破は、愛美の着ている服を仔細に眺め始めた。

「素敵なデザインの服を、着ておいでですね」

彼はまるで、いま初めて目にしたかのような顔で、そう口にした。
愛美の服に、彼は突然興味を惹かれたらしかった。

「あまり見ないでください。恥ずかしいですから」

「どうしてですか?とてもよく似合っておいでですよ」

「自分で作ったものだから…」

不破が目を見開いた。

愛美が自分で服を作るという事実は、なぜかひどく彼を驚かせたようだった。

「まったくあなたには驚かされるな。多種多様な才能がおありになるんですね」

才能という大袈裟な言葉に、愛美は恥ずかしさに頬を染めて吹き出した。

「そんな大それたものではありませんから。こんなの誰でも作れます」

不破が顔をしかめた。

「どうしたんですか?」

「いえ…私の母が聞いたら、ショックで寝込みそうだなと思えて…」

「え?」

愛美は自分の失言に気づいてうろたえ、真っ赤になった。

不破の母は、どうやら縫い物が苦手らしい。

「す、すみません」

「いえ、いいんですよ」

不破はそう言うと、くすくす笑い出した。

「人それぞれ得意分野がありますから。母には母のいいところが…」

不破は笑いながら、いったん視線を空に向けて両手を広げた。
そして、それ以上の言葉を諦めたようにパタンと両脇に下ろした。

「もちろんです。ひとはみんな、得意なことが違います」

不破は何を考えているのか、苦笑を堪えきれないようだ。

「逢って欲しいですね。母に…。母は、きっと貴方を気に入る」

不破は確信を込めて言ったが、愛美はとても同意出来なかった。

愛美は首を小さく左右に振った。

彼女の頑なとも取れる表情をその瞳に捉えて、不破はひどくもどかしそうに顔を歪めた。

「難しいことじゃない。ただ逢うだけなんですよ。私がついているんだから、誰にも貴方を傷つけるようなことはさせない」

説得するようなその言葉には、これまでと違い、かなりの苛立ちがあった。

「釣り合いというのがあります。きっと優誠さんのご両親は、優誠さんと釣り合いの取れる家柄の…」

自分で口にしているのに、胸の苦しさに襲われ、愛美は最後まで言葉に出来なかった。

不破が両手を突き出してきて、愛美は両腕を強い力で掴まれた。

「それでいいとおっしゃるんですか?貴方は私が他の女性と結婚しても平気だと…」

激情に駆られた不破は、愛美の身体を前後に揺さぶった。

愛美は心の痛みに襲われて不破から顔を背け、噛み切ってしまいそうなほど強く、唇を噛んだ。

「でも、周りのひとの気持ちを無視しては…本当には幸せになれません」

不破は右手で愛美の顎を捕らえて、彼に無理に向けさせた。

これまで見たことがなかった容赦の無い不破の行動と表情に、愛美は驚いた。

彼は愛美の顎をその手に捕らえたまま、ふたりの視線を結んだ。

青い瞳の奥に怒りの炎が見えた気がした。

「はっきり言って。私にはその意志があります。周囲がどれだけ反対しようとも」

不破の唇が愛美の唇を塞いだ。

激しい怒りがこもっていた不破の唇は、初め乱暴に触れたが、すぐにやさしい触れ合いへと変化した。

愛美はパニックに襲われたまま、不破の唇を受け入れていた。

混乱した頭の中で、愛美は自分に問いかけた。

どうしてパーティーなどに行ってしまったのだろう?
どうして不破と出会ってしまったのだろう?

もしも…不破が愛美の世界から消えてしまったら…彼女は…

もう元には戻れないのだ…不破を知らなかった時には…

『彼はもう引き返せないんですよ』

保志宮の言葉が、脳裏にまざまざと蘇った。

愛美に思い知らせようとでもするように、執拗にキスを繰り返す不破の頬に、愛美は両手でそっと触れた。

彼は唇を離して、愛美を見つめてきた。

長い口付けのせいで、少し赤く染まった不破の唇。上気した頬。

そして不破の瞳には、愛美と同じ痛みがある。

熱い息が愛美の唇に触れ、彼女は心にある愛しさの重さに押しつぶされそうになった。

彼女は愛美を見つめている不破の瞳を見つめながら、彼の熱い唇に、自分から唇を重ねた。





展望台の上からの眺めは、想像以上に心を捉えるものだった。

少し寒くはあったけれど、とても気分が良かった。

観覧車の頂上部分だけが、展望台から見上げる位置にある。

ゆっくりと回転している観覧車の原色の赤や青の色は、自然のものとは違和感があるようでいて、なぜかとても風景に馴染んでいるように愛美には思えた。

愛美は背中に何かがそっと触れているのを感じて、後ろに振り向いた。

不破の手があった。愛美の髪にやさしく触れている。

愛美はこの触れ合いが怖くもあった。
失くしたときに…愛美はどれほどの虚無感を心に持つことになるだろう…

「もう少し…待ってください」

愛美の言葉の意味を不破は理解したようだった。

彼が愛美の肩に手を置き、ふたりは向かい合った。

「これだけ聞かせてください」

不破は愛美の瞳を覗き込み、口元を強張らせて言葉を続けた。

「貴方の未来に…私は存在していますね?」

重い言葉だった。
愛美は不破の瞳を見つめ返し、そして頷いた。

「言葉で聞きたい。はっきりと、存在していると…」

「…存在…しています」

愛美は不破に苦しいほど強く抱き締められた。
抱き締められた苦しさとは別に、愛美の目に涙の粒が浮かんだ。

不破が、愛美の心からいなくなることはけしてない。
たとえ、ともにいることがなくなったとしても…





   
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