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その6 杖をひとふり
「落ち着きなさいな。愛美」
蘭子にいくらたしなめられても、愛美は部屋の中を歩き回ることをやめられなかった。
1時間後には、蘭子の父親が主催するパーティーへ出かけることになっている。
今この場には、蘭子の姉の橙子もいて、愛美をみてくすくす笑っていることにももちろん気づいていた。
愛美の表情には、いつもの冷静さなど微塵もなかった。
緊張して胃が引きつりそうなのだ。
髪をセットしてもらっている百代と、鏡越しに目があった。
彼女は愛美を見て、愉快そうに笑っている。
愛美はみんなの背後から、そっと鏡を覗き見て顔をしかめた。
そこには眼鏡を掛けて気を張りつめた、青白い顔の、見るからに冴えない女が映っている。
蘭子にパーティーに適したドレスを借りることになっているから、身なりだけはおかしくないようにできるだろうが…
来るつもりはなかったのに…
蘭子の剣幕と、ほんのちょっぴりの好奇心が頭をもたげ、のこのことやってきてしまった自分を愛美は呪いたかった。
上流階級とか庶民などという言葉になど、なんの思いも抱いていなかったし、人間なんてみな同じ式の考え方だったのに…
愛美は自分が一般庶民なのを、つくづくと思い知っていた。
百代の髪のセットと化粧が済み、大変身を遂げた友を賞賛の面持ちで見つめたあと、愛美は覚悟を決めて美容師の前に座り込んだ。
彼女の三つ編みの髪がほどかれ、美容師が櫛で梳き始めた。
「素晴らしい髪をお持ちですね」
お世辞なのか、やさしい心配りか、美容師が感嘆の声を洩らした。
「でしょう。愛美の髪って、ほんとつやつやできれいなの。手触りも最高よ」
蘭子がまるで、自分の自慢のように言った。
その褒め言葉はくすぐったすぎて、愛美は恥ずかしさに頬を赤らめた。
褒められるという立場に慣れていないせいで、どうにもいたたまれない。
「アップにしたりしないで、このまま垂らしたらどうかしら?」
美容師が、蘭子の指示通り、まとめ上げようとするのを見て、橙子が遠慮がちに口を挟んだ。
「うーん。それもいいでしょうけど…。やっぱり、今日のところはぐんと大人っぽくしあげて欲しいの。じゃないと、大人な男たちの目に妹としか映らないかもしれないわ。それじゃあ、今夜の意味がなくなっちゃうもの」
そんな意味など、なくなった方が良いのだが…
蘭子の意見が通り、愛美の髪は幾筋か髪を垂らした見事なアップに仕上げられ、小さな白い花を模した髪飾りが、頭のあちこちにたくさんつけられた。
髪型は文句のつけようもなかったが、眼鏡を掛けているのがアンバランスで、滑稽にしかみえない。
蘭子と橙子の華やかさ、そして愛らしい百代と自分を比較して、愛美はズンと気落ちした。
髪をセットし終わると、すっと眼鏡が外された。
「あら」
美容師が、いささか驚いたような小さな声をあげた。
愛美は右と左に瞳を動かし、いったい何が驚きの原因となったのか探したが、さっぱりわからなかった。
鏡に映る、ぼんやりとした自分の顔にぼんやりとした色が付けられてゆくのを、愛美は辛抱強く待った。
思いやりのあるみんなは、パーティーに乗り気でない愛美の意気をあげようという心配りか、出来上がった愛美の顔を見て、ひどく興奮した叫びをあげた。
「愛美の目って、こうして化粧すると、さらに大きくなるわね」
蘭子が新発見というように笑い声に混ぜながら言った。
「愛美さんは、体格の割りにお顔がちっちゃくていらしゃるから」と、橙子。
「ああ、そっか。それで目の大きいのが、なおさら目立つのね」
百代が納得したように言った。
蘭子の用意してくれたドレスに袖を通す時だけは、愛美もドキドキしながら笑みを零した。
こんなドレスを着ることなど、この先なかなかありそうもない。
百代のドレスは、これしかありえないだろうというくらいぴったりのピンクのフリフリで、百代を童話の中のお姫様に仕立てている。
その蘭子自身はというと、黒っぽい銀色の、身体のラインをくっきりと際立てるドレスで、同じ銀色の大輪の薔薇を飾った彼女は、とても17歳とは思えないセクシーさだった。
蘭子は、百代と愛美の出来上がりをみて、自分のドレスの選択は間違っていなかったと、やたら嬉しそうだった。
愛美のドレスは、濃いクリーム色で、襟元をくるりと囲むように、やわらかな素材で作られた可愛らしい小花が散らしてあった。
控えめなフリルが効果的に付けられ、そのフリルには、ほんの少しラメが散りばめられ、控えめに輝いている。
可愛らしく、それでいてとてもエレガントなドレスだった。
ただし、やたら胸元が開いていた。
着替えを終えた愛美を一瞥した全員の視線が、彼女の胸元に注がれたらしかった。
すでに眼鏡を取り上げて返してもらえない愛美には、はっきりと確認できなかったが…
「愛美のその胸は、マシンガンくらいの威力があるわ」
「マシンガン?…ねぇ、胸のところが開きすぎじゃない?」
「何言ってるの。私のも、姉様のだって同じくらい開いてるわよ」
叱るように言った後、蘭子が愛美の胸をじーっと見つめてきた。
「それにしても、愛美のおっぱいのふくらみは、手にとって食べたくなるくらい美味しそうだわ」
蘭子はそんなとんでもない発言をし、愉快そうにケラケラ笑った。
横にいた蘭子の姉が、妹を小声でたしなめた。
愛美は自分の胸を見下ろし、不安感でいっぱいになった。
「ね、ねえ…わたし、やっぱりやめておくわ。ここでビデオでも見ながら暇つぶしてる方がいいの。お願い、三人で行って…」
小さな白いバックの、金色の細い鎖を引きちぎりそうなほど堅く握り締め、愛美は駄目と分かっていても、最後にもう一度懇願せずにはいられなかった。
「いまさら何言うのよ。支度もできてんのに、行かないなんて許さないわよ」
蘭子は唾を飛ばす勢いで怒鳴りつけるばかりで、まるで取り合ってくれない。
緊張してヨレヨレの胃が、蘭子の怒号パンチを食らってずきんと痛んだ。
「別世界を見るチャンスじゃない。行こうよ。愛美が行かなきゃ、わたしがつまんないもん」
そう愛美をなだめるように言う百代は、もちろん浮いたりしない。
カールした柔らかな後れ毛がふわりと額に掛かった百代は、砂糖菓子みたいに甘くて、とても可愛い。
パーティー会場でも、ずいぶんと人目を引くことだろう。
美人の蘭子と橙子の姉妹に至っては、パーティーの華になること間違いなしのあでやかさだ。
ここに、年老いたやさしい魔女が現れて、杖をひとふり、魔法の力で百代のように、蘭子や橙子のように、輝く姿に変身させてくれたなら…
けれど、魔女も魔法も存在しない…
おとぎ話は…おとぎ話でしかないのだ…
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