シンデレラになれなくて


その8 悪漢と勇者



「愛美、わたし、おトイレに行って来るから、これ持ってて」

愛美が小さくカッティングされたケーキを頬張っているところに、百代が皿を差し出してきた。

「わたしも一緒に行くわ」

ただでさえ視界があやふやなうえに、こんな場所にひとりきりにされたくなくて、愛美は焦って言った。

どうやらこの会場に集まった男性たちは、この場にいる女性全員に、公平に声を掛けなければならないという使命に燃えているようなのだ。

いままでは百代がいてくれたから、適当に相槌を打ち、手に負えなくなると、ふたりしてそそくさとその場を離れるというやり方で回避できたが、ひとりではその自信もない。

「駄目だよ。食べかけのお皿、持ってけないもん」

百代にぴしゃりといわれて、愛美はひるんだ。

「だ、だって」

「すぐ戻るって」

百代は安心させるように軽く愛美の肩を叩くと、両手に皿を持った愛美を置き去りにして、一番近いドアへと小走りに駆けて行ってしまった。

「こんにちは」

まるで愛美がひとりになるのを待ってでもいたかのようなタイミングだった。

背後からの、突然の声はひどく親しげで、愛美はぎょっとして振り返った。

当然だが、まったく見も知らぬ男性が、声と同じ親しげな笑みを浮かべて、驚くほど至近距離に立っていた。

近距離には困惑したが、そのおかげというか、相手の顔はそれなりに確認できた。

「はじめまして…かな?」

何か素直に返事を返せない、裏のありそうな笑みで、愛美の全身は固くこわばった。

愛美の様子を敏感に悟ったのか、相手は親しげな笑みを巧みにひっこめた。
そのさまは、ひどくずるがしこくみえた。

愛美は強張った足を無理に動かし、やっとの思いで半歩、あとじさった。

「私は芝下といいます。君は?どこのご令嬢かな?」

いきなり話しかけられて、戸惑う愛美が両手にしている皿を、芝下と名乗る男性は、一枚ずつ取り上げてテーブルに置いた。

「わたし…れ、令嬢なんかじゃありませんけど…」

愛美はうわずりながら答えた。
その無様な返事に、芝下という男性は愉快そうな顔をした。

「それじゃ、君の名前は?」

答えるのが当たり前というような強引な言葉だった。
だが、素直に答える気になど、とてもなれない。

芝下は、手にしている黄色身を帯びた色の液体が入ったグラスを差し出してきて、有無を言わさず愛美に握らせた。

愛美はこの場からいますぐ逃げ出したかった。
けれど、慣れない状況に心が萎縮したのか、足が竦んで動けない。

「喉が渇いてるんじゃないか?冷たくておいしいよ、一口飲んでごらん」

なんだか、面白半分にいたぶられているような気がした。

「あの、わたし、あの、行くところがあるので…」

声が隠しようもなく震えた。
相手が笑いを噛み殺したのに気づいて、愛美の頬が熱くなった。

「行くところ?どこ?一緒について行ってあげるよ」

動かない足に、恐怖が這い登ってくるようだった。
彼女は必死に顔を横に振った。

「お、お構いなく」

どう頑張ってもうわずる自分の声に、愛美は泣きたくなった。

相手はそう簡単に引き下がる様子もなく、彼女は男性を振り切れないことに、さらなる恐れが湧きあがる。

「遠慮はいらないよ。どこに行きたいんだい」

相手が、すっと手を伸ばしてきて、手首を掴まれた。
彼女はぞっとして目を見開き、無音の悲鳴を上げた。

「芝下」

押さえ込んだような低い声がした。

その声は、救世主のように思えた。
彼女は助けを求めて声に振り向いた。

「彼女、嫌がってるようだぞ。その手…放せ」

ありがたいことに、手首はすぐに自由になった。

「不破の坊ちゃん、ずいぶんと忙しそうだったが、もうやってきたのか。残念」

坊ちゃんという呼び名に、不破という男性から怒りが発したような気がした。
芝下という男性は、肩を竦めるとあっさりその場から立ち去った。

芝下を見送ってでもいるのか、不破は少しの間黙り込んでいた。

「大丈夫ですか?あいつは強引なやつだから」

不破というひとは、とても礼儀正しいひとのようだった。
それに、名前からして、先ほど愛美が壁と間違えたひとと同一人物のようだ。

愛美は緊張を解いて頷くと、ほっと息を吐いた。

「ありがとうございました」

「うむ」

とても短い言葉なのに、彼が口にするとひどく凛々しく聞こえた。
顔はまだ見ていないが、声だけに酔うということは現実にあるようだった。

「先ほども…あの、失礼しました」

「気づいてもらえていたんですね」

「いまの方が、不破っておっしゃったから、そうかなと思って。ぶつかってしまって、すみませんでした」

愛美は申し訳なさを込めて、礼儀正しく、深く頭を下げた。

「ええ、そうですよ。でも、ぶつかったというほどではない。私の身体にちょっと触れた程度で…」

愛美は恥ずかしさにかられ、気まずげに唇を噛み締めた。

そして百代の姿を探して、そっと周りを見回した。
百代はまだ戻ってこないのだろうか?

「どなたか…探していらっしゃるんですか?」

「ええ、友達が…そろそろ戻ってくるはずなんです」

愛美は顔をしかめて、百代が消えたドアの辺りを窺った。

「百ちゃんったら、どうして戻って来ないのかしら…」

愛美はため息をつきながら呟いた。

「彼女が戻ってくるまで、ご一緒していいかな?」

「え?」

「迷惑かな?」

愛美は戸惑い、なかなか言葉を返せなかった。
相手は辛抱強く、愛美の返事を待っているようだ。

「で、でも、私といても…退屈だと思います」

「退屈だと感じたとしたら、お互いに好きなときに別れればいい」

言葉に少し笑いがあった。
冗談として捉えて良いようだ。

愛美はまばたきして、その男性をちらと見上げた。

ルックスは…この視力でははっきりと確められないが…すごくいいみたい。と瞬間考えた自分に気づいて、愛美は頬を赤らめた。

どうやら、想像以上に蘭子の感化を受けているらしい…

自分らしくない思考にどぎまぎしすぎて、彼女はさきほどからずっと手にしていた飲み物をくいっと一口で飲み込んだ。

飲み物は甘くてとろりとしておいしかった。
けれど、喉を伝ってゆく間に、かなりの熱を帯びてきて彼女は驚いた。

「あ、はぁー。こ、これ何?」

不破が、愛美のグラスを取り上げ、匂いを嗅いだ。

「ブランデーのようですね。大丈夫ですか?」

「な、なんか、すっごく、異常に、あ、暑いです」

潜めた笑い声が響いた。

笑われた愛美は、しゅんと萎れた。

「少し、外の風に当たりに行きますか?」

「あ、えっと…」

頭の回路が、少しばかり曖昧になってきたような気がした。

彼の提案を耳に入れてから思考が受け入れるのに、少々手間取った。

ふらふらする頭と発熱し始めた頬に、外気はきっと気持ちが良いだろう。
風も吹いているかもしれない。

外に出るという案は、まったくもって素晴らしい提案だと、愛美は感心した。

「はい。そうします」

愛美は素直に頭を下げて歩き出し、どうも少しばかりよろめいたようだった。

さっと彼の腕が目の前に差し出され、彼女はありがたくそれに寄りかかった。
そして、不破の導く方向へと、彼の腕に凭れたまま歩き出した。





   
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