シンデレラになれなくて


その9 夢の中は薔薇色



ぼうっとした思考と、ぼうっと霞んだ視界の中で、何か違和感を感じた。
その違和感が、警告のようなものを発しているように思えて、愛美は立ち止まった。

「どうしました?」

純粋に不思議そうな問い掛け…

危険や怖れるものは、その声には何もなかった。
愛美は顔を上げて彼に向けて微笑んだ。

「なんでも」

「そう」

不破も微笑んだ。
やさしげで気が遠くなりそうなほど魅力的で、まるで夢の中の王子様のような輝く笑みだった。

だが、彼の姿は視線を向けるたびに増えたり減ったりしている。
双子のように見えたり、時によっては三人以上にもみえるのだ。

二重三重に重なって見える彼の顔と、はっきりしない彼の表情がもどかしく、愛美は視界が安定するまで、幾度も目を凝らして彼をじっと見つめた。

彼の瞳をきっちりととらえてほっとした愛美は、夢心地で微笑んだ。
意識は、さらにぼおっと霞み、彼女は夢の王子様に見惚れた。

外はとても気持ちよかった。

屋敷の中庭はきれいに手入れされ、薄暗さが増した空間は、うまく配置された明かりに照らされて、薔薇の美しさが際立っていた。

ふたりは広い庭をそぞろ歩きながら少しずつ会話をした。
けれど、ブランデーによって弛んだ愛美の頭脳は、まともに働いてくれず、会話は途切れ途切れのものだった。

それでも彼は、飽きる様子も呆れる様子もなく、愛美に頼れる腕を貸してくれていた。

会話が書物のことに及ぶと、弛んだ頭ながらも興味の対象であるからか、話が弾んだようだった。

だったというのは、会話が、記憶にまったく残ってゆかないからだ。

明日になったら、これらすべてを思い出せるのだろうか?
愛美は眉を寄せて考え込んだ。

「君、名前を聞いていなかったね」

その問いに、愛美は小首をかしげた。

「名前?」

王子様が頷いた。

「私の名は不破優誠(ふわ・ゆうせい)です」

「ゆうせい?」

「ええ、優しいに、誠と書くんです。それで、君の名は?」

「えっと…名前?」

王子が真剣な顔で頷いた。

どうやら愛美の名前が、彼にとってとても重要らしい。
愛美は考え込んで、自分の名前を思い出そうと懸命になった。

しかし、やはり何かが記憶を掘り起こす邪魔をしている…

「…は…早瀬…」

そこまで口にした愛美の顔に、突然真っ白なものがふわりと触れた。
白い薔薇だった。愛美の着ているドレスと同じような濃いクリーム色をしている。

愛美は感嘆の声を上げた。
夢の中にぴったりの美しさだ。

「なんて、綺麗なの」

この瞬間、酔いの回った愛美の思考から不破は消えていた。

彼女は薔薇を慈しむように指先でそっと触れ、香りをかごうと薔薇の花に顔を近づけた。

そんな愛美の頬に、突然、彼の指が触れた。

「えっ」

彼女は驚いて小さく叫んだ。

触れた指はすっと頬から顎へと移動して、愛美は気づかぬうちに顔をあげていた。

ふたりの唇が重なっていた。

何もかもが自然で…脅威だった。

愕然とした愛美の思考は、数秒間、無駄にぐるぐる回転した。
愕然が驚愕に変化したあたりで、ぷつんと思考は途切れた。

愛美の思考が戻ったのは、彼の胸に顔を埋めているときだった。
男性の腕に抱かれている、非現実的な自分…

その現状を認められないまま、愛美は彼の胸からそっと顔を離した。

「あの、わたし…」

「何?」

彼は、彼女を彼が抱き締めているのが自然なことというような表情をしている。

「…化粧室に…」

腕がひどくゆっくりと外された。

相手の顔を見上げる勇気もなく、そのまま背を向けようとした愛美は、彼に手首を掴まれた。

「ここで待っているからね」

彼が耳元に囁き、愛美は囁かれた方の頭の半分がジンと痺れたような感覚に陥った。

両頬を手のひらで包まれ、愛美の唇に彼の唇が重なった。

拒否するのが当然なのに、どうしても拒めない。
ブランデーのせいというより、王子の放つ強力な魔力のように、愛美には思えた。

再び自由になった彼女は、館の方を見定め、、少しよろめきながら小走りに駆け出した。

彼女の髪についていた白い小花の髪飾りのひとつが、はらりと地面に舞い落ちたことに、もちろん彼女は気づかなかった。





   
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