白銀の風 アーク

第二章

第五話 愚息への諦め



「いたた」

頭の後ろがひどくズキズキした。

右手を後頭部に当てて起きあがったものの身体がけだるくてならず、アークはそのままもう一度後ろに倒れ込んだ。

「いたっ」

背中に当たるのはふかふかのベッドのはずだった。…のに、固いものにぶつかった衝撃を受けた。

「なにをやっていらっしゃるんです。アーク様」

皮肉な口調で語られた言葉の主は、ジェライドに違いなかった。

アークは眉をひそめて、ジェライドに視線を向けた。

「ジェライド。君がどうしてここに…? ここは…えーと、私の部屋の筈だ。…ろ?」

思考がなかなか定まらない。彼の思考はいつまで宙を浮遊しているつもりだろうか?

「頭が…、身体が…重い」

アークは疲労で満杯の声を出した。と、乾いた唇に突然液体が注がれ、驚いたのとあまったるい味に、アークはぐっと口を閉じて上体を起こした。

「な、なーんふぁ、こうぇは」

しゃべったために、液体が口端から漏れ出た。

「あーあー、汚いな。出さないでくれないか。せっかくの薬湯なのに」

アークはごくんと飲み下し、しかめた顔であーっと舌を出した。

「水をくれ、口の中がねばねばする」

顔を歪めて返事を待ったものの、ジェライドはなかなか言葉を返してこない。

厳しい顔つきで長いことアークを見据えていたジェライドは、ようやく口を開いた。

「私の忠告を…聞かなかったね」

「忠告? 何のことだ?」

アークはいまだ重たい瞼をしばたたき、背伸びとともに大きなあくびをした。

気ままに遊んでいた思考が、少しだけ戻ってきた気がする。

首を数回まわし、頭の片側に手のひらを当てたアークは、やっとと言うべきか、むーっとした顔のジェライドを正視した。

「テレポは私の見守るもとでと、言っておいたはずだけど…」

テレポ?

ぼんやりした思考からその単語をひっぱりだし、ジェライドがむっとしている理由をなんとかはじき出したアークは、一瞬誤魔化そうかと思ったが、観念して正直なところを話した。

この男を騙せるわけがないのだ。

「いや…夕べ、食事の後…少しばかり暇だったから」

「それで、のこのこ出かけていって、意識不明の憂き目かい?」

「…意識不明。誰が?」

ジェライドは凄い剣幕で、今朝起こったらしいごたごたをまくし立て始めた。

テレポは聖地でと言われていた。

あの国はよほど隔たった場所に存在しているのか、一度の往復で相当量の魔力を消耗する。

魔力の満ちたシャラの木のもとなら、ずんと早く回復できる。

そのことは勿論承知していた。

だが、これほど酷いことになるとは思いもしていなかった。

ジェライドの語るところによれば、いつまでも起き出してこないアークを心配したサリスが、部屋に入って昏睡状態の彼を見つけ、相当動揺したに違いないが、賢明な彼女は事を公にせず、ジェライドに助けを求めた。

魔力の使いすぎからくる極度の疲労で、意識不明に陥っていたわけだから、症状を回復するには聖地が一番。

ジェライドはすぐさまテレポで彼をここへ運んできた。

後頭部のたんこぶはその時の副産物らしいとアークは思ったが、賢明にもそれについて文句を言ったりはしなかった。

事を内密に処理してくれた二人に彼は感謝した。

他の賢者達の耳に入っていたとしたら、とんだ騒ぎになっていただろう。

青筋を立てたジェライドが、持っていた器をアークに差し出してきた。

先ほどのあまったるい薬湯のようだ。

薬湯はグツグツ煮え立ちあぶくを吹いている。

知ってか知らずか分からないが、ジェライドが火の魔力を手のひらに込めているせいだろう。

それでもアークは黙って薬湯を受け取った。

防御の魔力で熱さは感じないが、口に入れればさぞかし熱いことだろう。

アークの視線の先、煮え立つあぶくをジェライドは目にしたようで、「あ」と短い音を発した。

どうやらわざとでなかったらしい。

アークは水の魔法を発して温度を下げた。

あぶくはすぐにおさまり、程良い熱さになったところで、あまったるいことこの上なかったが、アークはなんとか全部飲み干した。

「で? これほどの危険を冒した代償は、もちろんあったわけだろうね?」

とげとげしい口調でジェライドが尋ねてきた。

「代償?」

「そうだよ。女には良い印象を与えられたのかい?」

アークは、顔をしかめた。

「女という表現は、彼女に対して無礼だぞ」

「おや、昨日までとはまた、うって変わったものですね」

咎める口調で眉根に皺を寄せていたアークは、その言葉にぐっと詰まり、顔をこわばらせた。

腹立たしいことに、ジェライドは意味深に微笑んでいる。

夕べ彼女のもとを訪れたのは、まったく軽率な行動だったと、反省せざるを得なかった。

このうえ、彼女と一言も言葉を交わしていないことがばれでもしたら、さぞかし馬鹿にして笑うことだろう。

アークの脳裏に、初めて顔を会わせた時の彼女が浮かぶ。

悲哀といくばくかの怒りと、大きな驚きに満ちた顔だった。

この時、ぼやけていた夢の中の彼女は、彼の中心部分で衝撃音とともにはっきりとした実姿を持った。

何か言葉をかけようとした途端、走り去ってしまったのだから話をしようにもしようがなかった。

初対面の相手にさりげなく言葉をかけるというのは、なかなかどうして難しい。

彼女に対して、自分が好きの感情を、愛という感情を抱いたのか…よくわからない。ただ、心の一部分が、彼女を追いたがって困る。

アークの理想としてきた女性の容姿とはまるで違う、艶やかでなめらかな黒髪、ほのかに桃色のしっとりとした肌、ふっくらとしたピンクの唇…

そしてきわめつけがあの瞳だ。

思わず見入ってしまったほど、吸い込まれそうに澄んだあの瞳。

夕べ、あのとき、首飾りを手に、あの瞳をもう一度目にしたい、そう思った瞬間にはテレポしていたのだ。

あの瞳が悪いんだ。

もしや…なにか妖しげなまじないでもかけてあるんじゃないか?

「君は、人の話を聞いているのか!」

ジェライドに激しく一喝されて、アークは我に返った。

そんなアークを見つめ、ジェライドは疲れたように息を吐き出した。

「帰ろう」

ぼそりと口にしたジェライドに、どうしてと言いそうになったアークは、ぐっと言葉を飲み込み、急いで同意した。

「ああ、そうだな」

なにはさておき、心配しているだろう母サリスのもとへ戻らねばなるまい。

二人は並んで歩き出した。

聖地の守りについている賢者に、帰ると告げにゆかねばならない。

物理的手段で来ようが、テレポを用いてであろうが、帰る時には必ず、守りを務めている賢者への挨拶は、アークであろうとも怠ってはならない鉄則。


愚息の帰りを待ちわびていたサリスは、目尻に涙を浮かべ、思うさま彼をこってり絞った。

身体が回復したからなのか、朝食を食べていないアークは空腹でたまらない。

母親のお小言の最中に、何か食べさせて欲しいと口にしたアークは、反省が足りないと、さらにジェライドからまで小言を食らい、愚かなことに食事にありつく時間を、自ら引き延ばしてしまった。

ほとほと疲れたという様子を露骨に示し、ふたりからやっと解放されて、アークはようやく食事にありついた。


「しばらくは行けませんね」

さほど腹が空いていなかったのか、そうそうに食事を終えたジェライドは、クコティーを飲みながら言った。

アークは食べ物をほおばりながら、疑問符を顔に貼りつけてジェライドを見た。

「理由は二つ。一つには君が無茶をしたために、テレポで飛ぶだけの魔力が、すぐには戻らないだろうがため。二つには…バッシラ族が群れをなして、領土の境に侵攻してきている」

バッシラはしょっちゅうもめ事を起こす種族だ。

またかという思いで、アークは頷いた。

「少し大がかりな戦いとなるかも知れない」

付け足された言葉に、アークは表情を変えた。

「何があった?」

「まだ何も。いま、ルィランを含めた聖騎士数名が、今朝から情勢を窺いに行ってる」

「そうか。それで、いつ戻る?」

「そろそろだと思うよ。一時には会議が始まる予定だ。私は話を聞きに行って来るよ。後で詳しい話を知らせに戻ってくるから、君はしっかり休養してるんだぞ」

一時なら、もうそろそろだ。

アークは、クコティーを一気に飲み干した。

「行こう」

ジェライドを促すように、アークはそう口にして立ち上がった。

「何をとぼけてるんだ。君の行くところはベッドの中だろ。もうしばらくは休養が必要だ」

黙ったままアークは歩き出した。

多少の疲れは残っているが…彼は聖騎士だ。

戦いの兆しを前に、ベッドなどで寝ていられない。

「行くと言っている」

不満顔だが、この場は押しても引いても無駄なことをすぐに悟ったか、ジェライドは口を閉ざした。

予知者だけあって、ジェライドの悟りは音速で訪れるようだ。

アークの母サリスは、すでにあきらめの境地で…こちらの悟りは音速の上をいくらしい…少し酸味のある、彼女の好きなミンテティーをすすっていた。





   
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