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第四話 気になるもの
「なんだかさ、凄いよね。粗品の威力ってさ」
「なんであんなに集まるかね。庶民は」
泰美に続いて由美香は不平を述べ、ちろっと沙絵莉を見た。
いつもならここで「私達だって庶民の仲間じゃない」なんて言葉が挟まれるはずなのに、沙絵莉は小箱から陶器のティースプーンを取り出して見つめたまま、黙りこんでしまっている。
ぼーっとした顔の沙絵莉を前に、由美香は泰美と首を傾げあった。
「沙絵莉。なんかあったの?」
惚けている沙絵莉は、由美香の声が耳に入らないらしい。
由美香は泰美と目を合わせて肩を竦めた。
新装開店の喫茶店はさんざんだった。
粗品を目指す長蛇の列を目にした時は、粗品ゲットへの熱も一気に冷め、そのまま引き上げようかとも思ったのだが、ここまできて引き返すのも惜しくて、結局三十分並んで待った。
さらに、入ったはいいが、ぞくぞくと群集まってくるお客に急かされ、ケーキや紅茶をそそくさと始末し、目的のティースプーンを受け取り、店を後にしてきたところだった。
由美香は、相変わらずおかしな沙絵莉を見つめた。
いったい沙絵莉はどうしたというのだ?
今日の待ち合わせの時間は十時だった。
泰美ならいざ知らず、几帳面な沙絵莉が約束の時間に遅れたことは一度もない。
それなのに今日の沙絵莉ときたら、約束の時間に間に合わないどころか、心配したふたりが彼女に電話をかけてみると、まだ熟睡の最中だったらしいのだ。
電話口で、ごめんごめんと謝りつつも、意味不明の言葉を呟いていたあたり、かなりおかしかった。
「ねえ、沙絵莉。あんたどうしちゃったのよ」
声だけでは頼りないので、由美香は沙絵莉の肩を大きく揺らしてみた。
「え…、ああ…、ごめんね。今日は寝坊しちゃって」
「もう謝罪は何度も聞いたよ。そんなことはいいの。誰にでもあることなんだからさ。それより何かあったの?」
沙絵莉は由美香の顔を穴があくほどじーっと見つめ、こわごわ瞼を閉じた。
閉じた途端、彼女の瞼の裏にパーッと広がる色彩豊かな風景。いや、いくぶん薄れてきただろうか?
見たこともない花々の咲き乱れる情景は美しいけれど、とてつもなく恐ろしい。
青ざめた沙絵莉はパッと目を開いて唇を噛み締めた。
いったいこれはなんなのだ?
瞼の裏側に貼り付けてあるみたいに…
「ち、ちょっと、どうしたのよ。沙絵莉」
動揺して瞳をゆらしているおかしな沙絵莉の態度に、彼女達は酷く戸惑っているようだ。
正直に言ったりしたら、ふたりは沙絵莉がおかしくなったと思うだろうか?
目を閉じると、カラー写真のような景色が、くっきりと見えるのだと言ったら…
それらの花々は風にそよいで、心地良さそうに揺れまでするのだ。
沙絵莉は無理やりに微笑んだ。
「なんでもないの。ちょっと夢見が悪くて…」
「夢。どんな?」
「きれいな花が…いっぱい咲いてる夢で…」
沙絵莉の言葉に、ふたりは「いい夢じゃないのー」と声を揃えた。
確かに、彼女の頭から消えてくれれば、それで済むのだが…
それに夢の他にも、ものすごく気になることがある。
自分が着ていた白いネグリジェの茶色のシミ。
それはたぶん、彼女が零したウーロン茶のシミだと思うのだが、まったく記憶がないのだ。
ウーロン茶を冷蔵庫から取り出した記憶も、それを飲んだ記憶もない。
さらに居間のラグにも茶色のシミが薄く残っていたし、少し中身の残っているウーロン茶の缶がそのシミの側に置いてあって…
それでも、そこに缶を置いたのは沙絵莉でしかありえないし、ネグリジェのシミも沙絵莉がつけたのに違いないのだ。
なんせ、あの部屋には、沙絵莉しか住んでいないのだから…
昨夜の事を思い出そうと頑張るものの、濃厚な幻想風景の向こうに霞んでしまって思い出せない。
遅れたお詫びに、沙絵莉はふたりに奢ると申し出て、三人は由美香のひいきにしているという、みかん家という店に入った。
お昼のランチのメニューは一種類だが、女性の喜びそうなちまちまとした料理がかわいい小皿や小鉢に盛られ、お盆いっぱいに並べられていた。
「おいしそーー」
「ほんと」
泰美の言葉に沙絵莉は相槌を打ち、料理を口に入れた。
見た目を裏切らない美味しい料理を堪能していると、由美香が父親に対する不平不満をぶちまけはじめた。
どうやら由美香は、昨夜の父親からの電話にかなりムシャクシャしているらしい。
「でさ、親父ったらアパートを見に来るってうるさいの。口には出さないけど、男でも連れ込んでやしないかって疑ってる感じが丸分かりよ。さいってい。あの親父、とことん娘が信用出来ないのよね」
「そいでもさ、由美香は一人暮らしさせて貰ってるんだもん、文句言うとばちが当たるよ。一緒に暮らしてる私をごらんよ。両親そろって、私に小言を言うのが娯楽なんじゃないのかって、疑いたくなるくらいなんだから」
「うーん。それを言われるとなあ。…ねえ、沙絵莉んとこの親父はどんな人。一人暮らし反対されたりしなかったの?」
「うん、まあね」
父親の事をあまり口にしたくない沙絵莉は、適当に答えた。
「いいなー。うちも主義変えて、放任してくれないもんかな」
「あんたを放任したら恐ろしいもんがあるよ」
由美香に首を振りながら言われた泰美は、いつものごとく頬を膨らませた。
沙絵莉の方こそ、ふたりが羨ましい。
言いたいことを言いあえてこそ、本当の親子だろう。
口喧嘩をしたって、心の奥底には相手への愛が含まれているのだから…
昨日の沙絵莉のように、口に出して言ってしまったことで、修復できない傷を互いが負い、いつまでもずくずくと膿んだりはしないに違いない。
「そうそう、沙絵莉に聞こうと思ってたんだけどさ」
「なあに?」
そう答えた沙絵莉は、可愛らしい花型のニンジンを口に入れた。
ニンジン本来の甘味が口中に膨らんだ。
「あんたさ、コスモス街道通るんでしょ?」
泰美の聞きたいことがその言葉で分かって、沙絵莉は口を動かしながら彼女に目を向けた。
「ひとが消えたって話?」
「そうそう」
瞳を期待にきらきらさせて、泰美は何度も頷いた。
「沙絵莉、見てないの? あんたって、昨日、同じくらいの時間あそこ通ってるんじゃないの?」
「残念だけど、見てないわ。その話は近所の奥さんに聞いたんだけど」
沙絵莉は笑いながら首を横に振った。
「馬鹿馬鹿しい」
顔をしかめた由美香の言葉に、沙絵莉は噴き出した。
「私もそう思う。ねえ、そんなことより、私ね、昨日、映画俳優らしきひとに会っちゃったの」
「映画俳優?らしきひとって、どういうことよ」
「だって誰かは知らないから…けどね、もう映画俳優としかいいようのないオーラっていうか、すっごい魅力的な人だったの」
「ほほお、あんたがそこまで称賛するイケメンが世の中にいたとはね。いったい何処で見たのよ?」
実際には、父親の言葉に傷ついて、泣いていた最中だったのだが…
「街中。…たまたま顔を合わせちゃったの。銀色の髪に、銀色の目をしてて…」
「ぎ、銀色の目? そんな目の色してるひとっているもん?」
「それ、カラーコンタクトだったんじゃないの?」
沙絵莉は泰美と由美香の言葉に、眉を寄せた。
「そ、そうかも…」
友人ふたりの反応に、沙絵莉は口にしてしまったことを後悔した。
あの普通でない存在感は、言葉で語れるものではない。
家に帰ったら、ネットで検索してみよう。
きっと、あれが誰だったのか、分かるに違いない。
あの銀色の髪と瞳の男性は、ぜったいに、ただの一般人なんかじゃない。
デザートのゼリーを頬張っていた泰美が「あ」と短い声を上げ、沙絵莉は何気なく彼女の視線の先に目を向けた。
彼女は、思わず泰美と同じように「あ」と声を上げてしまった。
三人は駐車場側の窓際のテーブルに座っていたのだが、その窓のところに今駐車した車から降り立ったのは、笹野ではないか。
彼は助手席と後部座席から降り立った女性ふたりと連れだって店に入ってきた。
「笹野も案外やるね」
そんなこと泰美は呟き、沙絵莉を気掛かりそうにちらりと見てから、また笹野に目を戻した。
沙絵莉は、笹野が彼女達に気づかないことを願って俯いた。
「はーい。笹野君」
泰美がこれ見よがしに彼の方を見ていたのでは、すぐに気づかれるだろうとは思ったが、なんのことはない、泰美はしっかり自分から声をかけた。
「あっ、やあ、野々垣さん、偶然。うっ」
彼の「うっ」という声が、沙絵莉に対してのものなのかどうか分からなかったが、彼女はしぶしぶ顔を上げて笹野に「こんにちは」と挨拶した。
「や、やあ。あの…」
「なお君、知り合い?」
笹野の連れの一人が、横手からひょこっと顔を出し、何気なさそうに笹野の左腕に右手を触れた。
撫子色の薄いニットのワンピースに、春らしい空色のジャケットを羽織り、緩くカールされた髪が肩の辺りで揺れている。
バッグもしゃれたもので、普段からお洒落に気を配る人なのかも知れないが、かなり身支度に時間をかけたといった感じを受けた。
もう一人の女の子はズボンにTシャツと至って簡素な服装だ。
笹野はニットのワンピースとTシャツさんに、大学のクラスメートだと紹介し、ニットワンピースとTシャツさんは、彼の高校の時の同級生だと沙絵莉達に教えた。
「二人が、今朝急に押し掛けてきたんだ。昼もまだだったし、で、ここに…」
「まあ、押し掛けてきたなんて失礼しちゃう。ねえ、克美」
ニットワンピースの左肩に手を置き、見た目にそぐわない甲高い声で、Tシャツさんが言った。ニットワンピースは克美という名らしい。
彼女は笹野の言葉に拗ねたように唇を尖らせた。
自分を可愛く見せるこつを良く心得ているらしい彼女の表情は、沙絵莉の眼にもかなり可愛らしく映った。
力の入った入念な身支度の上に、ピンクの紅までさして、ほぼ完璧といった出で立ちだ。
かたや沙絵莉はといえば、寝坊したあげくに飛び出してきたのだから、髪も満足にといていない有様。
服だけは、なんとかましなものを着ているだけ救われたが…。
そう考えた沙絵莉は、内心動揺した。
何故このニットワンピースと自分とを比較する必要があるだろうか…
沙絵莉は、自分に怒りを感じ、きりりと背筋を伸ばした。
はっきりいって、自分は笹野を好きなわけではない。
ニットワンピースでもなんでも、彼の好きに連れて歩けばよいのだ。
とんだ八つ当たりだが、笹野となんか二度と口を聞くもんか。そう思ったらすっきりした。
「…じゃ、また、明日」
明日?そんなものありはしない。内心そう思ったが、生来の愛想の良さで「ええ」などと、ついついにっこり笑いかけてしまう。
笹野が選んだのか、はたまたニットワンピースか、彼らは空いた席の中で、一番離れた場所に腰を据えたようだった。
「こんなところで会おうとは…」
待っていたように泰美が呟いた。
「ねえ?」
由美香に向かって言う。
「高校の同級生でしょ。笹野、二人が押し掛けてきたって言ってたじゃない。沙絵莉、あんなの気にすることないって」
「私、気にしてなんかないわ。ぜんぜん関係ないもの」
言ってからしまったと思った。
少しも関係ない口振りではなかったからだ。
由美香が意味ありげな顔で「そう」と言い、「だってさ」と泰美に向かって言う。
沙絵莉は口を閉ざして残りの料理に箸をつけた。
どうやら、ふたりを完璧に誤解させてしまったようだ。そんなことないのに…
笹野に恋愛感情というほどのものは持っていない、と彼女は思うのだ。
さきほど感じた憤懣らしきものは、笹野に対してではなく、自分自身に向けられたものだった。
笹野のぎこちないアプローチに、思っていたよりも気分を良くしていたらしい自分に対して、言いようのない腹立ちを感じた。本当にそれだけなのだ。
彼女は自分の胸の内を話そうと開きかけた口を、そのまま閉じた。
ここであれこれいうのは言い訳がましく聞こえるに違いない。
心のひだの奥底など、曖昧にぼやかしておくほうがいい。
ムキになって、白黒はっきりさせようとするのはかえっておかしいものだろう。
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