白銀の風 アーク

第二章

第三話 無言の謝罪



アパートに帰り着いた沙絵莉は、荷物を居間の床に置き、ソファにぐったりと座り込んだ。

なんだかひどく疲れを感じた。

肉体的な疲労ではなく、精神的なもの…

俊彦とは前もって話がつけてあり、夕食は四人で中華料理を食べた。

母の再婚相手の俊彦は、生真面目一本やりな人で、固すぎる口調がなぜか笑える人だ。

ぼくとつな人柄は、母によると父親譲りらしい。

一ヶ月ほど一緒に暮らしたけれど、俊彦とは、彼のその気性があだとなり、あまり気安く話せないままに終わった。

相手があまりにも固くなって話すので、ついつい沙絵莉にもその強ばりが伝染してしまうというか…

沙絵莉は、俊彦と陽奈とともにいて母の楽しげな笑顔を思い出し、小さな笑みを浮かべた。

いまの母は、とても幸せそうだ。満ち足りている感じがする。

沙絵莉とふたりきりで、ずっと暮らしてきた母が不幸だったとは思わないが、やはり精神的に足りないものがあったのに違いないと思う。

幼い頃の沙絵莉にとって、父が別に住んでいるのは当たり前のことだった。けれど、年齢を重ねるごとに、それは普通でないのだとわかった。

だが、彼女の両親は、離婚した関係とは思えないほど仲が良い。

まるで兄妹のような雰囲気というか…

互いに、とても信頼し合っているのが分かるし、たまに沙絵莉をめぐって本気で喧嘩したりもする。

まったく…変な親だ…

記憶の中の両親を思い出して微笑んだ沙絵莉の顔から、徐々に笑みが消えていった。

もし、もしも…美月が離婚しなかったら…父は…

沙絵莉は自分が考えていることの無意味さに、唇をきゅっと噛み締めた。

過去に対して、もしもと考えても仕方がない。現実は変わりはしない…

沙絵莉は馬鹿な自分に対して憤り、拳を固めて頭を強く小突いた。

痛みのぶん涙が滲み、沙絵莉は笑った。

「うっ…」

ふいに突き上げた虚しさ交じりの悲しみに、沙絵莉は両手で顔を覆った。

誰もいはしないのに、沙絵莉は声を殺し、気持ちが落ち着くまで泣き続けた。


最後の涙を拭った沙絵莉は、自分を笑いつつ吐息をついた。

この暮らしを望んだのは自分…

母も俊彦も陽奈も、沙絵莉は岡本家の一員であり、家族だと思ってくれている。

誰も彼女を拒んだりしていない。拒んでいるのは沙絵莉のほうだ。

馬鹿だと思う。けど、沙絵莉の心が、嫌がる。

どうしても家族の中に溶け込めないのだ。

私は…我が侭だ。

自分の望むようにならないのなら、なにもいらないとひねくれてる。

沙絵莉はため息をつきながら、床に置き去りにしたままの紙袋を見つめた。

アリス館で二枚のエプロンを買った。

その一つを手渡すかどうか、いまはまだ彼女にも分からない。

父に詫びる気持ちに突き動かされて、衝動的に買ったに過ぎなかった。

沙絵莉は立ち上がり、紙袋を持ち上げてクローゼットの中にしまい込んだ。

お風呂にでも入ろう。

身体を洗ってさっぱりすれば、気持ちも前向きになる。

風呂の給湯のスイッチを押して居間に戻ってきた沙絵莉は、ウィーンという微かな機械音に、ビクンと身体を震わせた。

な、なに?

その音には、もちろん聞き覚えがある。

パソコンが起動した音。だが、パソコンがひとりで起動するはずがない。

けれど、パソコンの画面を見ると、確かに起動している。

ありえない現象に、沙絵莉ははっと息を呑み、両手を握り締めて数秒固まった。

どうして? なんで?

ま、まさか、誰かが忍び込んでる?

沙絵莉は遅ればせながら、部屋の中を急いで見渡した。

「だ、誰かいるの?」

そう大きな声を張り上げながら、沙絵莉はベランダとの境の窓の鍵を開けた。

万が一、強盗か変質者が飛び出てきたら、ベランダに出て助けを呼ぼうと考えたのだ。

だが、部屋の中は静まり返ったまま…

確かに、玄関の鍵はかかっているし、窓だって開いていなかった。

家に帰って来た時だって、人が侵入した形跡などなかった。

改めて居間を見回した沙絵莉は、キッチンの包丁を掴み、寝室のドアを恐る恐る開けて確認し、クローゼットの中までも調べ、誰もいないことを確かめた。

どうやら、不審者などいないと考えていいようだった。

居間に戻った沙絵莉は、包丁を握り締めたまま、人騒がせなパソコンを睨みつけた。

このパソコン、故障したのだろうか?

だが、故障とかで、起動したりすることがあるんだろうか?

パソコンは日々使っているが、メカ的なことはさっぱりわからない。

まるきりすっきりしていなかったが、すっきりするために何が出来るわけでもなく、沙絵莉はパソコンを終了させ、包丁をキッチンに戻して、ソファに腰掛けた。

誰かに電話して、パソコンが勝手に起動したことを相談してみようかと思ったが、考えた末にやめた。

母に話したりしたら、もう一人暮らしなどさせられないと、即座に迎えにきそうだ。

由美香や泰美は、絶対に面白がって、この部屋には何かある、きっと超常現象的なことが起こる場所なのに違いないとか、言い出すに違いない。

単なる故障よ、故障。パソコンは精密機器だし、こんなことだって、起こることがあるに違いないわ。

うん、そう。

沙絵莉は、自分に言い聞かせ、テレビのスイッチを入れた。

テレビでは軽いタッチのトーク番組をやっていて、沙絵莉の中に残っていた恐れている気持ちも、かなり引いていった。


お風呂に入り、さっぱりした沙絵莉は、冷蔵庫から取り出した冷たいウーロン茶の缶を手にして、居間に戻った。

目の前の空間に、ふわふわ浮いているものがある。

テレビのリモコン…

そうはっきりと認識したところで、沙絵莉は気が遠くなり、その場に崩れるように倒れた。


「しまった」

何もない空間にその声は響いた。

次の瞬間、アークはパッと姿を現した。

空間でこんなものがゆらゆらと揺れていたのでは、女が驚いて失神するのも当然だ。

アークは手にしていた凹凸のある黒い四角いものをテーブルに戻し、倒れている女に駆け寄った。

不思議な箱の映像に夢中になりすぎて、彼女が戻って来たことに気づけなかったのだ。


缶から溢れる茶色の液体は、どんどん彼女の肩を濡らしてゆく。

アークは慌てて缶を拾って立てた。

床も彼女の背中もびっしょり濡れそぼっている。

自分がやってしまった失態に顔をしかめた彼は、頭に手を置き、迷った末、手のひらを彼女の肩にそっと置いた。

その途端、彼女の頬がぴくぴくと動き、瞼を微かにうごめかした。

アークは反対の手を、瞼に軽くのせて幻夢を発した。

彼女の顔はとろんとうつろになり、また静かになった。

とにかく服を乾かしてやらねばなるまい。

このままほったらかしにして帰るわけにも行かないだろう。

アークは彼女の身体を抱き上げて濡れている床から場所を移動し、床に座り込んだ。

そして火の魔力を手のひらから発し、抱え込んだ彼女の背中に当てた。

ジェライドに噛みついた挙げ句のテレポで、今日、彼が最初にやってきた場所は乗り物の中だった。

ぎょっとしたと同時に、アークは急いで幻で身を包み姿を消した。

その後は、前にいた二人の会話に耳を傾けながらも、初めて体験する乗り物や、周りの景色を興味深く観察した。

けれど、その後ずっと彼女の後をつけていたわけではない。

この国の珍しいものに気を引かれ、あちらこちらと見て回り、昼時いったん帰り、昼過ぎからもう一度やって来て、この国の位置を特定するために、日の傾きや気候などを利器を使って仔細に調べた。

そしてつい先ほど、夕食を終えて暇になったために…やってきてみただけのこと…

自分の心に念を押すように考えたアークは、なんだか弁解気味になっていることに対して、自分自身に鼻白んだ。


シューシューという蒸気が立ちはじめ、彼は改めて腕に抱いた女に目を向けた。

フリルのついた衣服は薄い布で、濡れたところは肌が透けてしまっている。

アークは理不尽にも、薄い服をまとった娘を目で責め、ついで、自分の犯したことが後ろめたく、片頬を膨らませて反省した。

「すまない」

声に出して呟いた彼は、どこかで聞いたセリフだと、はたと思った。

車を運転していた男…彼女の父らしい…が、最後に口にした言葉だ。

そして、彼女は…苦しそうに顔を歪め、俯いて泣いた。

なぜ彼女があの場で泣いたのか、詳しいことは知り得ないが、あの言葉が彼女の心を刺したことはよく分かった。

ともかく話しかけてみようかと、姿を現して顔を合わせたものの、話しかける前に彼女は駆け去ってしまって…

彼女の後を追おうかと思ったのだが、どうにもためらいが湧き、結局、気持ちを決められずに、追うことは出来なかった。


アークは黒髪の彼女の顔をじっと見つめた。

綺麗なラインを描いている眉、閉ざされた瞼に長い睫毛、僅かに開いている唇…

「お前は…しあわせではないのか?」

彼に与えられた幻夢を漂っている娘は、もちろん答えはしない。

ふーっと疲れた息を吐き、アークは服を乾かすことに集中した。

幾度ものテレポと幻の術で、魔力を消費し過ぎたための疲れを酷く感じるが、彼女をこのままにして帰れはしない。

濡れた箇所をすべて乾かし終え、アークは彼女を抱き上げた。

服の襟ぐりが大きく開いているせいで、あらわになっている華奢な首元、そして胸の膨らみが彼の目を釘付けにする。

無礼な事をしている自分にはっと気づいたアークは、顔を赤らめて目を逸らし、彼女をソファに寝かせた。

何か身体に掛けるものを…

人の家の中を勝手に歩き回っていいはずはないが、いまはそんなことを言っている場合ではない。

あちこち扉を開けてみたアークはベッドを見つけ、彼女を運び込んでそこに寝かせた。

上掛けを掛けてやるときに、真っ白い服の薄茶色のシミが気にかかったが、さすがにこれはどうしようもない。

明日、目覚めた彼女は、この事態をなんと思うだろうか?

彼女の寝顔を長いこと見つめていたアークは、ふと我に返った。

不必要に怯えさせたことに対する詫びを込め、すまないと謝罪の言葉を口にしようとしたアークは、口元を固くして口を閉ざし、無言のまま深々と頭を下げた。

その一瞬後、アークはその場から姿を消した。





   
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