|
第五話 心からの感謝
「沙絵莉、沙絵莉」
彼女は名を呼ばれてぱちりと目を開けた。
あっ!
沙絵莉は叫びを上げて目を閉じた。
あまりに眩しく、目を開けてはいられない。
いったい? この普通でない眩しさは、なんなのだろう?
「沙絵莉?」
また誰かに呼びかけられ、沙絵莉は必死に目を開けようと頑張った。
少し離れた場所から聞こえるこの声って …お母さんよね?
そう考えているうちに、身体が空中を浮遊しているような感覚に襲われ、沙絵莉は慌てた。
な、なんなの?
じたばたと身体を動かし、沙絵莉は目を開けて、じっと目を凝らした。
光が薄らぎはじめ、沙絵莉はほっとした。
それにしても、いままで私はどうしていたのだろう?
眠っていたような気もするけど…瞼を閉じていただけのような気もする。
だんだんと視界がはっきりとしてきた。
ドア口に立った母が、微笑んで沙絵莉を見つめている。
お母さん。
母に呼びかけた沙絵莉は、きゅっと眉を上げた。
自分の声がなんだか変だ。
声に出したはずなのに…声になっていないような。
母は沙絵莉の言葉が聞こえたように頷いてきたが、彼女の声が届いたのではないようだった。
「目が覚めたのね。いつまで寝てるのかと思ったわよ。さあ、顔を洗って。朝ごはんを食べたら、買い物にゴーよ」
あれっ?
…どこかで見た場面。
考え込んでいる沙絵莉をよそに、彼女の身体はぴょこんと起きあがった。
そんな気などなかった沙絵莉は、ぎょっとして身を固めた。
「うさぎさん、おっはよう」
沙絵莉の口からそんな言葉が飛び出た。
彼女の手は、パジャマの胸のところにくっついているうさぎのアップリケを、トントンと楽しげに叩き続けている。
このうさぎのアップリケ!
これは彼女が幼稚園の頃のお気に入りのパジャマではないか?
沙絵莉の意思とは関係なく動く身体が、顔を上げた。
腰に手を当てた母が、目の前にいた。
えっ? お母さん、わ、若いよね?
それに背が…見上げるほど高い。
…これって、私が縮んでるの?
うっそ!? な、なんで?
「デパートより専門店のブティックがいいわね。駅前の…なんてったかしら。まあいいわ。場所はわかるんだから。そのあとアリス館に行って、新しいマグカップも買ってあげるわよ」
彼女の意志に関係なく、『沙絵莉』はぱっと明るい笑顔を浮かべた。
母親がこのうえなく幸せそうな顔で微笑み、その笑みに、沙絵莉の胸がジンと疼く。
お母さん…
「ピンクのね。チューリップのがいいな。うーんと、やっぱり、うさぎさんがいいかなぁ」
ほっぺたにちっちゃな人差し指を当てて、生意気にも、深刻そうに悩むふりをする幼い自分。
「見て決めたらいいわ。さあ」
笑いを堪えて差し出された母の手を、『沙絵莉』が握りしめる。
身体の周りでやさしい旋風が巻き起こり、次の瞬間、アリス館にいた。
手には大きなブティックの袋を、半ぱ引きずるようにして提げている。
ふんふんと機嫌よくハミングしながら、『沙絵莉』が小さな手で紙袋の口を開き、中を覗いた。
これって…
一年生の春には、つんつるてんで着られなくて、大きくなった自分が歯がゆくて泣いた、あの桜色のコート。
はち切れそうなほど若さを発散している母は、これはどう、あれはどうと、高い棚からカップを手に取っては彼女の前に差し出して見せる。
その明るい瞳に翳りはない。しあわせそうだ。
そうだった。
母はいつも、とても楽しげでしあわせそうだった。
夫がいないことを哀しんだり嘆くこともなく…
いや、それどころか、別れた夫のことを、いつも気にかけていた。
「これは、いやっ」
その自分の口から飛び出た言葉に、沙絵莉は我に返った。
黄色い可愛いネコのカップが目の前にある。
『沙絵莉』は、母からカップを差し出されるたびに、いやだいやだと首をぶんぶん振るばかりだ。
それでいいじゃないの。かわいいし。まったくわがままな子ねっ!
わがまますぎる自分に苛立ち、沙絵莉は怒鳴りつけた。
もちろん、我がままっ子の『沙絵莉』には届かない。
もおっ!
どうにもならない事態に、いらついていると、ようやく気に入ったのがあったのか『沙絵莉』がこくんと頷いた。
同時に、困った顔をしていた母親の顔が明るく輝く。
その笑顔に胸がキュンとした。
この場面は、現実にあったことだ。
そう思うと、わがままな自分がなおさら歯痒く、そのぶん母に申し訳なくて堪らない。
お、お母さん、ごめんね。
こんなわがままでごめんなさい!
沙絵莉は、母親に向かって大きな声で叫ぶように謝った。
涙が湧きあがる感覚を覚え、沙絵莉は手で涙を拭おうとしたができなかった。
ふっと辺りが暗くなり、沙絵莉が暗闇をぼんやりと見つめていると、しだいに明るくなってきた。
また場所が変わっていた。
彼女ははっとして喘いだ。
母親が泣いている。そして、父親が母の身体を抱き締めてやさしく揺すっていた。
ここは、母とふたりで暮らしていたマンションだ。
沙絵莉はドアの暗闇に佇んでいる自分に気づいた。
これは? いったいいつの場面なのか?
彼女は試しに自分の手を上げてみた。
手は自分の意志で動いた。
ということは、いまの私は、本当の自分ってこと?
そう気づいた沙絵莉は、慌ててドアの影に隠れた。
父や母に姿を見られたら、おかしなことになるのではないだろうか?
けど、以前住んでいたマンションに両親がいるなんて…
それも母が泣いていて、父が慰めるように抱きしめているなんて、おかしなことだ。
「そう泣くな」
「だって…う、嬉しくて…」
「私は戻ってきた。これからは親子三人で暮らせる」
父は母の背をやさしく叩きながら言葉を口にし、抱きしめている母を慈しむように見つめて微笑んだ。
こんなこと…ありえないし…
「あら、けど、あなた、ずっと望んでたじゃない」
背後から聞こえたその声に、沙絵莉はぎょっとして振り返った。
ええっ?
沙絵莉がいる。けれど中学生くらいの沙絵莉だ。
こ、声なんか出したら、両親が…
沙絵莉は『沙絵莉』に言い、焦りながら、ドアの影から両親をうかがってみた。
ふたりはなんの変わりもなく、互いを抱きしめあったままだ。
こ、こんなの…現実じゃないわ。
「それがそうでもないの」
ど、どういうこと?
「現実になるとしたら、どうする?」
そんなことをいいながら、『沙絵莉』はまっすぐな目で見つめてくる。
まさか…ありえないし…
ゆっくりと『沙絵莉』が近づいてきて、彼女に向かって手を広げてきた。
「私の中に入れば、貴方はここからやり直せるわよ」
沙絵莉は混乱し、必死に首を振っていた。
「さあ、貴方が望んでいたことが叶うのよ」
『沙絵莉』の手が触れた瞬間、彼女は振り払っていた。
ちがう。これは現実じゃない。私の願望が作りあげた幻なのよ。
「いいえ、幻なんかじゃないわ。いまの貴方はそれができるの。どんな望みも現実に出来る力を手に入れたのよ。なのに、使わない手がある? さあ、私の手を取りなさい。それだけで望みの世界が手に入るのよ」
馬鹿馬鹿しいことだと思えた。けれど、『沙絵莉』の目を見つめていると、これは真実だと感じた。
彼女は自分の手のひらをじっとみつめた。
どんな望みも、現実に出来る力を手に入れた?
…それがなんなの?
自分の望みを、他の人たちに無理やり押し付けるわけ?
沙絵莉は唇を噛み締め、目をぎゅっとつぶった。
母、そして父…美月、俊彦、陽奈…
みなの、人生が変わってしまう。
全員の、楽しげな笑い顔や、やさしい表情が浮かんでは消えてゆく。
強烈な悲しみと怒りを覚え、彼女は『沙絵莉』へと、一歩前に踏み出した。
いまのままでいい! 私は、いまのままでいい!
いまのみんなが好き! いまのままでいたい!
叫んだ途端、テレビの映像にぶれが生じたように、風景が歪み崩れだした。
マンションの部屋が激しい音を立てて瓦礫となってゆく様を、沙絵莉は茫然と見つめた。
はっとして振り返ったが、両親の姿はなく、彼女の足下の床板だけを残して、あとは漆黒の闇の世界となっていた。
闇に包まれた沙絵莉は、怖くなってその場にしゃがみ込んだ。
ひゅんと身を切られるような冷たい一陣の風が身体をかすめた。
ぶるっと身を震わせて顔を上げると、目の前に小さな『沙絵莉』がいた。
『沙絵莉』の両手を握りしめているのは、若い父と母だった。
驚いた沙絵莉は身を固めたが、三人に彼女の姿は見えていないようだった。
「ここで」
母が父に向かって言う。
彼女は周りを見回した。
歩道だ。
木枯らしが吹きすさんでいる。
目の前の建物は市役所のようだ。
「ああ」
ひどく掠れた声で呻くように言った父は、背広の腕で何度も何度もごしごしと目をこすっている。
「周吾さん。沙絵莉とはいつ会ってくれてもいいのよ」
父親は強く首を横に振った。その間も目を覆っている。
父の唇は歪み、見る者の胸が締めつけられそうな苦悶の動きを見せている。
「苦しまなきゃならない。それでなきゃ、自分を許せないんだ。それに、それに、こいつの顔を見たら…俺は…後悔する…絶対。行ってくれ。頼む」
苦痛の滲む懇願に無言で頷き、目に涙をためた亜由子はくるりと背を向けた。
母の腕に抱かれた『沙絵莉』の目が、しゃがみ込んでしまった父の背中を捉えた。
「お父ちゃま。どしたの。どっか痛いの。お母ちゃま、降りるの。降ろしてちょうだい」
『沙絵莉』は身をよじり、無理やり母の腕から降りた。そして父に駆け寄る。
父の背に、彼女の小さな手のひらが触れた瞬間、父親の背がびくんと震えた。
「触るな!」
振り返った父の、思いも寄らない怒号が『沙絵莉』めがけて飛んだ。
沙絵莉は自分が怒鳴られたような気がして、きゅっと身を縮め、手のひらで口許を覆った。
「俺はもう、お前の父親じゃあないんだぞ。はやく行ってしまえっ!」
食いしばった歯の間だから漏れ出た声は、幼い『沙絵莉』を怯えさせるに充分だった。
「…あなた」
「お前達とは赤の他人だ。戸籍がそう証明してる…い、行ってくれ…頼む」
亜由子はぐっと身体に力を入れると、大泣きしている『沙絵莉』をすくい上げ、ぎゅっと抱きしめて歩道を走り出した。
ふたりの姿は、大きな銀行の角を曲がってすぐに見えなくなった。
沙絵莉は、父親に視線を戻した。
固まっていた周吾の背が呼吸したためか、大きく震えを帯びて上下した。
父はコンクリートの歩道に拳を打ち付けはじめた。
拳に血がにじみ出しても止めようとせず、「ちくしょう。ちくしょう」と叫び続けている。
涙が溢れてならなかった。
沙絵莉は何も考えられず、父の背に手で触れようとしたが、その手は父の身体を突き抜けただけだった。
これも私の勝手な願望? …ただの幻?
沙絵莉は泣きながら呟いた。
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」
彼女はその声に振り返った。
『沙絵莉』が立っていた。いまの彼女と同じ『沙絵莉』だ。
周囲はすでに変わっていた。
母親の田舎の、昔の田園風景だった。
メダカをすくって遊んだ小川に、木の葉がゆらゆらと揺れて流れてゆくのを、彼女は目で追った。
「愛を拒んでた…これまでのあなたは。みんながあなたに向かって愛を差し出しているのに…、あなたは受け取ろうとしなかった。自分が欲しい愛はこれではないと…」
そう言うと、『沙絵莉』は小川をぽんと身軽く飛び越えて向こう岸に立った。
ゆっくりとしゃがみこんだ『沙絵莉』は、おおばこの葉を摘み、指の先でくるくると回す。
「そしてみんなへの愛は…しまいっぱなし。怖かったのでしょ? あなたは恐れてた…自分の差し出す愛を拒絶されることを…」
おおばこの葉をそっと小川に浮かべ、『沙絵莉』はゆらゆらと流れてゆくのを見つめている。
彼女もしゃがみこんだ。
視界がぼやけはじめ、沙絵莉は自分が泣いていることに気づいた。
「人は愛によって傷つくかもしれない。でもそれだけかしら…?」
『沙絵莉』の声が途絶え、彼女はすぐに顔を上げた。が、すでに姿はなかった。
沙絵莉は小川の流れに目を凝らした。
それが消えて無くならなかったことがありがたかった。
沙絵莉は立ち上がった。
ずいぶん長いこと、せせらぎを耳にしながら小川の岸で考え込んでいたような気がする。
「ありがと」
彼女は、もうひとりの不思議な『沙絵莉』に、心から感謝した。
限りない開放感を感じた。
顔が自然と大きく笑み崩れる。
沙絵莉はくるりと一回転し、首を傾けた。
アークはどこだろう?
彼に逢わなければ…
|
|