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第1話「心強い味方」
「おかえりなさいませ」
連絡をいただいた時刻に主が戻られ、善一は余裕をもって出迎えた。
昨日は、昼食も夕食もいらないとおっしゃり、ワインを手土産にされて、主はどこぞに出向かれた。
いったいどこにゆかれたのか?
それはイチゴヨーグルトの君と関係していたのか?
など、気になるものの、使用人の分際で、そのような差し出がましい質問など許されない。
「……ああ」
うん?
お辞儀していた善一は、主の覇気のない返事に、頭を上げた。
爽様はすでに善一の前を通り過ぎ、私室へと向かわれる。
何か良くないことでも起きたのだろうか?
藍原から、なんの知らせも受けていないし、仕事絡みで大きな問題が持ち上がったというわけではないはずだが……
何事かありましたか? と聞いてみたいが……
迷いながら主のあとをついてゆき、ともかく、まずは無難な質問を向けてみることにする。
「今宵の夕食は、何時ごろがよろしいでしようか?」
「いつでもいい」
ずいぶんと、投げやりにおっしゃる。
「それでは、すぐに用意させましょう」
「ああ。……それと、吉田」
「はい」
「イチゴヨーグルトは必要ないからな。もちろん朝食もだ。今夜は出かけないからな」
キッパリと口にされる声には、苛立ちがこもっていた。
善一は顔をしかめた。
これは、これは……なんとしたことか……
爽様は、イチゴヨーグルトの君と、喧嘩をなさったようだ。
すでに取り返しのつかないほどの、仲違いをなさっていないといいのだが……
そう考えながらも、やはりな。という気もしないでもない。
イチゴヨーグルトの君にたいして、あまりにつれない態度ばかり取っていたら、愛想をつかされてしまうのではないかと、危惧していたのだ。
お叱りを覚悟で意見を言わせていただこうか、と迷っているうちに、爽様は自室にこもってしまわれた。
仕方なく引き返し、その足で厨房にゆく。そして、大平松に夕食の準備ができ次第、爽様は召し上がると伝える。
「夕食はもう準備できておりますよ。それで、イチゴヨーグルトですが、夕食時にお出ししたほうがいいですか? それとも、今夜もイチゴヨーグルトと朝食を持って、お出かけになるんですかね?」
爽様には、必要ないと言われたわけだが……
「ああ、両方とも準備しておいてくれ」
イチゴヨーグルトの君のもとにお帰りになるよう、なんとか爽様を説き伏せなければなるまい。
「承知しました」
返事を聞いて厨房から出たが、すぐに大平松が追ってきた。
「吉田さん」
「うん? なんだね?」
「爽様は、ワンルームで寝泊まりなさっておいでなんでしょうか?」
「どうしてそんなことを聞く?」
「いえね……ほら、大奥様がここにおいでの間は、爽様が戻られなかったのもわかるんですが……もうお帰りになったのに、どうして毎晩お出かけになるのかなぁと、不思議になって」
お前、ようやくそこに気づいたのか? と言いたい。
「ワンルームへの出入りも禁じられていますし……そこらへん、吉田さんはどう考えておいでなんですか? 不思議だってことに気づいていないなんてことはないですよね?」
こ、この男ときたら……
お前よりも、この私がうかつだとでも言いたいのか?
善一は凍るような眼差しを大平松に向けた。
すると、大平松がビクリとして身を引く。
「そんなことくらい、私はとうの昔に気づいている。お前ときたら、今頃、そんなことを言い出すとは……呆れるな」
「な、なら……ど、どんな理由があるっていうんです? わかってると言うなら、教えてくださいよ」
大の男が、唇を突き出して拗ねたように言う。
「爽様のプライベートだからな。私からは言えない。お前自身で気づくことだな」
「そ、そんなぁ」
大平松は情けない顔で肩を落とす。
「すぐに食堂にお連れする」
「わかりました」
不服交じりの返事をする大平松に背を向け、善一はその場から立ち去った。
あー、スカっとした。
危うくスキップを踏んでしまいそうなほど、心を弾ませて歩いていた善一は、問題がそのままなことに気づいて立ち止まった。
うーむ。どうしたものか……
悩みながら歩き、主の部屋に到着してしまった。
夕食の準備ができたことをお知らせし、食堂まで一緒に移動する。
その間も、なんとか話を切り出し、説得をと思うものの、何も言えぬままだった。
爽様が夕食を召し上がる中で、大平松が余計なことを言い出し、事態がさらにまずくなったりしないようにと、彼には食堂に顔を出すのを禁じた。
爽様は食欲があまりないご様子で、結局メインを半分近くお残しになり、部屋にひきとってしまわれた。
大平松が不必要なほどしょげたのは言うまでもない。
頼んでおいたイチゴヨーグルトと朝食の包みを、しょんぼりと肩を落として手渡してきた。
「大平松、爽様は今日、思うようにならぬことがおありだったらしい。それで食欲がなかっただけのこと。お前の料理に問題があったわけではないのだから、気にすることはないぞ」
「よ、吉田さん」
自分より一回り以上大きな男が、善一の胸に飛び込んできた。
危うく吹っ飛ばされそうになりながらも、善一は大平松の肩を、よしよしと叩いて慰めてやる。
単純な大平松はすぐに復活し、善一はひとまずイチゴヨーグルトだけ手にして、主の部屋に向かった。
やはりここは、爽様のため、クビを覚悟で一言申し上げねばなるまい。
爽様はあの性格であられる。俺様的お考えのお方であるし、常に人に尽くされる立場で、人に尽くすという経験などおありではない。
だが、恋愛関係というのは、主従とは違う。
爽様が主であろうとなされば、お相手の方との間に歪が生じるに決まっている。
いまの爽様には難しいことなのだろうが、対等な関係を育めるようにおなりにならねば……
鼻息荒く歩いていたが、徐々に勢いが弱まる。
爽様からお暇をいただいてしまったら……吉田善一、生きることに楽しみを見いだせなくなる……
そ、そうだ。藍原に頼んでみるというのはどうだろうか?
私より、爽様に意見を言える立場にあるし……
い、いや、駄目だな。ことが恋愛事では、藍原は役に立たぬような気がする。
そうなると、身近なところで爽様に意見を言うことのできる人物というと、おひとりしかいない。
祖母であられる、羽歌乃様だ……
だが、羽歌乃様にイチゴヨーグルトの君のことをお伝えするわけには……
あれこれ悩んでいるうちに、主の部屋近くまできてしまった。
そこからは、気配を悟られぬように、忍び足で進む。
ドアの前に辿り着いた善一は、周囲を見回して誰もいないことを確認し、そっとドアに片手をつき、左耳をくっつけた。
しばし耳を澄ます。
うん? なにやらブツブツ呟いておいでのようだが……さすがに聞き取れぬな。
もっと聞こえてこないかと、もっとしっかり耳を貼りつけたとき、ドガッ! という大きな音と「うっ! くそっ!」という罵り声が聞こえた。
お、おやおや、爽様ときたら、苛立ちの挙句、何かに当たられたらしい。
やはり、このままにはしておけぬ。爽様のため、ここは腹を括らねば。
決意した善一は、強めにドアをノックした。
「誰だ?」
「吉田です。爽様、入ってもよろしいでしょうか?」
決意したつもりが、おずおずと口にしてしまう。
「入れ」とのお言葉をいただき、一瞬ドアから身を引きかけた善一は、ぐっと前に乗り出し、ドアノブを掴んだ。
よ、よし!
気合を入れ、中に入る。
不機嫌そうに口元を結んでおられる主の側に、善一は歩み寄って行った。
「爽様……イチゴヨーグルトをお持ちいたしました」
「お前、耳が悪くなったのか、必要ないと伝えただろう」
苛立つように言われたが、ぐっと踏ん張り、主を見つめて口を開く。
「爽様、イチゴヨーグルトの君と、何があったかは存じませんが、素直になられたほうが……」
「ちょっと待て。どうしてそういう話になる? さっぱり意味がわからないんだが」
「イチゴヨーグルトの君との間に、何かあったということはわかります」
「お前は霊能力者か」
「違います」
きっぱりと否定し、「ただ……」と続ける。
「爽様は、ひどく苛立っておいでです。そして今夜は屋敷に泊まるとおっしゃる」
「苛立ってなどいない。屋敷に泊まるのは、ここが私の家だからだ」
苛立っておいでなのは、お目にして、こうもあからさまなのに……否定なされても……
「爽様、イチゴヨーグルトの君は、爽様が帰って来られないことに、きっといま、ひどく哀しんでおられますよ」
「哀しんでなどいるものか! 楽しんでいるさ」
「爽様……」
「いいか吉田、ここは私の家だ。執事頭の立場で、主人に対して、彼女のところに帰れなどと言うとは、どういうことだ?」
「私の立場で、申し上げたのではありません。イチゴヨーグルトの君が、爽様のお帰りを……」
「そうだな。確かに、イチゴヨーグルトは待っているだろうさ。大好物だからな」
皮肉るように口にされた爽様は、善一が手にしているイチゴヨーグルトに、憎らしそうな視線を向けられる。
おやおや……
「おやおや」
善一が心で思っていたまま声が聞こえ、彼はぎょっとして後ろを振り返った。いつやってきたのか、藍原がいた。
「イチゴヨーグルトにヤキモチを焼いていらっしゃるのですか?」
「藍原君」
執事頭として、思わず諌めを込めて藍原に呼びかけた善一だが、爽様にたいしてずけずけとものが言える藍原を、この場の英雄のように見つめてしまう。
だいたい、いま藍原が口にした言葉は、善一が思っていたことと同じであれば……爽様に対して失礼だぞと、咎められもしない。
英雄藍原は、善一の前に出て、爽様と相対した。
心強い味方を得られて、善一は心の底からほっとした。
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